7月18日 できごと その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1925年 - ドイツの政治家、アドルフ・ヒトラーの著作『我が闘争』上巻が刊行される。
1929年 - 阪和電気鉄道(現在の西日本旅客鉄道[JR西日本]阪和線)が、阪和天王寺駅(現:天王寺駅) - 和泉府中駅間、支線 鳳駅 - 阪和浜寺駅(現:東羽衣駅)間で開業。1926年に設立された阪和電気鉄道は、営業不振や政府の交通政策等の事情故に、会社法人としては短命で、1940年に南海鉄道(現在の南海電気鉄道)に合併されるが、第二次世界大戦前の「日本一速い電車」である「大阪 - 和歌山45分」ノンストップの「超特急」を運行したことで、日本鉄道史上、一種の伝説的存在として記憶される。既存の南海鉄道が、大阪湾岸の紀州街道沿いの都市を経由したのに対し、阪和電気鉄道は、それよりやや内陸寄りの、農村地帯に敷設される。極力直線的なルートを取り、高速運転に適合した線路設備が整えられた訳である。この辺りの事情は、阪神間を高速で走行することを前提に建設されたため、ほぼ直線的に大阪と神戸を結んでおり、並行する阪神本線やJR神戸線(東海道本線)よりも山手を通っている阪急電鉄の阪急神戸本線とよく似ている。1930年6月16日、阪和天王寺駅 - 阪和東和歌山駅(現:和歌山駅)間を全線開業した阪和電気鉄道は、狭軌鉄道(鉄道線路のレール間隔を表わす軌間が、標準軌の1,435mmよりも狭い1,067mmの鉄道)の電車としては当時日本最大級の、強力な全鋼製電車を投入し、高速運転を実施する。大出力モーターを装備した大型電車によって、線形の良好な高規格新線で高速運転を行なう、というアメリカのハイスピード・インターアーバン(高速都市間連絡電車)流のコンセプト(全体を貫く基本的な概念)そのものは、1927年に開業した京阪電気鉄道傘下の新京阪鉄道(現在の阪急電鉄阪急京都本線)と共通のものである。阪和天王寺駅 - 阪和東和歌山駅間の61.2kmを45分で運転する「超特急」の表定速度(列車が駅間を走る時間だけでなく、これに途中駅の停車時分を加えた運転時間、つまり、表定時間で列車の運転区間の距離を割って得た速度)時速81.6kmは、営業運転される定期列車としては、1950年代以前の日本国内最高記録で、第二次世界大戦後に国鉄(日本国有鉄道、現在のJRグループ)特急「こだま」号が、東京駅 - 大阪駅間で6時間40分運転(表定速度時速83.46km)を開始した1959年まで、実に26年間も破られない、超絶的レコードとなっている。阪和間に限れば、「超特急」の消滅後から遥か後年となる1972年3月ダイヤ改正で設定された新快速が、45分のタイ記録を達成するまで並ぶものはなく、国鉄の分割民営化を目前に控えた1986年11月1日のダイヤ改正で、阪和線ダイヤの緩急結合を重視した私鉄形ダイヤへの移行と共に、特急列車に限り最高速度時速120kmでの運転が許容されるようになり、特急「くろしお」が、最速列車で阪和間41分運転を開始したことで、超特急運行開始から53年目にしてようやく、完全な記録更新が果たされる。その後は、関西国際空港開港に伴ない、快速系統用として223系電車の大量投入が行なわれた1994年9月4日のダイヤ改正で、特急「くろしお」の最速38分運転(表定速度時速96.8km)が実現している。阪和電気鉄道の線路条件は、概ね直線で良好であったが、大阪府と和歌山県との境の山中渓駅付近には、急勾配区間急曲線があり、振り子式車両(車体傾斜式車両)のない当時としては、平坦区間で極限の高速運転がなされたことが容易に推察される。阪和間45分運転を行なうことは、電車にも大きな負担をかけ、駆動歯車は鋸歯状になる程消耗したという。在来路線である南海鉄道は、新興勢力である阪和電気鉄道の開業に対して危機感を持つ。阪和電気鉄道の建設計画が持上がると、早くも南海鉄道は1923年から対抗策として、電車としてはそれ以前に日本で先例のない、豪華な急行列車を大阪難波駅 - 和歌山市駅間に運転を開始する。そのために製造された南海電7系電車は、木造電車ではあるが、扇風機付きの喫茶・優等室を備え、便所も完備する等、日本における本格的な長距離電車列車の嚆矢と言える存在である。その後、阪和電気鉄道のスピードに対抗するため、大型鋼製電車、南海電9系電車(後の南海2001形電車)を開発し、南海電7系電車に代えて、南海本線の優等列車に投入する。ただ、1930年代を通じて阪和電気鉄道と南海鉄道の両社は、大阪 - 和歌山間直通の優等列車を頻発させて覇を競ったが、輸送需要に比して過大な供給状態であり、両社にとって非常な消耗戦であった、と言うべきであろう。1940年12月1日、阪和電気鉄道は南海鉄道に吸収合併され、同社の「山手線」となる。これは、両社を合併させることで紀勢西線(紀勢本線の内、西日本旅客鉄道[JR西日本]が管理する和歌山市駅と新宮駅間の通称)への直通列車に関するダイヤ改正交渉を一元化できる鉄道省(運輸行政を所管していた中央官庁)や、1938年に公布された「陸上交通事業調整法(昭和13年4月2日法律第71号)」に基いて、過度な競争を抑えて軍事輸送を強化したい国の意向によるものである。古くから阪和間の独自ルートを希求していた鉄道省は、南海山手線の買収を決定し、1944年5月1日、戦時買収により国有化され、国有鉄道阪和線となる。戦時買収は、戦争完遂のための軍事目的を前面に押出したもので、当時の「国家総動員法(昭和13年4月1日法律第55号)」等に基く強制的なものとなる。なお、南海鉄道は、同年6月、関西急行鉄道と合併して近畿日本鉄道となり、近畿日本鉄道は、その後の1947年に、旧南海鉄道の営業路線については、南海電気鉄道に分離している。
1936年 - 二・二六事件(陸軍皇道派[天皇親政の下での国家改造を目指した派閥]の影響を受けた青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター事件)により、2月27日に出された東京市(最終的な市域は、現在の東京都区部[東京23区]に相当)の戒厳令(騒乱鎮圧を目的とした行政措置)を解除。一般的な戒厳令とは、一時的に統治権を軍隊に移行することで、通常の市民の権利も制限を受ける。本来は、戦時・災害時等で通常の統治機構が機能しなくなった時、或いは、占領地で占領軍による統治が行なわれる場合に発動される。日本における戒厳令は、「戒厳」(戦時において、兵力をもって一地域、或いは、全国を警備する場合に、国民の権利を保障した憲法・法律の一部の効力を停止し、行政権・司法権の一部、又は全部を軍部の指揮下に移行することで、大日本帝国憲法の体系に組込まれている)を規定した法令の名称であり、「戒厳の布告」により「戒厳令」に規定された非常事態措置が適用されることになる。東京周辺にて、緊急勅令(緊急時の、法律に代わるものとして天皇が発布した命令)に基づくいわゆる「行政戒厳」が宣告された例が3例ある。1905年の日比谷焼打事件(東京府東京市麹町区[現在の東京都千代田区]日比谷公園で行なわれた、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した暴動事件)、1923年の大正関東地震(関東大震災)、そして、二・二六事件の際であるが、緊急勅令では「一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スル」として、戒厳令の規定を準用している。つまり、これらの戒厳措置は、戒厳令に根拠を有するのでなく、あくまで緊急勅令による騒乱鎮圧を目的とした行政措置であったと考えられる。従って、二・二六事件を受けて発令された、一般に「戒厳令」と呼ばれるものは、厳密には正しい表現ではない。