7月18日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

-390年 - ローマ・ガリア戦争: アッリアの戦い(伝承による日付)。
0064年 - ローマ大火。ローマ帝国の首都ローマで、都心に近い場所から起こった火の手が、風に煽られ、瞬く間に大火事となる。完全に鎮火するまで6日7晩掛かり、市街の約3分の2に被害が及ぶ。
0660年 - 百済(古代の朝鮮半島南西部にあった国家)が唐(中国の王朝で、最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国となる)と新羅(古代の朝鮮半島南東部にあった国家)連合軍(羅唐同盟)により滅ぼされる。百済の王族や遺臣達は、倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦い(現在の韓国中西部に位置する白村江で行なわれた戦い)における敗戦と共に鎮圧される。日本に伝存する最古の正史『日本書紀』には、6世紀に百済から倭国へ派遣された、知識人や技術者らについての記録が多数残る。知識人や技術者らは、古代の日本の学術・文化に大きな影響を残している。
0993年 - 903年に歿した菅原道真に、左大臣と正一位が追贈される。政権の中枢にありながら、左遷され現地で没した菅原道真の死後、天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、恐れた朝廷は、菅原道真の罪を赦すと共に贈位を行ない、菅原道真の子息達も流罪を解かれ、京に呼返されている。
1419年 - 応永の外寇。倭寇(海賊)の侵掠に悩まされ続けていた李氏朝鮮(1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家)が、根拠地覆滅の為に、大軍を動員して対馬(九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島)に来襲。朝鮮軍は、対馬を支配していた宗氏(対馬国守護[国単位で設置された軍事指揮官・行政官])武士団の少数の抵抗に手こずり、台風の接近もあって、漁村と船を焼払っただけで、10日余りで対馬から撤退する。
1624年 - 出羽国久保田藩(秋田藩)初代藩主、佐竹義宣がキリスト教徒33名を処刑する。
1545年 - 第4次イタリア戦争: ソレントの海戦。
1862年 - スイス南西部にあり、アルプス山脈に属するダン・ブランシュ(標高4,357m)にイギリスの登山家、T・S・ケネディらが初登頂。ダン・ブランシュは、アルプスの代表的な秀峰で、ほぼ四角錐形の均整の取れた山容を誇る。名称は、「白い牙(きば)」の意である。
1864年 - 工事中の五稜郭(江戸時代末期、江戸幕府により蝦夷地[北海道南西部の渡島半島周辺を除く、現在の北海道に相当]の箱館[現在の北海道函館市]郊外に建造された稜堡式の城郭)で、江戸幕府の箱館奉行所としての業務を開始。江戸幕府が崩壊すると、短期間箱館府(蝦夷地を統治するために箱館に設けられた地方政治機関)が使用した後、戊辰戦争(明治政府を樹立した薩摩国/大隅国薩摩藩・周防国/長門国長州藩・土佐国土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力、及び奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦)の局面の1つで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘、箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となる。明治時代に入ると、郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用され、その後、1914年から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場と共に、函館を代表する観光地となっている。五稜郭は、水堀で囲まれた五芒星(5つの角を持つ星マーク)型の堡塁と、1ヶ所の半月堡(馬出堡)からなり、堡塁には本塁(土塁)が築かれ、その内側に、奉行所等の建物が建築された他、郭外北側に役宅街が造られている。1964年、五稜郭築城100年を記念して、南隣に高さ60mの五稜郭タワーが開業し、2006年には、五稜郭タワーが高さ107mの新タワーに改築されている。 
1866年 - 江戸幕府の艦隊が周防大島(現在の山口県大島郡周防大島町に所在)を砲撃し、第二次長州征伐が始まる。長州征伐は、倒幕勢力の拠点であった周防国/長門国長州藩を江戸幕府が攻撃した戦いである。第一次長州征伐は、1864年に勃発した禁門の変(前年の八月十八日の政変により、京都を追放されていた長州藩勢力が、陸奥国会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰広げた事件)で敗れた長州藩に対する追討であり、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4ヶ国による列国艦隊の攻撃で、打撃を受けていた長州藩は降伏し、藩主父子は服罪する。1865年、長州藩論が高杉晋作らの倒幕派によって再び掌握され、江戸幕府との和平交渉も打切られたため、江戸幕府第14代将軍徳川家茂自ら征討の指揮を執り、15万と号する戦力で第二次長州征伐を開始する。しかし、諸藩は開戦に消極的で、他方では、薩摩国/大隅国薩摩藩の後援を得た長州藩の士気は高く、幕府軍は敗戦を重ね、8月には将軍の死去を理由に長州征伐は中止されて、幕府の権威は失墜する。
1870年 - 第1バチカン公会議で、ローマ教皇首位説・教皇不可謬説(信仰と道徳に関する教皇の宣言は、決して誤りを犯し得ないということ)に関する教義憲章『パストル・エテルヌス』が採択される。第1バチカン公会議は、イタリアの首都ローマの郊外、バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山、サン・ピエトロ大聖堂において、1869年12月8日から1870年10月20日の4会期に亘って行なわれた、カトリック教会の20回目の公会議である。なお、公会議とは、キリスト教において全世界の教会から司教(主教)等の正規代表者が集まり、教義・典礼・教会法等について審議決定する最高会議である。
1871年 - 「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク(明治4年7月18日太政官布告)」により、文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)が創設される。教育、文化、学術等を担当していた行政機関である文部省は、教育全般の他、学術、文化、スポーツ振興、児童の健康に関する事項等を所管してきたが、地方単位、及び管区単位の出先機関は持っていない。但し、国立大学等の国立学校を管轄しており、人事上の交流は、文部科学省となった現在でも盛んである。日本以外の国で教育行政を担当する官庁は、文部省と訳されることがある。しかし、多くは「教育」と訳されることが多く、「文部」が使われることはない。 
1872年 - イギリスで秘密投票法が制定される。秘密投票とは、投票内容の非公開が保証される投票方法で、誰が何に投票したのか明らかにされることがない。この方法を採用した選挙を秘密選挙という。
1911年 - 第二次モロッコ事件: イギリスとフランスが軍事協定を締結。
1915年 - 第一次世界大戦: 第二次イゾンツォの戦いが始まる。
1917年 - ロシア革命: ロシア西部に位置するペトログラード(現:サンクトペテルブルク)のボルシェヴィキ(ロシアの革命家、ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派)の蜂起が鎮圧される。ウラジーミル・レーニンは、西隣の北ヨーロッパ諸国の1つ、フィンランドへ逃れる。1917年3月に勃発したロシア革命(二月革命)により、ロシア皇帝ニコライ2世は退位し、ロシア帝国は打倒され、代わって新政府が樹立される。そのロシア臨時政府の初代大臣会議議長(首相)には、政治家のゲオルギー・リヴォフが就任するが、兵士や工場労働者達が、ロシア臨時政府に対して自発的に武装デモを起こし、交戦状態に至った事件、七月蜂起の発生により、ゲオルギー・リヴォフは辞任する。ボルシェヴィキは平和的なデモを意図していたが、結果的に武力衝突が発生した結果、ボルシェヴィキの指導者であるウラジーミル・レーニンは逃亡と潜伏生活を余儀なくされ、他の指導者達は逮捕されている。