8月10日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2土曜日 旧暦  7月 7日、先勝、月齢  5.7 
グレゴリオ暦で年始から223日目、年末まであと143日。
誕生花 ハイビスカス・ルコウソウ。

七夕の節句(旧暦)。
旧暦の七月七日。新暦で祝われる地域が増えてきているが、旧暦日で祝う地域も多い。本来は星祭りの性格もあることを考えると、旧暦の日付の方が晴れる可能性は高そうである。古くは、祖霊信仰の行事であった「棚機(たなばた)」と考えられる。
道の日。
1986(昭和61)年に建設省(現在の国土交通省の前身の1つ)の内部部局で、道路の建設・管理を所掌する道路局が制定したもので、1920(大正9)年の8月10日に、日本で最初の近代的道路整備計画となる「第一次道路改良計画」がスタートしたことに由来する。また、8月は「道路ふれあい月間」(制定時は「道路をまもる月間」)でもあるため、その期間内に設けるという意味合いもあった。「道路ふれあい月間」とは、道路の役割、及び重要性を再認識してもらい、さらには、道路をいつくしむという道路愛護思想の普及、及び道路の正しい利用の啓発を図るための月間である。期間は、毎年8月1日から8月31日まで。「道路を守る月間」は当初、毎年7月10日から8月9日までに実施されていた。これは、国土建設の大切さと理解と関心を高めるために制定されていた、国土建設週間の実施に合わせたためであるが、1969(昭和44)年に、夏休み等における啓発活動を実施する観点から、8月1日から8月31日までに変更されている。国土交通省の発足を契機に、2001(平成13)年に「道路ふれあい月間」と改称された。期間中は、各種の啓発活動が行なわれる他、道路愛護団体に対する表彰が行なわれている。道について理解と関心を持ってもらうために、毎年8月10日の「道の日」には、全国各地でマラソンやウォークラリー等、様々なイベントも企画され、恒例行事としての運動も展開されている。制定された1986(昭和61)年と翌1987(昭和62)年には、道の日の制定を記念して「日本の道100選」(日本の特色ある優れた道路104本)が選定された。また、「道の日」実行委員会が主催する「道の日」中央行事が、毎年東京都内で開催されている。なお、「日本の道100選」は、1986(昭和61)年度に歴史性、及び親愛性を基準に53本、1987(昭和62)年度に美観性、及び機動性を基準に51本の道路が選定された。選定は、各年度、各都道府県がそれぞれ3本の道路を推薦し、その中から「道の日」実行委員会、及び有識者からなる「道の日」選定委員会によって行なわれた。選定された道路は、各年の道の日に建設大臣から顕彰されると共に、東京オリンピック(第18回オリンピック競技大会)のシンボルマークをデザインしたことで知られるグラフィックデザイナー、亀倉雄策がデザインした顕彰プレートが交付された。人々が生活する場所には、自然発生的に道ができた。それ以外の場所では、「獣道(けもの道)」が次第に踏み固められ、川沿いや尾根伝い、低い峠等に主要な道路が形成された。 7世紀頃からは、計画的な道路が作られるようになった。646(大化2)年、第36代天皇、孝徳天皇の「改新の詔」により、地方に国司・郡司を置き、中央と地方の官庁とを結ぶ「駅路」が整備されることになった。駅路には30里(約16km)毎に駅が設けられ、輸送機関として駅夫・駅馬が置かれた。駅路は、京(畿内)を中心に放射状に作られ、特に、山陽道・東海道・東山道・山陰道・北陸道・西海道・南海道の7路線を「七道駅路」として重点的に整備した。これら七道の呼称は、道路を指すだけでなく、その道路によって結ばれる国の総称としても用いられた。この内、京と大宰府とを結び最重要視されていた山陽道を「大路」、東国へ向かう東海道・東山道を「中路」、その他を「小路」と呼んだ。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、山陽道に代って東海道が重要視されるようになった。しかし、この時代には、関東各地と鎌倉とを結ぶ鎌倉街道が作られた他は、大規模な道路整備は行なわれていない。戦国時代には、各大名が領内の道路の整備を行ない、特に、武田信玄が積極的に道路整備を行なっているが、軍事的な理由等から全国的な道路整備は行なわれなかった。そんな中、織田信長は、全国統一を目指して道路整備の方針を制度化し、この思想が江戸幕府に引継がれることになる。江戸時代に入ると、江戸幕府は全国的な道路整備を行なった。その中心となるのが、幕府直轄の五街道である。五街道は、第4代将軍徳川家綱の時代に定められたもので、江戸の日本橋を起点とする東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の5つの街道のことである。五街道に繋がる街道(付属街道)の内、主要なものを「脇往還」、又は「脇街道」という。五街道とその脇街道で、本州中央部のかなりの地域を網羅していた。五街道沿いには、原則として天領・親藩・譜代大名が配置された。さらに、交通上重要な箇所には関所や番所を置いた。明治維新によって、道路交通の制約が大きく緩和された。1869(明治2)年、全国諸道の関所が廃止されて制度面での交通障害が除かれた。また、それまで車両の使用に課されていた制約が除かれ、この結果、従前の駕籠に代わって、1870(明治3)年に筑前国鞍手郡中泉村(現:福岡県直方市)生まれの和泉要助らが考案した人力車が、軽便な交通機関として急速に普及した。他にも、都市では、上流層が馬車を用いるようになり、主要都市間や都邑(都会)近傍には、乗合馬車が運行されるようになった。しかし、河川への架橋や、山岳地帯における道路整備の促進は、技術・資金の制約から困難で、遅々として進まなかった。また、当時の日本には、長大な永久橋の架橋や、長大トンネルの掘削、道路舗装等に関わる技術基盤が乏しかった。明治政府も長距離の交通手段としては、当時においては、より速度や輸送力に優れていた鉄道の建設を優先し、また、沿岸部では、内航航路が輸送に占める比重も大きかった。道路の中では、限られた幹線が、馬車交通を辛うじて可能とする程度に整備されたに過ぎなかった。第二次世界大戦前までは、都市部以外の国道の整備は進んでいなかった。しかし、1956(昭和31)年の「日本国政府建設省に対する名古屋・神戸高速道路調査報告書(ワトキンス・レポート、元アメリカ統計学会会長ラルフ・J・ワトキンス率いるワトキンス調査団が建設省に提出した、日本の道路事情についての報告書)」が、日本の道路事情の悪さを指摘し、これが道路整備を進めるきっかけとなる。道路に関する一般法、「道路法(昭和27年6月10日法律第180号)」では、道路を構成するものは、路面、路肩、法敷(のりしき)の他、トンネル、橋、渡船施設、道路用エレベーター等の道路と、一体としてその効用を全うする施設・工作物、及び、横断歩道橋等、道路の附属物で、当該道路に附属して設けられているものも、道路に含むとしている。「道路法」で定義される道路として認めることを、高速自動車国道と一般国道は「道路指定」、都道府県道と市町村道は「道路認定」といい、「道路法」が適用される都道府県道、市町村道を「認定道路」と呼ぶ。いわゆる公道であり、「道路構造令(昭和45年10月29日政令第320号)」による幅員・構造等の基準が定められている。なお、「道路法」第89条の主要地方道は、「道路法」上の道路の種類ではなく、国が道路整備の必要一定範囲内で補助する道路として、大臣が指定した主要道路のことであり、都道府県道の中には、一般道路と主要地方道が含まれる。