7月29日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第5月曜日 旧暦  6月24日、大安(甲午)、月齢 23.2 
グレゴリオ暦で年始から211日目、年末まであと155日。
誕生花 ダリア・アンスリウム(赤)・サボテン・バラ(黄)・ブーゲンビリア(白)。

凱旋門の日。
1836(天保7)年7月29日、アウステルリッツの戦い(1805[文化2]年、オーストリア領モラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ[現在はチェコ領で、チェコ南東部に所在するスラフコフ・ウ・ブルナに相当]郊外で、フランス第一帝政皇帝ナポレオン1世[ナポレオン・ボナパルト]率いるフランス軍が、ロシア・オーストリア連合軍を破った戦い)に勝利した記念として、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)が1806(文化3)年に建造を命じた、フランスの首都パリ北西部、シャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場にあるエトワール凱旋門が完成したことに由来する。完成したのは、1830(文政13)年7月27日から7月29日にフランスで起こった市民革命、フランス7月革命により王位に就いた、オルレアン朝(七月王政)フランス王国国王ルイ・フィリップ1世の王政復古時代である1836(天保7)年で、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)はエトワール凱旋門が完成する前に既に死去しており、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)がこの門をくぐったのは、1840(天保11)年にパリに改葬された時であった。エトワール凱旋門は、古代ローマの凱旋門に範を取ったもので、新古典主義(ギリシャの芸術を模範とする、荘重な様式を求めた芸術思潮)の代表作の1つであり、パリの象徴的な建造物の1つでもある。単に「凱旋門」と言えば、このエトワール凱旋門を指すことが多く、世界有数の観光名所となっている。この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星」のように見えるので、この広場は「星の広場(エトワール広場)」と呼ばれていた。但し、現在この広場は、「シャルル・ド・ゴール広場」と名称が変更になっている。なお、「凱旋門」の直訳が「戦勝のアーチ」であることでも分かるように、「凱旋門」自体は戦勝記念碑である。そのため、凱旋門はパリだけでも、カルーゼル門、サン・ドニ門、サン・マルタン門等、多数存在する。因みに、シャンゼリゼ通りとこのエトワール凱旋門の延長線上のラ・デファンス(フランスのパリ近郊にある都市再開発地区)には、門のような形をしている超高層ビル「グランダルシュ」があるが、これは戦勝記念碑ではない。日本では、「凱旋門」が「エトワール凱旋門」を示す固有名詞と化してしまったため、実際は「凱旋門」ではないこの「グランダルシュ」までが、「新凱旋門」と称されるようになる。但し、設計者ヨハン・オットー・フォン・スプレッケルセンと建築技師エリック・ライツェルは、建造物が20世紀の「凱旋門」としてヒューマニズムの象徴となることを願って設計したという。「グランダルシュ」は、1985(昭和60)年に着工され、人権宣言200周年となる1989(平成元)年7月に落成記念式典が執り行なわれた。門のような形をしており、側面と内部は全面ガラス張りになっている。「グランダルシュ」の建物は、幅108m、高さ110m、奥行き112mで、真ん中の部分に、横に突き抜ける巨大な空間がある正八胞体の形をしている。中心の空洞部は、ノートルダム聖堂(フランスの首都パリにあるローマ・カトリック教会の大聖堂)がすっぽり収まる程の大きさである。4次元空間から3次元の世界が見渡せるような巨大な門、というイメージで設計された。一見すると、単なるモニュメントのようにも見えるが、超高層オフィスビルとなっていて、最上階の35階に展望台があり、パリの観光名所ともなっている。パリにある凱旋門の1つ、カルーゼル凱旋門は、テュイルリー宮殿(16世紀に建設が始まり、約100年の時を費やして完成した宮殿)の門として建設された。1806(文化3)年から1808(文化3)年にかけて、前年のナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の勝利を祝するために建設された。カルーゼル凱旋門の近くにあって、より有名なエトワール凱旋門も1808(文化3)年に設計されたが、高さ約19m、幅約23メートル、奥行約7.3mであるカルーゼル凱旋門に対し、エトワール凱旋門は、高さ約50m、幅約45メートル、奥行約223mで、その大きさはカルーゼル凱旋門の約2倍あり、完成までに30年を要している。カルーゼル凱旋門は、いわゆる「パリの歴史軸」の東端にある。パリの歴史軸は、長さ約9kmの線で、パリの街の北西4分の1円の殆どを占めており、言わばセーヌ川右岸の背骨である。西に目を向けると、凱旋門はコンコルド広場のオベリスク、シャンゼリゼ大通りの中央線、エトワール広場のエトワール凱旋門、また、カルーゼル広場から直接は見通せないが、ラ・デファンスの新凱旋門「グランダルシュ」を真正面に捉えている。このように、「パリの歴史軸」は、凱旋門に始まり凱旋門で終わっている。 しかし、カルーゼル凱旋門が建設された当時は、カルーゼル広場からは西方が何も見通せなかった。テュイルリー宮殿の中央の一角が、西への視線を遮っていた。テュイルリー宮殿が1871(明治4)年、史上初の「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言したパリ・コミューンの際に焼払われ、その残骸が撤去されて初めて、現代にも残る「大きな歴史軸」が、カルーゼル宮殿やルーヴル宮殿にまで開かれた。セーヌ川の北岸には中世以来の要塞があり、14世紀頃からは改造されて王宮となった。これが、かつて歴代フランス王の王宮として使用されていた宮殿、ルーヴル宮殿(宮殿には、世界最大級の美術館[博物館]であると共に、世界最大級の史跡の1つ、ルーヴル美術館[フランスの国立美術館]が収容されている)である。宮殿は、歴代の王達によって増改築されたが、16世紀には手狭となっていた。そこで、ルーヴル宮殿の西約500mの城壁外にテュイルリー宮殿の建設が始められた。テュイルリー宮殿の西には、幅300m、奥行き500m程の庭園が設けられた。17世紀後半、テュイルリー庭園は、宮殿の軸を中心に、左右の対称性を強調した形に改められた。また、庭園から西へは、中心軸を延長する形で並木道が設けられた。これは当初、テュイルリー通りと名付けられていたが、1709(宝永6)年にシャンゼリゼと改称された。1724(享保9)年には、通りはシャイヨーの丘(現在のシャルル・ド・ゴール広場)まで延長された。テュイルリー宮殿が建てられてから間もなく、テュイルリーと東のルーヴル宮殿を建物で繋ぎ、一体の宮殿としようとする構想が持上がり、1608(慶長13)年、両宮殿の南側をセーヌ川沿いに繋ぐ廊下「水辺のガルリー」が完成した。1753(宝暦3)年、ブルボン朝フランス王国第4代国王ルイ15世は、テュイルリー庭園とシャンゼリゼの間の低湿地に広場を作ることを計画し、1763(宝暦13)年には、この広場にルイ15世の銅像が設置された。広場は当初、ルイ15世広場と呼ばれ、後に革命広場、さらにコンコルド広場と名を変えた。広場を通り、テュイルリーとシャンゼリゼの軸に直交する方向には、カトリック教会のマドレーヌ寺院からセーヌ川のルイ16世橋(現在のコンコルド橋)に至る直交軸が形成された。一方、1770(明和7)年からは、シャンゼリゼの並木道がさらに西へ伸ばされ、1772(明和9)年には、ヌイイにセーヌ川を渡る石造の橋が架けられた。この時、シャイヨーの丘はシャンゼリゼの勾配を緩和するため、5m程削られている。また、ヌイイ橋の対岸のシャントコックの丘には、シャイヨーの丘と対になる広場が作られた。これが、後のラ・デファンスである。