6月28日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

パフェの日。
1950(昭和25)年6月28日、読売巨人軍(読売ジャイアンツ)の藤本英雄投手が、青森市の東部に位置する合浦公園内にある野球場、青森市営野球場で行なわれた対西日本パイレーツ(現在の埼玉西武ライオンズの前身の1つ)戦で、日本プロ野球史上初のパーフェクトゲーム(完全試合)を達成した日。「パーフェクトゲーム」の「パーフェクト(完全)」が、フランス語の「パフェ(parfait、完全な)」に通ずるとして、洋風冷菓子の1つであるパフェを食べる日とした。パフェの愛好家と、パフェを扱う洋菓子業界が制定したもの。また、この時期は、パフェに使われるメロン等の果実が出回る季節でもある。パフェの美味しさ、美しさ、オリジナリティの豊かさを、より多くの人と楽しむことが目的。パフェは、背の高いグラスに、アイスクリーム、フルーツを主体として、その他の甘い具を加えたデザートである。フランス語の「パフェ(parfait、完全な)」から、「完全な(デザート)」の意味と言われる。フランスでのパルフェは、卵黄に砂糖やホイップクリームを混ぜて、型に詰めて凍らせたアイスクリーム状の冷菓に、ソースや冷やした果物を添えて皿で供する。日本のパフェとは異なるが、このパルフェに様々に手が加えられ、現在の日本のパフェが完成したと考えられる。パフェと似たデザートに、アメリカ合衆国発祥のサンデーがある。安息日である日曜日に、贅沢なパフェを食べることを嫌ったことから、日曜日にも売れるように、より質素に作ったサンデーが登場した、という説もある。また、パフェは、コーンフレーク(コーングリッツと呼ばれる、トウモロコシの粗びき粉を調味、加熱して、ローラーで平らに伸ばして形作り、焼上げた乾燥状穀物製品)トッピングで、これに対して、サンデーは、アイスクリームにトッピングが施されている。つまり、「パフェ」はフランスでの産物、「サンデー」はアメリカでの産物と言える。日本プロ野球史上初の完全試合達成者で、史上最年少監督でもある藤本英雄は、1942(昭和17)年のシーズン途中に東京巨人軍(読売巨人軍[読売ジャイアンツ]の当時の名称)へ入団し、初年度に無傷で10連勝する。2年目の1943(昭和18)年には34勝、防御率0.73、253奪三振で最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠を達成。同時に勝率.756で最高勝率を受賞。防御率0.73、シーズン19完封という記録は、現在も日本記録として残っている。同年5月22日には、後楽園球場(東京都文京区にあった野球場で、1987[昭和62]年に閉鎖)で行なわれた名古屋軍(現在の中日ドラゴンズの前身)戦で、ノーヒットノーラン(無安打無得点試合)を達成した。さらに、1944(昭和19)年には投手で3番を打ち、監督も兼任。人員不足の第二次世界大戦中にあってチームを支えた。この25歳での監督就任は、日本プロ野球史上最年少記録である。第二次世界大戦後の1947(昭和22)年に中部日本ドラゴンズ(現在の中日ドラゴンズの当時の名称)へ移籍するが、シーズン後半に肩を故障する。翌1948(昭和23)年に、実質的に指揮権を握っていた総監督三原修(日本初のプロ野球選手となったが、若くして引退した後、新聞記者を経て総監督に就任していた)の要請で読売巨人軍(読売ジャイアンツ)に復帰するが、シーズン初めは、主に外野手として出場。今度は足を故障し、投手へと戻らざるを得なくなった。幸い、外野手に転向している間に投球ができる程度に肩は回復しており、投手復帰に向けた練習をしていた頃、日本では「火の球投手」と呼ばれた、メジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)で活躍した名投手、ボブ・フェラーの投球術の本を参考にして「スライダー」を習得する。肩の故障で球威は落ちたものの復活し、1949(昭和24)年には、ラビットボール(ボール自動製造機械によって製造されたボールの通称で、材質の改良に加えて、電気乾燥機で湿気を飛ばす製造手法が反発力向上の要因となる)導入でリーグ全体の投手成績が悪化する中、リーグでただ一人防御率1点台(1.94)を記録。自身三度目の最優秀防御率のタイトルを獲得し、勝利数も24勝(2位)を挙げる等、安定した成績を残した。そして、1950(昭和25)年6月28日を迎える。この試合の先発予定は、当時の読売巨人軍(読売ジャイアンツ)の主戦投手、多田文久三であったが、その多田文久三が蟹の食べ過ぎで腹痛を起こし、藤本英雄が急遽先発となった。しかも、藤本英雄自身も前夜「青森での登板はないだろう」と判断して、函館から青森に移動する青函連絡船の中で徹夜マージャンに興じ、殆ど睡眠を取らない状態で登板しての記録達成であった。しかし、この試合は、新聞記者は4名いたが、カメラマンがいなかったため、達成時の写真がないという結末となった(梅雨を避けての東北・北海道遠征の最中で、前日の函館での試合の後、遠征に帯同していた記者達の殆どが東京に戻ってしまったという)。因みに、当時中学生であった寺山修司(「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王の1人」「昭和の啄木」等の異名をもち、膨大な量の文芸作品を発表した歌人・劇作家)がこの試合を観戦しており、バットボーイは、少年時代のなかにし礼が務めた。作詞した作品の総売上が1,000万枚を遥かに超え、直木三十五賞(直木賞、無名・新人及び中堅作家による大衆小説作品に与えられる文学賞)も受賞した作詞家・作家のなかにし礼は、幼少期には青森に在住しており、入会していた読売巨人軍(読売ジャイアンツ)のファンクラブの誘いで、青森での試合のバットボーイを担当していた。藤本英雄は、1949(昭和24)年から1953(昭和28)年までの間に毎年15勝以上を記録し、別所毅彦(現在の兵庫県淡路市出身で、非常に頑健な身体を誇り、引退まで投手の職業病とも言える肩や肘の故障とは無縁であり、プロ通算310勝[読売巨人軍時代に記録した221勝は、今も球団最多勝利記録となっている]を挙げる等、長きに亘ってエースとして君臨した)や、大友工(現在の兵庫県豊岡市出石町出身で、サイドスローから投込む速球やスライダー、シュートを武器に、日米野球で来日したニューヨーク・ジャイアンツ[現在のサンフランシスコ・ジャイアンツの前身]の選手達から、「地面から浮出す球は打てない」と驚かれたこともあり、1955[昭和30]年には30勝6敗を記録する等、敗戦数が少なく、当時の投手陣の中では最も安定度の高い投手とされている他、小柄な体格で、しかもサイドスローでありながら、当時の球界を代表する速球投手であり、日本プロ野球史上、直球のみで打者を牛耳ることのできたサイドスローやアンダースローの投手は、ほんの一握りしかいないが、大友工はその1人であった)らと共に、第二期黄金時代の読売巨人軍(読売ジャイアンツ)の投手陣を支え、1955(昭和30)年には通算200勝を達成した。藤本英雄は引退後、読売巨人軍(読売ジャイアンツ)で二軍監督、一軍投手コーチを務めた後、1962(昭和37)年に読売新聞ロサンゼルス支局駐在員に就任。事実上は、読売巨人軍(読売ジャイアンツ)のアメリカ担当スカウトとして活動し、スコアブックを付けながら、アメリカ各地を回った。1976(昭和51)年には、日本のプロ野球等で顕著な活躍をした選手や監督・コーチ、野球の発展に大きく寄与した人物に対して、その功績を称え、顕彰するために創設された野球殿堂の競技者表彰を受けている。