6月26日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0363年 - ローマ皇帝ユリアヌス(フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス)が、ペルシャ(西アジア・中東に位置する現在のイランを表わす古名)からの撤退中に投槍を受け、戦死する。
0699年 - 修験道(山へ籠もって厳しい修行を行なうことにより、悟りを得ることを目的とする、日本古来の山岳信仰が仏教に取入れられた日本独特の混淆宗教)の開祖とされている役小角(役行者)が、弟子の「人々を言葉で惑わしている」との讒言(事実を曲げて悪く言うこと)により、伊豆島(伊豆諸島北部に位置する伊豆諸島最大の島、伊豆大島)に流罪となる。役小角(役行者)は、実在の人物であるが、伝えられる人物像は、後世の伝説に拠るところが大きい。多くの修験道の霊場に、役小角(役行者)を開祖としていたり、修行の地としたという伝承があり、鬼神を使役できる程の法力を持っていたとされ、左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。役小角(役行者)は、流刑先の伊豆島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていった、とも言われている。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は、この役小角(役行者)の建立と言われている。役小角(役行者)に纏わる話は、平安時代初期に書かれ、伝承された最古の説話集『日本現報善悪霊異記(日本霊異記)』に採録されており、後世に広まった役小角(役行者)像の原型となっている。『日本現報善悪霊異記(日本霊異記)』は、荒唐無稽な話が多い仏教説話集であるから、史実として受止められるものではないが、著者の完全な創作ではなく、当時流布していた話を元にしていると考えられる。役小角(役行者)信仰の1つとして、役小角(役行者)縁(ゆかり)の大阪府・奈良県・滋賀県・京都府・和歌山県・三重県に所在する36寺社を巡礼する霊場巡礼、役行者霊蹟札所がある。また、神変大菩薩は、役小角(役行者)の尊称として使われ、寺院に祀られている役小角(役行者)の像の名称として使われていたり、南無神変大菩薩と記した奉納幟(のぼり)等が見られることがある。
1180年 - 後白河法皇(第77代天皇、後白河天皇が譲位・出家して引続き政務に当たっていた時[院政]の称号)の院政を停止させた平清盛が、数え年3歳(満1歳4ヶ月)で即位した第81代天皇、安徳天皇を奉じて、摂津国の福原京に遷都する。福原京の場所は、現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫県神戸市兵庫区北部に当たり、平氏の拠点の1つである貿易港の大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)に、人工島の経が島(経ヶ島)を築き、整備拡張した港を見下ろす山麓に都を置くことが計画される。平清盛は、高倉上皇(後白河天皇の第7皇子で、第80代天皇、高倉天皇が、第一皇子となる安徳天皇に譲位した後の称号)と平家一門の反対を押切って遷都を強行したが、それは、中国宋朝との貿易拡大によって、海洋国家の樹立を目指したためとも言われ、都市整備が進めば、平氏政権による「福原幕府」のようなものになった、とも言われる。当時、幼い安徳天皇に代わり院政を行なっていた高倉上皇は、平安京(京都)を放棄せず、約半年後には、平安京(京都)への還幸(天皇や上皇等が、外出先から居所に帰還すること)となる。この還幸は、源氏の挙兵に対応するため、平清盛が決断したと言われている。後に福原京の建造物群は、長年知行してきた領地を没収されたこと等から、平氏討伐を決意した、後白河法皇の第三皇子、以仁王の令旨によって挙兵した、源頼朝・源義経兄弟とは従兄弟に当たり、越中国と加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現在の富山県小矢部市と、石川県河北郡津幡町との境界に所在する峠)で戦われた合戦、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京した武将、源義仲(木曾義仲)によって、全て焼払われている。
1243年 - キョセ・ダグの戦い。東方で勃興したモンゴル帝国の軍と、ルーム・セルジューク朝(アジア大陸最西部で、現在は、アジアとヨーロッパの2つの大州に跨る国、トルコ共和国のアジア部分をなす、アナトリア半島を中心に支配したイスラム王朝)軍とが戦い、圧倒的な大軍であったモンゴル帝国が圧勝して、アナトリア半島がモンゴル帝国の支配下に置かれる。
1284年 - ドイツ北西部にあるハーメルンで、約130名の子どもが集団失踪する(ハーメルンの笛吹き男の起こり)。ハーメルンに、「鼠捕り」を名乗る色とりどりの布で作った衣装を纏った男がやって来て、報酬と引換えに、街を荒らし回るネズミの駆除を持掛ける。ハーメルンの人々が男に退治の報酬を約束すると、男は笛を取り、笛の音でネズミの群れを惹き付けて川におびき寄せ、ネズミを残さず溺死させる。ところが、ネズミ退治が成功したにも係わらず、ハーメルンの人々は約束を破り、笛吹き男への報酬を出し渋ってしまう。怒った笛吹き男はハーメルンの街を後にしたが、6月26日の朝(一説によれば昼間)に再び戻って来る。住民が教会にいる間に、笛吹き男は再び笛を吹き鳴らし、ハーメルンの子ども達を街から連れ去る。笛吹き男も洞窟に入った子ども達も、二度と戻って来なかったという。
1332年 - 元弘の乱: 討幕運動が露見し逮捕された廷臣(朝廷に仕える臣下)、日野俊基が鎌倉の葛原岡(現在の神奈川県鎌倉市西部に所在)で処刑される。
1483年 - イングランド議会がその正統性を否定して、エドワード5世の王位継承無効を宣言し、エドワード5世の父方の叔父、リチャード3世が国王に即位する。
1541年 - 南アメリカ西部に位置するペルーのインカ帝国(中央アメリカに興った、共通的な特徴をもった様々な高度文明、メソアメリカを代表する文明)を征服したスペイン人のコンキスタドール(15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、探検家)、フランシスコ・ピサロが、フランシスコ・ピサロに離反して1538年に処刑されたスペイン人のコンキスタドール、ディエゴ・デ・アルマグロの遺児一派により、リマ(現在の、南アメリカ西部に位置するペルーの首都)で暗殺される。
1777年 - アメリカ独立戦争: ショートヒルズの戦いが行なわれる。
1788年 - 古典派音楽(クラシック音楽の歴史において、1730年代から1810年代まで続いた時期の芸術音楽の総称)の代表とされるオーストリアの作曲家・演奏家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが、『交響曲第39番(変ホ長調 K. 543)』を、オーストリアの首都ウィーンで完成させる。『交響曲第39番(変ホ長調 K. 543)』は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト晩年の円熟した傑作として知られる「3大交響曲」の最初の曲であるが、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト自身は、演奏を聴かずに死去したと推測されている。
1830年 - アメリカ人船員のナサニエル・セイヴァリーら25名が、小笠原諸島(東京の南南東約1,000kmの太平洋上にある諸島で、現在の東京都小笠原村)父島に入植する。
1843年 - 香港の歴史: イギリスの政治家、ヘンリー・ポッティンジャーが初代香港総督(イギリス政府により任命されて植民地時代の香港を統治する香港政庁の首長で、香港における軍司令官を兼ねた)に着任する。
1848年 - パリの六月蜂起(フランス労働者による暴動)が終結。
1862年 - 第二次東禅寺事件。江戸、東禅寺(現在の東京都港区高輪に所在)のイギリス仮公使館に、警備の信濃国松本藩藩士が侵入し、イギリス人水兵2名を殺害する。江戸幕府は、警備責任者を処罰し、松本藩藩主であった松平光則に差控(謹慎)を命じて、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉を行なう。その後も交渉は紛糾するが、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩国/大隅国薩摩藩藩主の父で藩政の最高指導者、島津久光が率いる約700名の軍勢の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷する(1名死亡、2名重傷)、生麦事件が発生し、江戸幕府は翌1862年春、生麦事件の賠償金と共に、1万ポンドを支払うこととなり、事件は解決を見る。
1886年 - フランスの化学者、アンリ・モアッサンが、初めてフッ素(原子番号9の元素で、反応性が高いため、天然には蛍石や氷晶石等として存在し、基本的に単体では存在しない)の単離に成功する。アンリ・モアッサンは、フッ素の研究と分離等の業績により、1906年にノーベル化学賞を受賞している。