7月27日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

政治を考える日(続き)。
事件が公になり、捜査が進んだ前後に、ロッキード事件を追っていた日本経済新聞の高松康雄記者が1976(昭和51)年2月14日、児玉誉士夫の元通訳の福田太郎が同年6月9日、さらに、元首相田中角栄の運転手である笠原正則が、同年8月2日と立続けに急死する等、マスコミや国民の間で「証拠隠滅と累が及ぶのを防ぐため、当事者の手先によって抹殺されたのではないか」との疑念を呼んだ。しかし、捜査が進む中、1976(昭和51)年5月24日に行なわれた参議院内閣委員会において日本社会党(現:社会民主党[社民党])参議院議員の秦豊より、警察庁刑事局保安課長の柳館栄に対して、福田太郎や、アメリカ中央情報局(CIA)と関係があったと言われ、ペーパー会社を経営していた日系アメリカ人のシグ片山等の、関係人物に対する身辺保護の必要性について質問が行なわれたが、「それらの人物からの身辺保護の依頼がなかったことから、特に(警察は)何もしていない」という返答しかなかった。その上、この答弁が行なわれた翌月には、福田太郎が死亡する等、再び関係人物の身辺保護の必要性が問われるような状況になったにも係わらず、警察はその後も、政治家以外の民間人に対して、表立った身辺保護を行なわなかったことから、大きな批判を呼んでいる。衆議院予算委員会における数度に亘る証人喚問や、5月14日に衆議院で、5月19日に参議院に設置された「ロッキード問題に関する特別委員会」等において、これらの証人による証言の裏付け作業が進んだ上、検察等による捜査が急激なペースで進んだ結果、事件の発覚から半年にも満たない7月から8月にかけて、前首相田中角栄や多くの関係者が相次いで逮捕され、東京地方裁判所に起訴されたが、この裁判は上告審の最中の1993(平成5)年12月16日、田中角栄の死により公訴棄却(審理の打切り)となった。事件の捜査や裁判が進むにつれ、事件関係者が発した言葉や事件に関連した符丁が全国的な流行語となった。「(全く)記憶にございません」は、衆議院予算委員会で、最重要参考人と目される国際興業の社主、小佐野賢治が喚問を受けた際、偽証や証言拒否を避けつつ、質問に対する本質的解答をしない意味をもつ、この発言を連発した。これ以降、他の証人も同等の言葉を多用するようになった。「ピーナツ(ピーシズ)」は、賄賂を受領する際の領収書に、金銭を意味する隠語として書かれていたもので、100万円を「1ピーナツ」と数えていた。「ピーシズ」は「pieces」、つまり、ピースの複数形である。「ハチの一刺し」は、元首相田中角栄の元秘書で、事件で有罪となった榎本敏夫の前妻の榎本三恵子夫人が、榎本敏夫に不利な法廷証言を行なった心境について述べた言葉である。「よっしゃよっしゃ」は、元首相田中角栄が、全日本空輸(全日空)への工作を頼まれた時に発したとされる言葉である。防衛庁(現在の防衛省の前身)では1968(昭和43)年から、海上自衛隊が使用するロッキード社製の対潜哨戒機P2V-7ネプチューン・P-2Jネプチューンの後継となる次期対潜哨戒機 (PX-L) の選定に着手し、当初、オートバイ・航空機・鉄道車両・船舶等の輸送機器、その他機械装置を製造する、日本を代表する総合重機械産業、川崎重工業による国産機と、アメリカ海軍で採用されていたロッキード社の対潜哨戒機P-3Cオライオンの2案が有力視されていたが、1972(昭和47)年10月に国産方針の白紙撤回が発表され、P-3Cオライオンの選定が事実上決定した。しかし、ロッキード事件の発覚により、政府は次期対潜哨戒機 (PX-L) を全て白紙に戻し、一から選考し直す方針を採った。そのため、海上自衛隊は、次期対潜哨戒機 (PX-L) までの繋ぎとして、P-2Jネプチューンを増産することとなった。その後、再度選定が行なわれ、1977(昭和52)年には再びP-3Cオライオンに決定し、翌1978(昭和53)年より調達を開始した。1982(昭和57)年に川崎重工業でノックダウン生産(他国や他企業で生産された製品の主要部品を輸入して、現地で組立・販売する方式)された機体が納入され、以後はライセンス生産(他の企業が開発した製品の設計・製造技術を 、別の企業が許可料[ライセンス料、ロイヤリティ]を支払ってそのまま使用し、その製品を生産する方式)に移った。本家のアメリカ海軍では、P-3Cオライオン約200機を、世界の主要海域に展開していることに対して、海上自衛隊は、日本周辺海域だけを対象にしているにも係わらず、P-3Cオライオンを約100機も運用していた。これは、日本列島が、大陸から太平洋に出る出口に位置する要衝であるからであり、冷戦(第二次世界大戦後の世界を二分した、西側諸国のアメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、東側諸国のソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造)時代から対ソ・対中戦略の最前線として、海上自衛隊は機能していた。また、日本は第二次世界大戦時に、連合国の潜水艦や機雷に海上輸送路を破壊され、戦略的に追詰められた経験を持つことも、哨戒機を重視する姿勢に繋がっている。冷戦終結による哨戒作戦の減少に伴ない、20機程度が実働任務から削減されることになり、その内の5機が、画像情報収集機OP-3Cに独自改造された。また、1991(平成3)年から1998(平成10)年にかけて、P-3Cをベースにした電子戦機EP-3に5機が、1994(平成6)年に装備試験機UP-3Cに1機が、1998(平成10)年から2000(平成12)年にかけて、電子戦訓練支援機UP-3Dに3機が改造製造された。海上自衛隊では、1998(平成10)年頃からP-3Cオライオンの機種呼称を、「対潜哨戒機」から「哨戒機」へと変更しており、対潜水艦一辺倒であった体制を改善し、不審船(日本では、日本近海で度々目撃されている、朝鮮民主主義人民共和国[北朝鮮]の工作船や、暴力団関係者による密漁・密輸を行なう船の疑いのある船舶を指すことが多い)対策や、東シナ海ガス田に対する監視強化も主要任務に挙げられている。また、2000(平成12)年からはアメリカ海軍に合わせ、白と灰色の二色塗分けに、ノーズを黒とした洋上迷彩を改め、明灰色単色の低視認性塗装が適用された。訓練機は、視認性向上のため、主翼の端は蛍光オレンジに塗装している。2023(令和5)年3月末時点の、海上自衛隊のP-3Cオライオン保有数は35機で、余剰機を改修して転用し、老朽化の進む日本航空機製造(NAMC)YS-11の各種任務型を置換える計画もあった。初期導入機体から、国産のターボファン4発機川崎重工業P-1に更新される他、現用機の一部は機齢延伸措置を行ない、6年程度延伸する計画を予定している。防衛省技術研究本部と川崎重工業が開発し、川崎重工業が製造、海上自衛隊が保有・運用する固定翼哨戒機P-1は、2013(平成25)年3月29日、厚木基地に初配備された。川崎重工業P-1は、同時に開発されるC-2輸送機とコックピット風防、主翼外翼(全体の半分)、水平尾翼、統合表示機、慣性航法装置、飛行制御計算機、補助動力装置(APU)、衝突防止灯、脚揚降システムコントロールユニットを共通化し、機体重量比で約25%が共通部品、搭載システムでは品目数で約75%が共通の装備となっている。これによって、開発費が約250億円削減できたとしている。飛行性能はP-3Cオライオンから大きく向上しており、巡航速度と上昇限度が約1.3倍、航続距離が約1.2倍になることにより、作戦空域到達時間の短縮、単位時間当たりの哨戒面積の向上が見込まれ、防衛省は、機体数が削減されても、哨戒能力が落ちることは無いとしている。