6月27日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0602年 - 征新羅大将軍(古代の朝鮮半島南東部にあった国家、新羅を征する将軍)として約25,000の軍勢を率い、筑紫国(現在の福岡県の内、東部の豊前国に相当する地域を除いた大部分に当たる)に駐留していた聖徳太子(第31代天皇、用明天皇の第二皇子)の同母兄、来目皇子の病により、新羅への進軍が延期され、新羅征討が中止となる。
0678年 - シチリア(イタリア半島の西南、地中海に位置するイタリア領の島)の修道士(修道誓願を立て信仰生活をする男性)、聖アガトがローマ教皇に即位。第79代ローマ教皇アガトは、681年1月10日、103歳の長寿を以て死去したが、歴代のローマ教皇の中で最も長寿の人物となる。
1177年 - 鹿ケ谷の陰謀(平家打倒の陰謀事件)で、公卿の藤原成親や真言宗の僧、俊寛らが流罪になる。
1333年 - 元弘の乱: 分倍河原の戦い。鎌倉幕府第9代執権、北条貞時の四男である北条泰家率いる鎌倉幕府勢と、新田義貞率いる反幕府勢とが、分倍河原(現在の東京都府中市に所在)で交戦。新田勢は撃破されて一旦退却するが、翌日未明に幕府勢を急襲し、壊滅的な打撃を与えて敗走させる。
1743年 - オーストリア継承戦争: デッティンゲンの戦い。イギリス、オーストリアの連合軍とフランス軍が戦い、連合軍が勝利する。史上最後のイギリス国王が自ら戦闘に参加した戦いとして知られる。
1759年 - 七年戦争: ジェームズ・ウルフ率いるイギリス軍が、ヌーベルフランス(フランスが北アメリカに植民を行なっていた地域)の首府ケベックの包囲を開始。
1787年 - 天明の大飢饉: 天明の打ちこわし。摂津国西成郡木津村(現在の大阪市浪速区に所在)等に住んでいる人々が中心となり、木津村の米屋が打ちこわしに遭う。この打ちこわしが1787年の大坂打ちこわしの始まりとなり、そして、打ちこわしは、大坂から全国各地へと波及することとなる。打ちこわしとは、江戸時代の民衆運動の形態の内、不正を働いたと見做された者の家屋等を破壊する行為のことで、「打壊」、「打ち壊し」、「打毀」、「打ち毀し」等と表記されることもある。主に都市部において、買占め等による物価高騰の原因とされた者に対して行なわれることが多いが、百姓一揆(農民が、幕府や大名等の封建支配者に対して行なった反領主闘争)に伴なって、領主の悪政と結び付いたとされ、特権商人や村役人に対して行なわれることもある。家財の略奪等も行なわれたが、一方で、正当な制裁行為であることを主張するために、家屋の破壊だけに止め、略奪や放火は厳に戒められた事例も多く知られている。打ちこわしは、飢饉や政情不安等によりしばしば発生し、特に、物価が急に上がった幕末にかけて増加している。
1841年 - 幕命により、武蔵国の徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平に所在)で、洋式砲術を学んだ砲術家の高島秋帆が、日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なう。この時の兵装束は、筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭に黒塗円錐形の銃陣笠であり、特に、銃陣笠は見分に来ていた幕府役人が、「異様之冠物」と批判するような、斬新なものであったという。
1844年 - 末日聖徒イエス・キリスト教会(アメリカ発祥のキリスト教系の新宗教)創始者、ジョセフ・スミス・ジュニアが、アメリカ合衆国中西部、イリノイ州カーセッジで暴徒との銃撃戦により死亡する。 
1863年 - 周防国/長門国長州藩藩士の伊藤博文、井上馨ら5名が、イギリス留学のため密出国する。
1869年 - 戊辰戦争: 江戸時代末期に江戸幕府により、蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に建造された稜堡式(星形要塞とも呼ばれる、火砲に対応するため15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式)の城郭、五稜郭を中心に、江戸幕府軍艦頭の榎本武揚ら、旧幕臣が「事実上の政権」である蝦夷島政府を樹立し、官軍(新政府軍)に抵抗した戦い、箱館戦争が終結する。これにより、新政府軍と旧幕府軍との戦いが終わる。
1871年 - 「新貨条例(明治4年5月10日太政官布告第267号)」公布。貨幣の名称を「円・銭・厘」として、十進法を採用。旧1両を1円とする。
1882年 - 「日本銀行条例(明治15年6月27日太政官布告第32号)」公布。薩摩国/大隅国薩摩藩藩士から政治家となった松方正義は、財政通として財政面で業績を残している。1877年に渡欧した松方正義は、1878年3月から12月まで、フランス第三共和政(1870年に樹立したフランスの共和政体下)の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)から3つの助言を得る。第一に、日本が発券を独占する中央銀行を持つべきこと、第二に、その際フランス銀行やイングランド銀行はその古い伝統故にモデルとならないこと、第三に、従って最新のベルギー国立銀行を例としてこれを精査すること、を勧められる。その後、帰国した松方正義は、日本に中央銀行(国家や一定の地域の金融機構の中核となる機関)である日本銀行を創設する。ベルギー国立銀行をモデルとした「日本銀行条例」に基づき、10月10日に開業した日本銀行は、「兌換銀行券条例(明治17年5月26日太政官布告第18号)」に基づく唯一の発券銀行とされ、日本銀行兌換銀券を発行して銀本位制(一国の貨幣制度の根幹を成す基準を銀と定め、その基礎となる貨幣、即ち、本位貨幣を銀貨とし、これに自由鋳造、自由融解を認め、無制限通用力を与えた制度)を確立する。当時の世界の主要な国々が金本位制を採用していたことから、1897年施行の「貨幣法(明治30年3月29日法律第16号)」により、銀本位制に代わって、一国の貨幣制度の根幹を成す基準を金と定める、金本位制が導入される。1914年に始まった第一次世界大戦により、各国政府とも金本位制を中断し、管理通貨制度(通貨の発行量を通貨当局が調節することで、物価の安定、経済成長、雇用の改善、国際収支の安定等を図る制度)に移行する。日本銀行では、1931年に管理通貨制度を確立しているが、事実上日本が管理通貨制度に移行したのは、「日本銀行法(旧法、昭和17年2月24日法律第67号)」が制定された1942年のこととなる。第二次世界大戦後の1946年2月には、ハイパーインフレーション(急激に進行するインフレーション[通貨膨張やインフレ等とも呼ばれる、物価が持続的に上昇する経済現象])の懸念から、新円切替(新紙幣[新円]の発行と、それに伴なう従来の紙幣流通の停止等による通貨切替政策)と預金封鎖が実施される。1942年に戦時立法として制定された「日本銀行法(旧法)」は、その後の経済・金融の国際化や市場化の進展等を踏まえ、抜本的な中央銀行制度の改正に関する検討を経て、「独立性」と「透明性」の向上を理念として全面的に改正され、日本銀行が日本における中央銀行として、銀行券を発行すると共に、通貨、及び金融の調節を行なうこと、また、銀行やその他の金融機関の間で行なわれる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資することを目的とする「日本銀行法(新法、平成9年6月18日法律第89号)」が制定されている。
1894年 - ジャン・カジミール=ペリエが、フランス第三共和政の第6代大統領に就任。
1898年 - アメリカの船乗り、ジョシュア・スローカムが廃船を改造したヨットで、史上初の単独世界一周を達成する。