7月11日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2木曜日 旧暦  6月 6日、大安(丙子)、月齢  5.2  
グレゴリオ暦で年始から193日目、年末まであと173日。
誕生花 ハイビスカス・フクシア・カノコソウ。

YS-11記念日。
1962(昭和37)年7月11日、初の国産旅客機、日本航空機製造(NAMC)YS-11の飛行試作機1号機(1001)が、新三菱重工業小牧工場(現在の三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所)でロールアウト(航空機が完成後、製造工場から出ること)した。アメリカ合衆国を主力とする連合国軍占領下の日本では、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による航空禁止令が布告されて、日本にある全ての飛行機を破壊され、航空機メーカーを解体され、航空会社を潰され、大学の授業から航空力学の科目を取除かれていた。1952(昭和27)年に日本が、「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約、昭和27年条約第5号)」の発効で再独立した後、日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除された。第二次世界大戦後の日本の航空機産業は、1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争でのアメリカ軍機の整備・修理の受注を皮切りに、1955(昭和30)年4月には、川崎航空機(現:川崎重工業航空宇宙カンパニー)と新三菱重工業(現:三菱重工業)で、自衛隊向けの機体(ジェット練習機ロッキードT-33A、亜音速ジェット戦闘機ノースアメリカンF-86Fセイバー)の国内ライセンス生産が決定するまでになっていた。第二次世界大戦前の航空機開発・製造で実績のあった日本で、自国製の航空機を再び飛ばしたいという思いは、多くの航空関係者の抱くところであった。当時の航空機産業の監督官庁である通商産業省(通産省、現在の経済産業省の前身)は、商品サイクルの長い輸送機の開発生産に取組ませることで、その産業基盤を安定させる思惑があった。加えて、利用客の増加が見込まれた国内航空の旅客機に国産機を用いることで、軍用機と民間機を共通化すれば開発コストが低下すると考え、「国内線の航空輸送を外国機に頼らず、さらに海外に輸出して、日本の国際収支(外貨獲得)に貢献する」との名目で、国産機開発の計画が立上げられた。1957(昭和32)年に、日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除されることを見越し、1956(昭和31)年に通産省重工業局航空機武器課の赤澤璋一課長の主導で、国産民間機計画が打出された。通産省は各航空機メーカーと個別会談を行ない、各社から賛同を得たことから、日本航空工業会に中型輸送機計画案を提出するように要請した。日本航空工業会が、この要請で開発案を提出したことから、1957(昭和32)年5月、理事長に新三菱重工副社長の荘田泰蔵が選任され、専任理事に木村秀政東京大学教授を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が東京大学内に設立され、小型旅客輸送機の設計が始まった。輸送機設計研究協会(輸研)に参加したメーカーは、新三菱重工業(現:三菱重工業)、川崎航空機(現:川崎重工業航空宇宙カンパニー)、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機の機体メーカーと、住友金属、島津製作所、日本電気、東京芝浦電気、三菱電機、東京航空計器の部品メーカー各社であった。複数企業のジョイントとなった理由は、国内新型航空機開発という大型プロジェクトを、特定の企業一社に独占的に任せることで起こる、他社の反発を懸念したためである。輸研には、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や雷電、烈風を設計した新三菱重工業の堀越二郎、中島飛行機で一式戦闘機「隼」を設計した富士重工業の太田稔、現在の新明和工業の前身、川西航空機で二式大艇や紫電改(及び紫電)を設計した新明和工業の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した川崎重工業の土井武夫といった、第二次世界大戦前の航空業界を支えた技術者が参加、設計に没頭した。航空業界では、これに航研機(東京帝国大学[現在の東京大学の前身]航空研究所が設計し、飛行は大日本帝国陸軍の協力の下、1938[昭和13]年に長距離飛行記録を作った実験機)の製作に携わった、航空機の設計・製造・運用・整備等に関する工学、航空工学の権威で、航空機設計者の木村秀政を加えて「五人のサムライ」と呼んだ。設計案として、日本の国内線需要を勘案して、1,200mの滑走路で運用できるもの、航続距離は500マイルから1,000マイル(約800kmから約1,600km)、整備性から低翼、経済性から60席以上、双発ターボプロップエンジン(燃料の燃焼等で生成された高温のガスでタービン[流体がもっているエネルギーを有用な機械的動力に変換する回転式の原動機]を回して、回転運動エネルギーを得る内燃機関、ガスタービンエンジンの1形態で、そのエネルギー出力の大部分をプロペラを回転させる力として取出す機構を備えたエンジン)、開発期間は4年、開発費用は30億円の基本設計で固まった。当初、開発期間は5年であったが、当時国内の旅客機の残余寿命が3年から4年の機体が多く、代替時期を勘案すれば5年では長過ぎる、との運輸省(現在の国土交通省の前身の1つ)の主張から4年に短縮された。機種名であるYS-11の「YS」は、輸送機設計研究協会(輸研)の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」を取ったもの。「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号は「1」であった。後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されていた。機体仕様案の中には第0案もあった。YS-11は、日本航空機製造(NAMC)が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機で、第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機であった。1965(昭和40)年3月30日に量産1号機(2003)が運輸省(現在の国土交通省の前身の1つ)航空局に納入、4月からは航空各社への納入が始まった。YS-11は運航を重ねるにつれ、主脚の異常、脚開閉扉の設計ミス、外板継ぎ目からの雨漏りによる電気系統不良等の欠陥が判明し始めた。その度、日本航空機製造職員や航空会社の整備士は改修のため徹夜の連続となった。しかし、1968(昭和43)年にはトラブルも殆ど解消し、1機当たりの飛行時間は月300時間以上、定時出発率約99%を誇る、高い信頼性を持つ航空機となった。その後、長期に亘り運用されたが、2013(平成25)年時点で日本において旅客機用途での運航は終了し、一部が自衛隊機(航空自衛隊)として運用されている。実質的にYS-11プロジェクトの後継となる国産旅客機としては、2014(平成26)年にロールアウトした三菱航空機の小型旅客機、三菱リージョナルジェット(MRJ)が挙げられるが、三菱リージョナルジェット(MRJ)が日本国内定期路線に投入されるのは、2017(平成29)年頃が予定されていた。その後、延期となったが、三菱リージョナルジェット(MRJ)のローンチカスタマー(航空機の新規開発の後ろ盾となる航空会社)でもある全日空(ANA)が受領次第、運航開始する予定とされる。なお、2017(平成29)年2月25日、三菱リージョナルジェット(MRJ)の量産計画縮小が判明した。これまでの生産計画では、2017(平成29)年末には月産約2機、2018(平成30)年末に月産3機から4機と、少しずつ生産ペースを拡大する予定であったが、2018(平成30)年半ばを見込んでいた納入開始時期が、2021(令和3)年以降となったことに伴ない、量産も先送りされる。なお、YS-11に対しては、正式に発注せずに終わった日本航空(JAL)も、32機の三菱リージョナルジェット(MRJ)を確定発注しており、2020年代前半から国内定期路線に投入予定であった。2019(令和元)年6月13日、三菱航空機は、開発中の三菱リージョナルジェット(MRJ)を、三菱スペースジェット(Mitsubishi SpaceJet)と改称することを発表した。しかし、2023(令和5)年2月7日、採算が見込めないため開発中止が決定した。