8月4日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0025年 - 地方豪族の出身で、民衆叛乱を吸収して自らの勢力とした劉秀(光武帝)が、中国漢朝(後漢)を再興する。光武帝は、民衆は疲弊し、それが兵糧を給じる軍兵は、相対的に多いため、地方の駐在軍を廃止し、徴兵制から少数の傭兵制へと切換える。また、本来は中継ぎが役目である尚書という役職を使い、大臣の権力を奪って、皇帝へと集中させる。しかし、後に光武帝が若くして亡くなると権力は真空となり、皇帝の権力を利用できる宦官(去勢[生殖に必要な部位を切除し、種として生殖不能な状態とすること]を施された官吏)と外戚(皇帝の母親、又は妃の一族)による権力争いが、それに加え、儒教(古代中国の思想家、孔子を始祖とする思考・信仰の体系)の振興による、地方豪族出身の知識人官僚の反抗が、展開されるようになる。
0070年 - エルサレム攻囲戦: ローマ帝国軍がエルサレム(現在のイスラエル東部に所在)の第二神殿を破壊。
0367年 - ローマ皇帝ウァレンティニアヌス1世が、7歳の息子グラティアヌスを西方の正帝とする。
0897年 - 敦仁親王(第59代天皇、宇多天皇の第一皇子)が宇多天皇から譲位され、第60代天皇、醍醐天皇として践祚(天皇の位を受継ぐこと)。
1265年 - 第二次バロン戦争: イーヴシャムの戦い。イングランド王ヘンリー3世に対して、レスター伯シモン・ド・モンフォールを中心とするイングランド諸侯が起こした反乱で、一旦は反乱側が支配権を握るが、イーヴシャム(現在のイギリス南部に所在)の戦いでシモン・ド・モンフォールが戦死した後、王権は回復する。
1578年 - アルカセル・キビールの戦い。北アフリカ北西部に位置するモロッコの北部、クサル・エル・ケビール(ポルトガル語では、アルカセル・キビール)で、ポルトガルが、サアド朝(モロッコを支配していた王朝)に敗れ、ポルトガル王セバスティアン1世が戦死する。
1590年 - 北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、小田原城(現在の神奈川県小田原市に所在)が開城して、豊臣秀吉の天下統一が完成する。約20万の大軍で関東へ遠征した豊臣秀吉は、関東の戦国大名で、最大時には約240万石の一大版図を支配していた後北条氏が拠点とした小田原城を総攻撃する。隠居であった北条氏政と、当主の北条氏直が指揮する後北条氏は、電撃的に西日本を統一した豊臣秀吉に対して、他の大大名と同様、大名家の家格を維持すること、領民に手を出さないこと(民政不介入)を条件に、恭順の意思を示す。しかし、上野国名胡桃(現在の群馬県利根郡みなかみ町に所在)で1589年に、予てより真田家(豊臣政権下において所領を安堵されていた)との間にあった領土争いが暴発し、後北条氏家臣の猪俣邦憲が、独断で真田家の名胡桃城を攻撃して、これを占領してしまう(名胡桃城事件)。この事件は、大名家に対して私戦を禁止した惣無事令に背いたとして、豊臣秀吉の小田原征伐を招いくこととなる。豊臣秀吉は、圧倒的な兵力と物資で小田原城を取囲むと共に、別働隊をもって、関東各地の後北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち、逆襲しようとした後北条氏の意図を挫き、約3ヶ月の篭城戦の末、殆ど無血で開城させる。この篭城戦において、後北条氏側が、和議と抗戦継続を巡って議論しながら、一向に結論が出なかった故事は、小田原評定という言葉になっている。北条氏政は切腹したが、北条氏直は、徳川家康と昵懇の仲が故に助命され、紀伊国高野山(現在の和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町に所在)に追放されている。小田原城開城後、豊臣秀吉は、鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り、鶴岡八幡宮に奉幣する。さらに、奥州を平定した源頼朝に倣って宇都宮城(現在の栃木県宇都宮市に所在)へ入城し、宇都宮大明神に奉幣すると共に、参陣した関東、及び奥州の諸大名の措置を下す(宇都宮仕置)。後北条氏の旧領は、ほぼそのまま徳川家康に与えられる。  
1639年 - 第五次鎖国令発布。ポルトガル船の入港が禁止され、江戸幕府による貿易管理が完成する。鎖国とは、江戸幕府が、キリスト教国(特に、布教に力を入れるスペインやポルトガル等のカトリック国)の人の来航、及び、日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、並びに、そこから生まれた日本の孤立状態と、日本を中心とした経済圏を指す。幕末に「開国」を主導した、近江彦根藩第15代藩主で、大老(将軍の補佐役で、臨時に老中の上に置かれた最高職)の井伊直弼は、「鎖国」のことを「閉洋之御法」とも呼んでおり、籠城と同じようなものと見做している。対外関係は、朝鮮王朝(朝鮮国)、及び、琉球王国(沖縄諸島や大東諸島、先島諸島等の琉球諸島を中心に存在した王国で、1609年に薩摩国/大隅国薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入ったが、対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた、独自の文化を築き上げた)との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)、及び、貿易に力を入れていたオランダとの間の通商関係に限定されている(ヨーロッパ諸国では、オランダのみが日本との貿易を継続することとなっている)。鎖国というと、オランダとの貿易が取上げられるが、実際には、江戸幕府が認めていたオランダとの貿易額は、中国の約半分である。一般的には、1639年の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では、制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である。
1693年 - フランスの修道士ドン・ペリニヨンが、発泡ワインシャンパンを発明(伝承による日付)。
1704年 - スペイン継承戦争: イベリア半島の南東端にあるジブラルタルが、イギリスとオランダにより占領される。
1782年 - オーストリアの作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが、ドイツ生まれのソプラノ歌手、コンスタンツェ・ウェーバーと結婚する。
1789年 - フランス革命: 国民議会(第三身分とされた平民を中心として形成された議会)が、アンシャン・レジーム(絶対王政期のフランスの社会・政治体制)の廃止を採択する。
1790年 - アメリカ沿岸警備隊(USCG)の前身、税関監視艇局が設立される。後に、税関監視艇部の他にも、海上保安を担当する連邦政府機関が設置され、多彩な海上保安機関が並行する形で活動したことから、組織の整理統合が図られ、アメリカ沿岸警備隊(USCG)が創設されている。アメリカ沿岸警備隊(USCG)は、アメリカ軍を構成する陸軍・海軍・空軍・海兵隊に次ぐ5番目の軍隊(準軍事組織)であり、最小規模の武装組織でありながら、法の強制執行権を有し、捜索救難、海洋汚染の調査から沿岸整備や監視まで幅広い任務に当たっている。
1844年 - 水野忠邦が、江戸幕府の老中首座に返り咲く。遠江国浜松藩第19代藩主であった水野忠邦は、1834年に本丸老中、1839年に老中首座となり、江戸時代の三大改革の1つに数えられ、貨幣経済の発達に伴なって逼迫した幕府財政の再興を目的とした改革、天保の改革に着手する。しかし、その改革はあまりに過激で、庶民の怨みを買ったとされ、1843年には、周囲の反発を受けて老中を罷免され、失脚する。水野忠邦に代わり、老中首座となった下総国古河藩第4代藩主、土井利位は、一時的に幕府財政を黒字に好転させる等、手腕を発揮するが、火災に遭った江戸城本丸の再建のための資金調達に失敗し、江戸幕府第12代将軍徳川家慶の不興を買う等して、水野忠邦が老中首座に再任される。しかし、水野忠邦に昔日の面影は無く、重要な任務を与えられる訳でもなかったため、御用部屋でもぼんやりとしている日々が多かったとされる。
1892年 - アメリカ人女性、リジー・ボーデンの実父と継母が、アメリカ合衆国北東部、マサチューセッツ州フォールリバーにある自宅で殺害されていることが発見される。当時、自宅にいたリジー・ボーデンの証言には一貫性がなく、その行動は疑わしいところがあり、リジー・ボーデンは殺人罪で起訴される。状況証拠は数々あったが、結局、リジー・ボーデンは裁判では無罪となるが、周囲から村八分となり、追出されている。この事件と、その後の裁判や過熱報道は広く知られたものとなり、アメリカの大衆文化や犯罪学に大きな影響を与えることとなる。
1899年 - 「関税法施行規則(明治32年6月30日勅令第319号)」の施行により、博多港(現在の福岡市に所在)が、一般開港外の対朝鮮の特別輸出港の指定を受けたことにより開港する。近年の博多港は、九州地域の経済を支える中枢港湾として、東アジア諸港における国際競争力の確保から、国際海上コンテナターミナルの整備を進めており、高度物流の拠点港湾を形成している。外国人旅客数、及び、クルーズ船寄港数は日本一となっていて、兵庫県神戸市にある神戸港より西の西日本では、貿易額、コンテナ取扱量、共に首位である。他にも、清水港、武豊港、四日市港、下関港、門司港等が開港する。
1899年 - 日本初の「ビヤホール」が、東京府東京市京橋区銀座(現在の東京都中央区銀座)に開業。