7月8日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2月曜日 旧暦  6月 3日、友引(癸酉)、月齢  2.2 
グレゴリオ暦で年始から190日目、年末まであと176日。
誕生花 ホオズキ・グァバ・ハス・カンパニュラ。

外務省開庁記念日。
1959(昭和34)年からの記念日。1869(明治2)年7月8日(旧暦)、明治新政府が外務省を創設した。なお、江戸幕府に代わる政治体制の確立が急務となっていた明治新政府は、この日に新しい太政官制(最高行政機関の制度)を導入した。これは、「祭政一致」を原則とした復古的な官制であり、まず神祇官(朝廷の祭祀・宣教・諸国の官社を司る最高国家機関)が復活して、統治機構の総体である太政官よりも上位に置かれ、太政官の下には、民部省(国内行政を管轄した省庁)・大蔵省・兵部省(国の防衛と治安維持を管轄した省庁)・刑部省(裁判や刑罰の執行、欧米の法令の翻訳等を管轄した省庁)・宮内省(皇室関係の事務を管轄した省庁)・外務省が設置されるという、二官六省制が採られた。1871(明治3)年(この頃の日本は、旧暦の天保暦を使用しており、1871年は明治3年11月11日から明治4年11月20日までとなる)に外務省は、現在の東京都中央区銀座から、現在の東京都千代田区霞が関に移転し、江戸時代に建てられた大名屋敷、筑前国福岡藩黒田家上屋敷をそのまま使用していたが、1877(明治10)年2月1日に焼失した。1881(明治14)年、フランス人建築家シャルル・アルフレッド・シャステル・デ・ボアンヴィルの設計による新庁舎が竣工した。外務省は、霞が関に立地する最初の官庁である。江戸時代までは大名屋敷が並ぶ地域であった霞が関は、明治時代に大火があり、跡地に外務省(旧筑前国福岡藩黒田家上屋敷)や海軍省(大日本帝国海軍の軍政機関[軍隊に関する事務を統括する行政組織])、有栖川宮(江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家[宮号を賜った皇族の一家])邸等が置かれたことをきっかけに、官公庁施設の集積地(正式には中央官衙地区[ちゅうおうかんがちく]、又は霞が関一団地の官公庁施設と呼ばれる)としての計画的な整備が進められ、官庁街になる。これが転じて、「霞が関」という語は、「日本の中央官界」の代名詞としても使われている。また、中でも、最も古くから霞が関にある「外務省」の代名詞として、「官邸外交」(首相官邸が外務省、他省庁とは別個に、或いは、同時に外交を展開すること)に対する「霞が関外交」のように用いられることもある。1970(昭和45)年に完成した現在の外務省庁舎は、「本館(中央・南庁舎)」「本館(北庁舎)」「新庁舎」の3つの建物から構成され、それらは口型に配置されている。以前、南庁舎には、総理府(現在の内閣府の前身の1つ)の外局(特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織で、独任制の庁)として設置され、科学技術行政全般を所掌した旧科学技術庁(2001[平成13]年の中央省庁再編により廃止され、その業務は内閣府政策統括官、文部科学省等に継承された)と公正取引委員会(「独占禁止法」を運用するために設置された、委員長、及び4名の委員から成る行政委員会で、内閣総理大臣の所轄に属するが、職権行使の独立性が認められている)が入居していたが、中央省庁再編に伴なって移転した。本庁舎の耐震工事のため、2002(平成14)年初頭から2003(平成15)年末まで、一時的に仮庁舎が開設され、東京都港区芝公園の住友不動産芝公園タワーに移転した。旅券課等、一部の部署は、東京都港区芝大門の住友芝大門ビルに分散入居していた。飯倉公館とも呼ばれる飯倉別館は、首脳会談や外相会談の他、各種会議やレセプション等の交流活動にも利用されている。昭和期に活躍し、和風の意匠である数寄屋建築を独自に近代化した建築家、吉田五十八の設計で1971(昭和46)年に完成した。所在地は東京都港区麻布台1であるが、名称に冠した「飯倉」は、この地の歴史的名称「飯倉町」に由来する。また、幕末の開国以来の外交資料を保管し展示する外交史料館を併設している。外務省は、外交政策・通商航海・外交使節・条約等の対外関係の事務を行なう。外務省は、1885(明治18)年の内閣制度創設以後、一度も名称を変えていない唯一の省である。外務大臣を長とし、内部部局として大臣官房、及び総合外交政策局他10局、審議会として外務人事審議会、及び海外交流審議会、施設等機関として外務省研修所、特別の機関として在外公館を置く。平和で安全な国際社会の維持に寄与すると共に、主体的、かつ積極的な取組みを通じて、良好な国際環境の整備を図ること、並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における日本国、及び日本国民の利益の増進を図ることを任務とする。その目標を達成するため、外交政策、外交使節、通商航海、条約等の国際法規の締結・運用、外国政府との交渉、情報収集・分析・発信、在留邦人の保護、及び文化広報活動等、国の対外関係事務全般を掌る。海外滞在中の日本人が犯罪行為により、その国の刑務所に収監されたり、死刑判決が下される場合、外務省(在外公館の職員)は、邦人保護の一環として面会等の対応を取る。外交的保護権(本人が嫌疑を否定した場合に、人身保護を相手国官憲に求める権利)が行使されたことはない。
財務省開庁記念日。
1869(明治2)年7月8日(旧暦)、明治新政府が財務省の前身の1つである大蔵省を創設し、2001(平成13)年1月6日の中央省庁再編により、大蔵省は財務省と名称を変更した。大蔵省は、明治維新から2001(平成13)年1月6日まで存在した日本の中央官庁で、前近代の律令制による大蔵省も、奈良時代、701(大宝元)年に制定された律令(律は刑法、令はそれ以外の主に行政法で、その他、訴訟法や民事法も令に含まれる)、大宝律令(日本史上、初めて律と令が揃って成立した本格的な律令)から明治維新まで存続していたため、「大蔵省」という名称は、およそ1,300年の長きに亘って用いられたことになる。1885(明治18)年)末に内閣制度が発足した時、初代大蔵大臣(大蔵省の長)は松方正義であった。その後、官制が整備され、歳入歳出、租税、国債、造幣、銀行を扱う官庁とされた。大蔵省は、国家予算の配分、租税政策といった財政政策に関する実質的な決定権を有していることに加え、金融行政も担っており、その権限は強力であったが、第二次世界大戦前の官僚機構の中では、陸軍省(大日本帝国陸軍の軍政機関[軍隊に関する事務を統括する行政組織])、海軍省、地方行財政と警察を握って絶大な権力を有していた内務省(現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身)に次ぐ「四強」の末席を占めていたに過ぎなかった。しかしながら、第二次世界大戦対米英戦での日本の敗戦により、旧陸海軍が武装解除され、陸軍省と海軍省も解体・廃止されることになった。さらには、内務省も連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって解体・廃止された。大蔵省も組織解体の対象であったが、連合国の占領行政の「協力者」として振舞うことで、無傷で生残ることに成功した。そのため、結果的に大蔵省の一人勝ち状態となり、「省の中の省」、「官庁の中の官庁」と呼ばれ、大蔵官僚は「官僚の中の官僚」と呼ばれるまでになった。また、大蔵官僚自身も「われら富士山、他は並びの山」と豪語していた。