6月18日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3火曜日 旧暦  5月13日、大安(癸丑)、月齢 11.6 
グレゴリオ暦で年始から170日目、年末まであと196日。
誕生花 タイム。

海外移住の日。
1908(明治41)年6月18日 、本格的な海外移住の第1陣となるブラジルへの第1回移民158家族、781名が、鋼製貨客船『笠戸丸』でブラジル南東部のサントス港に上陸したことを記念して、1966(昭和41)年に総理府(現在の内閣府の前身の1つ)が制定し、外務省所管の特殊法人(営利目的の市場原理による実施では不可能か、不可能に近いような事業を実施を目的として設立される公団や事業団、特殊会社等)国際協力事業団(現在の独立行政法人[日本の行政機関である省庁から独立した法人組織であって、かつ行政の一端を担い、公共の見地から事務や国家の事業を実施し、国民の生活の安定と社会、及び経済の健全な発展に役立つものとされる]国際協力機構[JICA])移住事業部が実施を開始した。「日本から海外各地へ移住した人々の歴史や、国際社会への貢献等を振返り、日本と移住先国との友好関係を促進するための日」となっている。 明治期の日本政府は、「国策移住」を推進した。当時、文明開化の幕開けを迎えようとしていたものの農民は苦しく、また、海外の農業大国は労働者を必要としていた。つまり、両国の思惑と利害が一致した訳である。 以降、昭和の第二次世界大戦終了時までに移住した人は、北アメリカ約20万名、ハワイ約20万名、中南米約20万名、樺太(オホーツク海の南西部にある、現在のロシア連邦サハリン州の島)約28万名、中国約27万名に及んでいる。当時は海外へ行くことは、普通の人にとっては不可能であったことから、海外雄飛に挑むには「国策移住」に応募するしかなかった。昭和初年の経済恐慌の農村への影響は大きく、1934(昭和9)年の冷害は、特に大きな打撃を与え、その一方で、満州国(現在の中国東北部に所在)の成立によって、大量の移住が国策として必要とされた。拓務省(外地と言われた日本の植民地の統治事務・監督の他、鉄道事業を中心として広範囲に亘る事業を展開し、日本軍による満洲経営の中核となった南満州鉄道や、日本の植民地政策に関して特権的な利権を保有した東洋拓殖の業務監督、海外移民事務を担当した省庁)が設置され、月刊拓務時報が刊行されて、拓務省内には海外移住相談所が開設された。第二次世界大戦の戦前、戦後を問わず、農業を目的とした移民が辿り着く先は、開墾すべき原野であることが多く、労苦があった。中には、開発の可能性が殆どない荒地に住むことを余儀なくされた、ドミニカ共和国(南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海の海域に所在)への移民のようなケースもあった。横浜や神戸には移民希望者が集まり、移民希望者達を相手に、出国手続や滞在中の世話をする移民宿が誕生した。また、その出身地に因んだ「薩摩町」「加賀町」等の町名が残されている。現在では、日本人の政策的な移民は余り行なわれなくなった。しかし、日本人が労働力として、アジアや北アメリカ等の海外に移住する動きは続いており、日本の失業問題や労働環境の悪化に伴なって、世界に職を求めて流出する若者が増加している。なお、『笠戸丸』は、6,000総tで平均速度約10ノット。船足は遅いが長距離航行に優れており、明治時代後期から昭和初期にかけて、外国航路や内台航路(当時)用の船舶として用いられる。ハワイやブラジルへ移民が開始された時に、移民船として使われたことでもよく知られている。移民用としては、船底の貨物室を蚕棚のように2段に仕切って使用したという。最大1,000名程度の移民を収容できたようである。1900(明治33)年にイギリスの造船会社で建造され、『ポトシ』として命名され、後にロシア帝国の船会社で貨客船『カザン号』として使用されていたが、日露戦争中の1905(明治38)年に、中国東部にある旅順港内で被弾し沈座していたのを、日本海軍が浮揚し捕獲。日本海軍に移籍して『笠戸丸』と改名された。その後は漁業工船に改造され、漁業会社を転々とする。そして最後は、貨客船として最初に籍を置いた国である、ロシア帝国の事実上の後継国に当たるソビエト連邦軍により捕獲され、第二次世界大戦終結直前に、ソビエト連邦東北部のカムチャツカ沖で爆沈されるといった数奇な運命を辿っている。国際協力事業団(JICA)は、現在の独立行政法人国際協力機構(JICA)の前身となる組織で、開発途上地域等の経済、及び社会の発展に寄与し、国際協力の促進に資することを目的としている。事業内容は多岐に亘っており、その基本は「人を通じた国際協力」である。発展途上国の経済発展や福祉の向上のための援助や出資、政府開発援助(ODA)の実施機関として、対象地域や対象国、開発援助の課題等についての調査や研究、国際協力機構(JICA)が行なう政府開発援助(ODA)事業の計画策定、国際協力の現場での活動を行なう人材の確保や派遣、事業管理、事業評価等の役割を担っている。国際協力機構(JICA)は、開発途上国の現場において、相手国の人々と共に働き汗を流しながら開発援助活動を直接担当する国際協力の専門家や、開発コンサルティング会社(開発コンサルタント)、ボランティア等の人選や派遣を行なうため、国際協力機構(JICA)が日本と途上国の人々との架け橋となっていると評価されている。第二次世界大戦前、南洋諸島(日本が国際連盟によって委任統治を託された、西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々で、現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦に相当する地域となる)で居住していた日本人男性と、現地人女性との間に生まれた子供は、そのままアメリカ軍統治下に留まって、アメリカ国籍を取る者が数多くいた。その後、独立したパラオでは、アメリカを除いては、他のいかなる国よりも、日本との外交・貿易関係を重視、何度も訪日して両国関係の発展に力を尽くした政治家で、パラオ共和国第5代大統領のクニオ・ナカムラ等、日系人の政治家も多く、現在も日系人が大きな発言力を持っている。また、数は少ないが、敗戦後にベトナムやインドネシアに留まり、これらの国籍を取得した残留日本兵もいる。南北アメリカ大陸への移民は、主に農業に従事する人が多かった。大規模農業プランテーション(大規模工場生産の方式を取入れ、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入して、単一作物を大量に栽培する大規模農園)での小作の他、日本国と受入れ先国との取決めにより、一定の土地を自由に開墾する権利を与えられたというケースがよく見られる。しかし、多くの場合、その土地は現地の人が開墾に二の足を踏む様な劣悪な場所であり、また、流通市場の確保等の面において、様々な困難・差別を受けることも多く、初期の移民は白人地主に搾取されることも多かったため、成功に至れずに潰えてしまった者、帰国した者も少なくない。それらの悪環境の中にあっても、日本人の特質とも言える、きめの細やかな管理が重要となる養鶏や、果実栽培等の分野を中心として、徐々に成功する者も現れ、ブラジルでは大地主になる者も現れた。これらの成功者の功績等により、日系人は移民受入れ国内でも一定の評価を得るに至り、「nikkei(日系)」と言う単語が認知される程になった所が多い。第二次世界大戦直後には、沖縄等の戦争の傷跡の深い地域から、南アメリカに移民する人が多かった。この移住事業には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)とアメリカ軍の意向が強く働いたと言われている。移住者数は、第二次世界大戦終結から1950年代にかけて、ベビーブームによって人口爆発が起こったこと等から飛躍的に増加したが、この時に「土地がなくなる」等と言った危機感があり、国策的に移民が行なわれた。しかし、日本が高度経済成長を遂げ、国民が豊かになった1960年代には移民希望者が減少し始め、外国に移住するメリットがなくなり、1980年代から1990年代には極めて僅かとなった。