7月17日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

祇園祭/山鉾巡行。
祇園祭は、京都市東山区祇園町北側にある八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治時代までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀後半)から1,100年以上続く、京都の夏の風物詩で、7月1日から1ヶ月間に亘って行なわれる長い祭である。祭行事は八坂神社が主催するものと、京都市中心部に点在する山鉾町が主催するものに大別される。一般的には、山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが、重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意で、前祭は7月14日から7月16日、後祭は7月21日から7月23日)、「山鉾巡行」(前祭は7月17日、後祭は7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は「神輿渡御」(神幸は7月17日、還幸は7月24日)や神輿洗(7月10日、7月28日)等が著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事と言える。宵山、宵々山、宵々々山には、旧家や老舗にて伝来の屏風等の宝物の披露も行なわれるため、「屏風祭」の異名がある。また、山鉾巡行では、さまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。祇園祭は、数々の三大祭の1つに挙げられる。京都三大祭(他は、上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は高山祭と秩父夜祭)等の内の1つであり、日本を代表する祭りである。かつては、旧暦6月に行なわれていたが、現在では新暦(グレゴリオ暦)7月に行なわれている。山鉾巡行は、7月17日夕刻に行なわれる八坂神社の神幸祭(神輿渡御)に先立って、中京・下京の町衆が、各町に伝わる山や鉾を曳行する行事であり、同日の午前中に市街中心部である四条通から河原町通を巡行する。一連の祭の内でも最大の見所の1つとなっており、1966(昭和41)年から2013(平成25)年までは、7月17日に纏めて行なわれていたが、2014(平成26)年より、前祭をこの日に行なっている。四条河原町や河原町御池の交差点等で行なわれる「辻回し」も、巡行中の大きな見せ場となっている。祇園祭という名称は、八坂神社が神仏習合(日本土着の神祇信仰[神道]と仏教信仰[日本の仏教]が混淆し、1つの信仰体系として再構成[習合]された宗教現象)の時代に、延暦寺(滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺)に属して祇園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王が、仏教の開祖、釈迦が説法(法仏の教え[法]を説き伝えることで、釈迦は聞き手の能力に応じ、その場合に適した教え方で、理解できるように説法したという)を行なった場所として、仏教の聖地となっている祇園精舎(現在のインド北部、ウッタル・プラデーシュ州シュラーヴァスティー県に所在した寺院)の守護神とされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も「祇園御霊会」となった。その後、明治維新による神仏分離令(神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること)により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため、「祇園御霊会」から「祇園祭」に変更された。なお、「祇園」という名称自体は、仏教由来である。疫病の流行により、朝廷は863(貞観5)年、神泉苑(現在の京都市中京区に所在する寺院で、元は平安京大内裏[天皇の在所]に接して造営された禁苑[天皇のための庭園]であった)で初の御霊会を行なった。御霊会は、疫神や死者の怨霊等を鎮めなだめるために行なう祭で、疫病も、恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟り、と考えられていた。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行なって無病息災を祈念した。864(貞観6)年から富士山の大噴火が起こり、溶岩が大規模に流出して山麓に達し、869(貞観11)年には貞観地震(陸奥国東方沖[日本海溝付近]の海底を震源域として発生したと推定されている巨大地震で、地震の規模は少なくともマグニチュード[M]8.3以上であったとされ、地震に伴なって発生した津波による被害も甚大で、死者は1,000名を超えるものと伝えられる。この地域に周期的に発生する三陸沖地震の1つとして理解されてきたため、貞観三陸地震と呼称されることがある他、日本の観測史上最大の地震となった東北地方太平洋沖地震[東日本大震災]が、この地震の再来ではないかと言われている)が起こり、津波によって多数の犠牲者が出る等、全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国の国の数を表わす66本の矛を、朝廷の祭祀を司る神祇官の卜部日良麿(卜部平麻呂とも記される)が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り、薬壺を持ち、病気を治す仏として知られる、薬師如来を本地(本来の姿)とする牛頭天王を祀り、御霊会を執り行なった。この869(貞観11)年の御霊会が、祇園祭の起源とされている。御霊会が生まれた直接の背景は、平安京が元々、内陸の湿地で、高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)等により、瘧(わらわやみ = マラリア[マラリア原虫による感染症])、裳瘡(天然痘[発疹性の急性感染症])、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹(麻疹ウイルスによる急性熱性発疹性のウイルス感染症)等が大流行したことにある。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区に該当する地域に所在した都)遷都工事中に起きた、奈良時代末期の公卿で、第50代天皇、桓武天皇の側近であった藤原種継が暗殺された事件で、無実を訴えながら亡くなった桓武天皇の皇太弟(同母弟)、早良親王ら6名の怨霊の仕業との、専門が方位学と天文学による占術である職業で、その延長として退魔行を成すこともあった陰陽師らによる権威ある卜占(占いによる吉凶判断)があったこと、等である。さらに、約1世紀後の970(安和3)年からは毎年行なうようになったとされる。これらの祭式は、神仏混淆であるばかりでなく、呪術や占術の技術体系である陰陽道や、山へ籠もって厳しい修行を行なうことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取入れられた、日本独特の宗教、修験道の儀式も含まれていた。真夏の祭となったのは、上水道も冷蔵庫もなかった時代は、真夏に多くの感染症が流行し、多くの人々が脱水症状等で亡くなったことが原因の1つと考えられる。祇園御霊会は、草創期から現代に至るまで、祇園社の神輿渡御を中心とするが、これに現在見られるような山鉾が伴なうようになった時期は、明確には分からない。ただ、室町幕府内の争いから始まり、1467(応仁元)年からの約10年間に亘って継続した内乱で、有力守護大名が争い、九州等一部の地方を除く全国に拡大した、応仁の乱(この内乱により、主要な戦場となった、現在の京都市中心部全域は、壊滅的な被害を受けて荒廃した)による33年の中断を経て、現在に続く山鉾の数と名称が固定したことは確か、とされる。