7月23日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4火曜日 旧暦  6月18日、大安(戊子)、月齢 17.2 
グレゴリオ暦で年始から205日目、年末まであと161日。
誕生花 ジンジャー・ハイブリッドスターチス・ギンガチューム。

米騒動の日。
1918(大正7)年の7月22日夜から翌7月23日にかけて、富山県下新川郡魚津町(現在の富山県魚津市)の漁家の主婦達が、米の県外移出を阻止する集団行動を起こした。これが全国に拡大して9月まで続き、鎮圧に軍隊まで投入され、寺内正毅内閣が倒れることとなる。当時、肉体労働者は労働のために一日米一升(約1.8リットル)を食べたといい、米価高騰が人々の生活を困窮させていた。魚津以外でも、富山県内での救助要請や、米の廉売を要望する人数は更に増加し、各地で動きが起きていた。翌月8月3日には、当時の富山県中新川郡西水橋町(現在は富山市に編入)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。8月6日には、この運動はさらに激しさを増し、富山県中新川郡東水橋町(現在は富山市に編入)、富山県中新川郡滑川町(現在は富山県滑川市)の住民も巻込み、1,000名を超える事態となった。住民らは、米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場であった米を35銭で販売させた。やがて騒動は、移出の取止め、安売りの哀願から始まって、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。そんな中、寺内正毅内閣は8月2日に対外政策として、シベリア(ロシア東部の北アジア地域)出兵を宣言した。この宣言は、流通業者や商人等が戦争特需における物資高騰を狙い、売惜しみをさらに加速させていく、という状況を発生させた。8月17日頃からは都市部から町や農村へ、そして8月20日までに、混乱がほぼ全国へ波及した。「米騒動」や「米騒擾」等と呼ばれた約50日間に亘る一連の騒動は最終的に、1道3府37県の計369ヶ所に上り、参加者の規模は数百万名を数え、出動した軍隊は3府23県に亘り、10万名以上が投入された。広島県呉市では、海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙する中、銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出たことが報告されている。肉や魚等の摂取が少なかった当時、日本人の食生活は穀物類が主体であった。米価の高騰は家計を圧迫し、人々の生活を困窮させていた。1914(大正3)年の第一次世界大戦開始の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918(大正7)年の中頃から急激に上昇し始めた。この背景には、資本主義の急速な発展が指摘されている。第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)は、都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらした他、カイコ(蚕)を飼ってその繭から生糸(絹)を作る産業、養蚕等による収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から、米を食べる生活に変化していった。また、明治以降都市部の中流階級では、大量の白米を少ない副食で食べるという食習慣が定着してきていた。一方で、農業界からの人材流出のために、米の生産量は伸び悩んでいた。第一次世界大戦の影響によって、米の輸入量が減少したことも重なり、米価暴騰の原因となった。米価格が高騰することにより、地主や商人は、米を米穀投機へ回すようになり、次第に売惜しみや買占めが発生し始めた。事態を重く見た政府は、1917(大正6)年9月1日に「暴利ヲ目的トスル売買ノ取締ニ関スル件(暴利取締令、大正6年9月1日農商務省令第30号)」により、、米・鉄・石炭・綿・紙・染料・薬品の買占めや売惜しみを禁止したが、効果はなかった。因みに、常軌を逸した商魂を表わす口語の動詞「ぼる」「ぼられる」「ぼったくる」(暴る、暴られる、暴ったくる)は、この「暴利取締令」の「暴利」に由来する。米価の暴騰は、一般市民の生活を苦しめ、新聞が連日、米の価格高騰を知らせ煽ったこともあり、社会不安を増大させた。しかし、予算編成での救済事業奨励費は少なく、警察力の増加をもって社会情勢の不安を抑え込む方針が採られ、巡査を増員するという措置が採られた。労働者の団結権すらなかったこの時代、厳しい抑圧と、苦しい生活に喘ぐ一般庶民の怒りの矛先は、次第に高所得者、特に、米問屋や商人に向けられるようになっていった。米騒動は、「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績が出たことから、瞬く間に各地へと広がり、8月17日頃からは、都市部から町や農村へ、そして8月20日までにほぼ全国へ波及した。騒動は次第に米問屋から炭坑へと場所を移していった。米騒動には、統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。米騒動の報道に際し、各種新聞は、民衆の行動を好意的に報じると共に、根本的な原因は、民衆の要求を無視し続けた政府にあるとした。一方、政府は事件が広がったのは、新聞が誇大に報道したためであるとし、米騒動に関する一切の報道を禁じる記事差止命令を報道各社へ通達した。こうした言論弾圧に対し、新聞社は激しく抗議し、言論報道の自由に関する運動に発展していった。米騒動の影響を受け、世論は寺内正毅内閣の退陣を求めた。8月14日から鳴尾球場(兵庫県武庫郡鳴尾村[現在は西宮市に編入]にあった野球場で、1924[大正13]年に閉鎖)で開催予定であった全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会の前身)の第4回大会が、周辺の治安悪化を理由に中止される等、世情の混乱を抑えられず、寺内正毅首相は辞任して、日本で初の本格的な政党内閣である原敬内閣が誕生した。この内閣は、閣僚の大半が政党所属であり、原敬が衆議院に議席を有する現役衆議院議員の初の首相であったことから、政党内閣として画期的存在とされた訳である。爵位(貴族の血統による世襲、又は国家功労者への恩賞に基づき授与される栄誉称号)を持たない衆議院議員を首相とする初の内閣となったということで、原敬は、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。原敬内閣の政策は、外交における対英米協調主義と内政における積極政策、それに、統治機構内部への政党の影響力拡大強化をその特徴とする。原敬は、政権に就くと直ちに、それまでの外交政策の転換を図った。まず、対華21ヶ条要求等で悪化していた中華民国との関係改善を通じて、英米との協調をも図ろうというものである。さらに、アメリカから提起されていた日本・アメリカ・イギリス・フランス4ヶ国による新4国借款団(日本の中国への独占的進出を抑制する対中国国際借款団)への加入を、対英米協調の観点から決定した。第一次世界大戦の後始末をするパリ講和会議が開かれたのも、原敬内閣の時代であった。内政については、かねてから(政友会、資本家や地方の地主を主な支持基盤とした政党)の掲げていた積極政策、即ち、教育制度の改善、交通機関の整備、産業、及び通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進した。とりわけ、交通機関の整備、中でも地方の鉄道建設のためには公債を発行する等、極めて熱心であった。また、教育政策では高等教育の拡張に力を入れた。高等教育拡張政策は第一次世界大戦の好景気を背景とした高等教育への、求人需要、志願需要の激増に応えたものである。首相就任前の民衆の原敬への期待は大きいものであったが、就任後の積極政策とされるものの内の殆どが政商、財閥向けのものであった。また、度重なる疑獄事件の発生や、民衆の大望である普通選挙法(成年男子による普通選挙[選挙の際に年齢・性別以外で信条・財産等の制限を設けずに選挙権を行使できる選挙形式]を規定するの施行に否定的であったこと等、就任前後の評価は少なからず差がある。原敬は、卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であった。帝国議会の施政方針演説等における首相の一人称として、それまでの「本官」や「本大臣」に変わり「私」を使用したのは、原敬が最初である。それ以後、現在に至るまで途絶えることなく引継がれている。1921(大正10)年11月4日、関西での政友会大会に出席のため側近の肥田琢司らと東京駅に到着直後、以前から原敬に対して批判的な意識を持っていた国鉄(日本国有鉄道、現在の東日本旅客鉄道[JR東日本])大塚駅転轍手(転轍機[ボイントのことで、線路を分岐させ、車両の進路を選択する機構]の操作手)の中岡艮一に短刀を右胸に突刺され、ほぼ即死した。原敬の政治力が余りに卓抜していたために、原敬亡き後の政党政治は一挙にバランスを失ってしまった。