泣く日。
7月9日の「7」と「9」で、「泣く(な[7]く[9])」の語呂合わせから、泣くことで喜怒哀楽の感情表現の豊かさを考える日。泣くことは、ストレスを解消したり、免疫力を高める等の効果がある、と言われている。泣くとは、悲しみ・苦しみ・喜び・痛さ等を抑えることができず、声を上げたり、涙を出したりすることで、悲しみは、負の感情表現の1つとされる。脱力感、失望感や挫折感を伴ない、胸が締め付けられるといった身体的感覚と共に、涙が出る、表情が強張る、意欲・行動力・運動力の低下等が観察される。さらに、涙を流しながら言葉にならない声を発する、「泣く」という行動が表れる。一般的に、愛情、友情、依存、共栄の対象が失われた時に見られる。悲しみは、「深い、浅い」と表現され、対象と自身との繋がりが強い程、深い悲しみが訪れる。そういった意味では、最大の悲しみは身近な人の死である。しかし、「対象が失われる」とは、死だけではなく、存在が遠くなる、つまり、恋人との別れや、夫の単身赴任といったことや、大事にしていた物が壊れる、楽しみにしていた行事が無くなる、といったことも含まれる。対象が失われる程度についても、悲しみの深さに大きく起因する事項である。最初は、怒りによるその事実の否定から始まり、自身の脳でその現実を受止めると共に、こみ上げてくる感情である。事実を否定する程でもない悲しみの場合は、怒りによる拒絶は発生しない。泣き相撲は、1歳前後の幼児の泣き声を土俵上で競わせる日本の風習・神事で、現代では、主に幼児の成長や安産を祈る目的で行なわれるが、神社で行なわれるものには、氏神に対する新しい氏子の披露、という意味もある。例は少ないものの各地で行なわれ、勝負は、相手よりも先に泣いた方を勝ちとするもの、逆に、負けとするものと、地域によって異なり、本来は勝敗に関係なく、大声で泣かせることに目的があった、ともされる。
グラフィックTシャツの日。
東京都渋谷区渋谷に本社を置く、グラフィックTシャツを始めとしたデザインプロダクトの企画、製造、販売等を手掛ける企業、株式会社グラニフが制定。記念日を通して、日本の暑い夏に「自分の個性をアピールできるグラフィックTシャツを着よう!」と呼掛けることが目的。記念日を活用したキャンペーン等を展開していく。日付は、平均気温が高く、Tシャツ1枚で過ごせる夏日が多い7月、また、「グラフィック(graphic)」の「g」の形が、数字の「9」に似ていることから7月9日としたもの。グラフィックTシャツとは、写真や絵等をプリントし、視覚表現をしたTシャツのことで、コーディネート(服装等を組合わせること)のアクセントとしても活躍する。
浅草寺「ほおずき市」。
東京都台東区浅草に所在する寺院、浅草寺では、夏の訪れを告げる「ほおずき市」が、7月9日と7月10日の2日間、開催される。飛鳥時代の628(推古天皇36)年創建とされる、東京都内最古の寺院と言われる浅草寺は、地元の人々は元より、世界中から観光客が訪れる下町の人気スポットとなっている。鮮やかな橙色のほおずきを売る露店が、境内に約120軒も連なる両日は、古き良き江戸の夏の風情が色濃く漂う時でもある。頭に鉢巻きをした売り手の威勢のいい掛け声、ちりんちりんと鳴る風鈴の涼しげな音色、うちわや扇子片手に、浴衣姿でそぞろ歩く人々で賑わい、懐かしい下町の情景を見せる。観音菩薩を本尊とすることから、「浅草観音」や「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている浅草寺の縁日は、毎月18日である。室町時代以降に、月に一度の「功徳日(くどくび)」が加えられ、その中でも、7月10日の功徳は1,000日分と最も多く、「千日詣」と呼ばれていた。その「千日詣」が、浅草寺では江戸時代中期の享保年間頃から「四万六千日」へと変わり、そのご利益は46,000日分(約126年分)に相当する、と言われるようになった。但し、何故、この数になったのかについては、「米一升分の米粒の数が46,00粒に当たり、一升と一生をかけた」等諸説あり、詳しい由来は分かっていない。この縁起のいい日に一番乗りで参拝したい、という人々の思いから、前日の7月9日より人出が多かったため、今では7月9日と7月10日の両日が「四万六千日」の縁日となる。古くは、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝が、奥州討伐の帰りに浅草で軍勢を休ませ、日射病で倒れた兵士達に、橙色の実を食べさせ元気付けたという「ほおずき」。「ほおずきを水で鵜呑みにすると、大人は癪(しゃく)を切り、子どもは虫の気を去る」とも言われ、平安時代の頃から薬用として、鎮咳、解熱、利尿作用、咳、発熱、のどの痛み、むくみ等に効き目があるとされてきた。観賞用としてのほおずきは、鉢植えやドライフラワー等に用いられ、その愛好家も多い。果実は、以前はほおずき人形や口で音を鳴らす等、子供の遊びにも使われていた。そんな生薬としても利用される「観賞用ほおずき」に対して、美容にも良く、美味とされる「食用ほおずき」もある。「食用ほおずき」は、中南米が原産で、メキシコでは、同じく中南米生まれのトマトよりも歴史が古い食べ物と言われる。果物のように甘酸っぱく、ビタミン豊富な「食用ほおずき」は、夏から秋が旬である。漢字では「鬼灯」と書かれるほおずき。その由来は、火が灯された提灯(ちょうちん)に形がよく似ていることからで、中国のランタンのイメージからか、英名も「Chinese lantern plant」となる。なお、ほおずきの「ほほづき」という名は、その実の赤くふっくらした様子から頬を連想したもの(「づき」は「顔つき」「目つき」の「つき」か)ともいう。また、果実を鳴らして遊ぶ子ども達の様子から、「頬突き」の意であるともされ、他には、ホホ(蝥、カメムシの類)という虫が付くことを指す、とする説もある。
鴎外忌。
短編小説『舞姫』等の作品で知られる作家であり、陸軍軍医でもあった明治・大正期の文豪(文学者の中でも人気・実力共に傑出した人物)、森鴎外の1922(大正11)年の忌日。森鴎外の本名は、森林太郎。墓は東京都三鷹市の禅林寺と、郷里である島根県鹿足郡津和野町の永明寺にある。森鴎外は大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省(日本陸軍の軍政機関[軍隊に関する事務を統括する行政組織])派遣留学生としてドイツで約4年過ごした。そして帰国後、文筆活動に入った。その傍ら、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任している。森鴎外は、一部の軍人に嫉まれ、その中傷を躱すため、30余りのペンネームを用いたという。慶應義塾大学文学科顧問や帝室博物館(現:東京国立博物館)総長兼図書頭、帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長等、肩書きの多いことに現れているように、森鴎外は評論や翻訳(詩や戯曲、歌劇[オペラ]等)等、文芸活動の幅も広かった。因みに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」は森鴎外が作っている。交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、教師でもあった文豪、夏目漱石のように、弟子を取ったり、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した森鷗外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりと、色々な人々と交際した。また、当時としては女性蔑視が少なく、作家の樋口一葉を逸早く激賞しただけでなく、歌人で作家の与謝野晶子や、女性解放運動家で評論家・作家の平塚らいてうも、早くから高く評価している。明治時代や大正時代には、「Statistic」(英語で「統計」という意味であり、当時のカタカナでは「スタチスチク」)に対応する日本語訳がまだ存在せず、当時は、「全ての数を単純に足し合わせた数」といった意味で使われていた「統計」を、「Statistic」の日本語訳にしてはどうかという意見が出された。その一方で、それは正確な日本語訳にならない、といった反対意見や、新しい漢字を作ってはどうか、という別の意見も出る等して、大きな論争に発展していた。この論争の中で、森鴎外は、「統計」という訳が正確ではない、という意見に対して、深く考え過ぎではないかと反論している。その後、次第に「統計」という言葉が「Statistic」の日本語訳として広まり、今日、使われているような「統計」の意味となった。