7月24日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4水曜日 旧暦  6月19日、赤口(己丑)、月齢 18.2 
グレゴリオ暦で年始から206日目、年末まであと160日。
誕生花 シャクヤク・ボタン・ユリ・スイレン・エンレイソウ。

土用丑の日(夏の土用の丑の日)。
 「土用」とは、五行(古代中国に端を発する自然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説)に由来する暦の雑節である。五行では、春に木気、夏に火気、秋に金気、冬に水気を割当てている。残った土気は季節の変わり目に割当てられ、これを「土旺用事」、「土用」と呼んだ。「土用」の間は、土の気が盛んになるとして、動土・穴掘り等の土を犯す作業や殺生が忌まれた。1年の内の不連続な4つの期間で、四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前の18日、又は19日間ずつである。各土用の最初の日を土用の入りと呼ぶ。最後の日は節分である。土用の間の内、十二支が丑の日を土用丑の日という。夏の土用の丑の日を指すことが多い。土用の期間は18日、又は19日であるのに対し、丑の日は12日に1度あるので、土用の丑の日が土用の期間に2回あるケースが出てくる。その時はそれぞれ「一の丑」「二の丑」という。日本では土用の丑の日に、暑い時期を乗切る栄養を付けるため、鰻を食べる習慣がある。暑い時期を乗切るために鰻を食べるという習慣は、現存する最古の和歌集『万葉集』にも詠まれている古いものであるが、土用の丑の日に食べる習慣となったのは、江戸時代中期頃からの風習であるという。一説によれば「丑の日に『う』の字が付く物を食べると夏負けしない」という風習があったとされ、鰻以外には瓜、梅干、うどん、兎肉(うさぎ)、馬肉(うま)、牛肉(うし)等を食する習慣もあったとされるが、今日においては殆ど見られない。鰻を食べる習慣についての由来には諸説あり、讃岐国出身の本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家、平賀源内が鰻屋のために書いた客寄せの言葉からという説が最もよく知られている。鰻にはビタミンA・B群が豊富に含まれているため、夏バテ、食欲減退防止の効果が期待できる。ただ、鰻の旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期で、秋から春に比べても夏のものは味が落ちる。実際には、土用丑の日は春夏秋冬の四季に亘ってある。しかし現在、鰻を食べる習慣があるのは、夏の土用丑の日だけとなっている。これは、平賀源内の客寄せの言葉説が起源とされる、鰻を食べる風習が「夏の土用丑の日」であったったからとされる。また、本来鰻の旬は晩秋から初冬にかけての時期のため、以前は夏に鰻は余り売れず、その販促のために旬ではないの時期に鰻を食べる風習を根付かせようとした、との説が有名である。鰻は食用にされ、日本では蒲焼や鰻丼等の調理方法が考案されて、古くから食文化に深い関わりを持つ魚である。漁業・養殖共に広く行なわれてきたが、近年は国外からの輸入が増えている。泳ぎは余り上手くなく、遊泳速度は遅い。他の魚と異なり、ヘビのように体を横にくねらせて波打たせることで推進力を得る。このような遊泳方法は蛇行型と呼ばれ、ウツボやハモ、アナゴ等、ウナギと似た体型の魚に見られる。一般的に淡水魚として知られているが、海で産卵・孵化を行ない、淡水に遡って来る「降河回遊(こうかかいゆう)」という生活形態を取る。嗅覚は非常に優れており、イヌに匹敵するとされる。大阪では、「うなぎご飯」のことを「まむし」という。「まむし」は、うなぎを蒸して油を抜く「真蒸す」の転語説もあれば、蒲焼きを切ってご飯に「まぶす」から、とも言われている。20世紀後半頃には鰻の養殖技術が確立され、輸入も行なわれるようになったとはいえ、野生の鰻(天然もの)の人気は根強く、釣りや延縄(はえなわ、漁業に使われる漁具の一種で、1本の幹縄に多数の枝縄[これを延縄と呼ぶ]を付け、枝縄の先端に釣り針を付けた構成となっている)等で漁獲されている。鰻の人工孵化は、1973(昭和48)年に北海道大学において初めて成功し、2002(平成14)年には三重県の水産総合研究センター養殖研究所(現:増養殖研究所)が仔魚をシラスウナギに変態させることに、世界で初めて成功した。さらに、2010(平成22)年、水産総合研究センターが人工孵化した鰻を親ウナギに成長させ、さらに次の世代の稚魚を誕生させるという完全養殖に世界で初めて成功した、と発表している。しかし、人工孵化と孵化直後養殖技術は未だ莫大な費用が掛かり、成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接繋がっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。鰻は高たんぱくで消化も良く、日本料理の食材としても重要で、鰻屋と呼ばれる鰻料理の専門店も多い。皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わず、きれいな水に1日から2日程度入れて、泥抜き・臭み抜きをしたものを料理する。江戸時代初期に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出来、そこに鰻が住み着くようになったため、鰻は労働者の食べ物となった。当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺して焼いただけという食べ方で、値段もそばと変わらなかった。江戸で濃口醤油が開発されると、鰻をタレで味付けして食べるようになった。現在のように、開いてタレに漬けて焼くようになったのは、上方(京都・大坂)、江戸とも、江戸時代中期、享保の頃(1716年から1736年)とされる。古くから、鰻と梅干は食い合わせが悪いとされる。これは、食禁の代表的な例として挙げられることが多いが、江戸時代中期以降に広まった日本固有の俗信と考えられる。鰻も梅干も決して安いものではなかったことから、両方を同時に食べるような贅沢を戒めるため、このような迷信が広まったという説もある。医科学的な根拠は(少なくとも現時点では)見出せない。鰻丼は、香りが特徴的で、鰻屋の店先まで漂うことから、「鰻屋の前で毎日香りをおかずに飯を食う男性が居て、腹を立てた鰻屋が香りの嗅ぎ代を請求すると、銭をジャラジャラ鳴らして『嗅ぎ代だから音だけで十分だろう』とやり返した」という小咄がある。1914(大正3)年、次期内閣総理大臣に指名されながら、組閣に失敗して、大命を拝辞した清浦奎吾は、組閣難航中に「鰻屋で待たされているようなもので、匂いはするが御膳はなかなか出て来ない」とぼやいたことがあり、この時のいきさつは「鰻香内閣」と呼ばれている。なお、清浦奎吾は、10年後の1924(大正13)年には内閣総理大臣に就任しており、「御膳」にありついた。土用の期間の中で、十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)が「丑の日」は1回、又は2回あり、1回目を「一の丑」、2回目を「二の丑」という。2016(平成28)年には、「二の丑」が巡って来なかったが、2017(平成29)年には「二の丑」があり、8月6日となっている。2018(平成30)年にも「二の丑」があり、8月1日となっているが、2019(令和元)年には「二の丑」は巡って来ない。2020(令和2)年では、8月2日が「二の丑」となり、2021(令和3)年には「二の丑」は巡って来ない。2022(令和4)年では、8月4日が「二の丑」となる。2023(令和5)年には「二の丑」は巡って来ない。2024(令和6)年では、8月5日が「二の丑」となる。
劇画の日。
1964(昭和39)年7月24日、伝説的編集者として知られ、東京都千代田区神田神保町にある出版社、青林堂(現在は、東京都渋谷区渋谷に移転している)の創業者である長井勝一が、劇画雑誌『ガロ』を創刊したことによる。青林堂は、商業的なメジャー系出版社の漫画事業と対極のスタンスで、掲載作品の作品性を重視し、白土三平、水木しげる、つげ義春、滝田ゆう、内田春菊等、「ガロ系作家」と称される一群の漫画作家に表現の場を与え、日本漫画文化史上に一時代を築いた。なお、『ガロ』は、長井勝一の死去に伴なって衰退し、1997(平成9)年に休刊となる。その後、1998(平成10)年に一旦復刊したが、2002(平成14)年に事実上廃刊となっている。それ以降、青林堂は路線変更し、漫画以外を含んだ、保守系の論客の書籍・雑誌を中心に刊行している。元々、『ガロ』は題材・内容と、そのスケールから、連載する場所が無かった白土三平の漫画『カムイ伝』の連載の場を設けることが、創刊の最大の目的であった。同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。生涯芸術活動に身を染め、ダダイスム(1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動で、第一次世界大戦に対する抵抗や、それによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする)、シュルレアリスム(超現実主義と呼ばれる思想活動で、芸術運動のシュルレアリスムでは、その多くが、現実を無視したかのような世界を絵画や文学で描き、まるで夢の中を覘いているような独特の非現実感は、見る者に混乱や不可思議さをもたらす)等の影響を受けた絵画、写生画を数多く残したプロレタリア画家・洋画家、岡本唐貴を父とする漫画家、白土三平による長編劇画『カムイ伝』は、江戸時代の様々な階級の人間の視点から、重層的に紡ぎ上げられた物語となっている。名脇役が数多く登場する壮大なスケールのこの物語は、1964(昭和39)年の連載開始から50年以上経過しながら、未だ完結しておらず、白土三平自身も、漫画家生活の大半をこの作品に費やしていることから、白土三平のライフワークとも言われる。「カムイ」とは、主人公である忍者、及び、サブストーリーとして語られる狼の名前である。主にカムイ(非人[江戸時代の賎民身分の呼称])、正助(農民)、竜之進(武士)という、三者三様の若者を中心に物語は展開されてゆくが、非人のカムイは物語の進展に伴ない傍観者的になり、農民の正助が物語の中心になっていく。江戸時代初頭の架空の藩を舞台に展開され、主人公もまた、架空の人物である。『カムイ伝』や『サスケ』『忍法秘話』等、白土三平の忍者漫画は、実現が可能であるかどうかはともかく、登場する忍術に科学的・合理的な説明と図解が付くのが特徴であり、荒唐無稽な技や術が多かったそれまでの漫画とは、一線を画するものである。白土三平は、『カムイ伝』のために「赤目プロダクション」を設立し、量産体制に入る。しかし、白土三平は『ガロ』の設立者の1人であったため、『カムイ伝』の原稿料が出ず、そのため『カムイ伝』の他に、他誌にも『ワタリ』『カムイ外伝』等を発表してスタッフを養った。劇画とは、それまでの漫画から一線を画した新しい漫画表現の手法であり、また、子ども向けの漫画と分類されるために作られた、青年向け漫画のジャンルである。作風としては、ハリウッド映画やハードボイルド小説の影響が大きい。「劇画」という名称は、古書店経営者・漫画家、辰巳ヨシヒロの考案によるものであり、劇画工房(1959[昭和34]年に結成された劇画制作集団で、実質的な活動時期は1年程であったが、漫画の表現や制作環境に多大な影響を及ぼした)の誕生以降の劇画ブームによって、世間一般に名称が定着した。概ね、1950年代末頃がら使われ始め、労働者階級の若者がメインターゲットの読者となって、1960年代の学生運動(学生が行なう、主に社会的・政治的な運動)の熱狂と同期し、社会的な大ブームを巻起こすことになる。しかし、1972(昭和47)年のあさま山荘事件(長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において、新左翼組織の1つである過激派組織、連合赤軍が人質をとって立籠もった事件)等をきっかけに、左翼運動の過激化から学生運動が一気に退潮。それと同時に、革命をテーマに若者らに支持されていた劇画業界も冷え込んでいった。 それまでの劇画は、「重く」「暑苦しい」ものとして、若者達から敬遠されるようになり、人気を誇っていた劇画雑誌は、1970年代中頃より急激に部数を落としていった。劇画の手法を取入れた新しい漫画が登場し、従来型の劇画は淘汰されていった。劇画ブーム後も生き残ったベテランや、その後デビューした劇画作家によって、今も作品は描かれているが、「ジャンルとしての劇画」は低迷している。劇画の技術的な手法としては、カメラワークを使ったコマ割りが挙げられる。俯瞰(全体を上から見ること)や煽り(垂直であり、かつ、中心が一致している、カメラのレンズの光軸[中心線]とフィルムや撮像素子の感光面を意識的にずらしたり傾けること)で三人称視点を取入れた、ダイナミックな視点からの描写(それまでの漫画の視点は、ほぼ正面固定であった)、人物のアップによる内面心理描写(それまでの漫画の世界では、人物のアップは手抜きと見做されていた)等がある。また、太字で強調された擬音(実在のものと異なる音源によって表現された効果音)や、効果線(漫画の画面に表現効果等を付与する描線)、集中線(主に人物の感情や雰囲気、動きを表現するために描かれる、漫画の画面に表現効果等を付与する描線)を使った演出、同じシーンを連続的にコマに描くことによって、時間経過を圧縮する演出等も、劇画工房の開発によるものである。劇画工房は、ハリウッド映画(アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州のロサンゼルス市にある地区で、映画産業の中心地として知られる、ハリウッドの映画会社によるメジャーな映画)を参考に、これらを漫画技法として開発したのであり、このような革新的な表現が許されたのは、劇画工房が主に執筆していた日の丸文庫(大阪府中央区に所在していた出版社で、多数の有名劇画家・漫画家を輩出した)の「表紙以外は自由に描かせる」という放任主義の成果、また、日の丸文庫の専務で、漫画編集をしていた山田喜一が、映画に対して理解が深かったおかげとされる。これらの技法は、すぐに模倣されて漫画の一般的な技法として定着し、劇画の独自手法として見做されなくなってしまったため、世間一般には、後の劇画雑誌ブームの際に流行した「描線の多いリアルタッチな画風の漫画が劇画である」というステレオタイプ(判で押したように多くの人に浸透している先入観、思い込み、認識、固定観念やレッテル、偏見、差別等)なイメージが残った。