6月15日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

米百俵デー。 
新潟県長岡市が市制90周年を迎えた1996(平成8)年に制定。1870(明治3)年6月15日(旧暦、グレゴリオ暦では7月13日となる)、越後国長岡藩(現在の新潟県長岡市と新潟市を支配領域に含む藩)へ、支藩の越後国三根山藩(1863[文久2]年に11,000石で立藩した、越後国蒲原郡三根山[現在の新潟市西蒲区峰岡]に所在した藩)から贈られた米百俵の代金で、「国漢学校」が開校したことを記念する。この「米百表の精神」を次世代に伝えていくことが目的で、この日には、長岡市米百俵財団が、人材育成に大きく貢献した個人・団体に米百俵賞を贈呈している。長岡藩藩主の牧野氏の家格は、帝鑑間詰め(将軍が諸侯を引見する際、江戸城本丸表屋敷の中の白書院下段の間の東に連なる部屋、帝鑑の間に席を定められた旧家の徳川家臣)の譜代大名で、石高は、1858(安政元)年には約142,700石あった。王政復古(江戸幕府を廃絶し、同時に摂政・関白等の廃止と三職[最高官職の総裁、議事を決する議定、下級廷臣や藩士によって構成された維新政府の実質的な指導部と言える参与]の設置による新政府の樹立を宣言した政変)を経て明治政府を樹立した薩摩国/大隅国薩摩藩や周防国/長門国長州藩等を中核とした新政府軍と、旧幕府勢力、及び奥羽越列藩同盟(陸奥国[奥州]、出羽国[羽州]、越後国[越州]の諸藩が、輪王寺宮[江戸時代に存在した、皇族が住職を務める寺院である門跡の1つ]の皇族、北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された同盟)が戦った内戦、戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟側に組して敗北したため、24,000石に減封となり、財政的に窮乏を極め、長岡藩は、戊辰戦争の局面の1つとして長岡藩周辺地域で行なわれた一連の戦闘、北越戦争で壊滅的な被害を受けた上、食糧不足まで起こった。財政が窮乏していた長岡藩に、窮状を見かねた支藩である三根山藩から、百俵の米が贈られることとなった。藩士達は、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事(長官に次ぐ官職で、現在の副知事、幕藩体制における家老に相当する)小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。藩士達は抗議するが、それに対し小林虎三郎は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押切った。この米百俵の売却金によって開校したのが「国漢学校」であり、洋学局と医学局が設置された。この学校は、士族によって建てられた学校であるが、一定の学力に達した、士族以外の庶民の入学も許可された。「国漢学校」は、現在の長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校の前身となった。後に、劇作家・作家の山本有三による戯曲『米百俵』で有名になる。さらに、この物語は「米百俵の精神」という言葉にもなって、内閣総理大臣であった小泉純一郎が、小泉内閣発足直後の国会の所信表明演説で引用して話題になり、2001(平成13)年の流行語にもなった。この逸話は、現在の辛抱が将来利益となることを象徴する物語としてしばしば引用される。なお、全国的な廃藩置県(明治政府が、それまでの藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革)に1年先立つ1870(明治3)年に、長岡藩は廃藩となり、柏崎県(現在の新潟県上越地方と中越地方)に編入された。1873(明治6)年には、柏崎県と新潟県が統合され、新潟県の一部となる。藩主の牧野家は華族(近代日本の貴族階級)に列し、子爵(公・侯・伯・子・男の五爵の位の内の第4位となる)を与えられた。維新前最後の藩主の弟に当たる牧野忠篤子爵は、1906(明治39)年に長岡に市制が施行された際、初代市長となっている。
生姜の日。 
古くから優れた調味料として、体に良い食材として、生活に取入れられてきた生姜は、奈良時代から神様への供え物として献じられ、6月15日に感謝の祭りが行なわれてきた。この日を、生姜の魅力を多くの人に知ってもらうきっかけの日にしようと、生姜の研究や商品開発を行なっている、東京都港区西新橋に本社を置く企業、株式会社永谷園(お茶漬け海苔・ふりかけ ・味噌汁等を製造・販売する食品メーカー)が2009(平成21)年に制定。因みに、生姜の古名である「はじかみ」を名乗る石川県金沢市二日市町の「波自加弥神社」では、この日に「はじかみ大祭」が行なわれる。株式会社永谷園の商品には、働く女性のために開発した、生姜を使った「冷え知らず」さんの生姜シリーズがある。これまでの生姜に加え、生姜に熱を加えて乾燥させた「あたたかパワー生姜」が入っている。生姜は、熱帯アジアが原産という説が最も有力であるが、野生の生姜が発見されたことがないため、生姜の原産地は厳密には不確定である。インドでは、紀元前300年から500年前頃には既に、保存食や医薬品として使われ、中国でも、紀元前650年には食用として利用されていたとされる。ヨーロッパには、紀元1世紀頃には伝わっていたとされるが、ヨーロッパは気候が栽培に向かず、産物として輸入はされたが、料理に生姜を活用することは少なく、主に生薬として利用した。日本には、2世紀から3世紀頃に中国より伝わり、奈良時代には栽培が始まっていた。古くは山椒(サンショウ、ミカン科の落葉低木で、若葉は「木の芽」とも呼ばれて薬味や田楽に利用され、実や皮は香辛料に使われ、葉や実は佃煮にもなる)と同じく「はじかみ」と呼ばれ、区別のために「ふさはじかみ」「くれのはじかみ」とも呼ばれた。また、大陸からミョウガ(ショウガ科ショウガ属の多年草で、食用として利用される)と共に持込まれた際、香りの強い方を「兄香(せのか)」、弱い方を「妹香(めのか)」と呼んだことから、これが後にショウガ・ミョウガに転訛したとする説がある。生姜は、主に香辛料として使われる。日本料理では、すりおろすか、すりおろしたものを醤油と合わせて生姜醤油とするか、千切りにする(針生姜)か、刻んで振掛ける使い方が多い。カツオ(初鰹)の付合せの定番となっており、他に、冷奴、素麺、アジの寿司やたたき等に、生姜は欠かせない薬味とされている。日本料理、中華料理では、魚や肉料理の臭味を消すためにも多用される。煮物、炒め物、スープに薄切りしたものを加えることが多い。生姜の根茎をそのまま食べるものとして、酢、塩、砂糖で調味した生姜の甘酢漬けや、梅酢で漬けた紅生姜がある。薄くスライスした甘酢漬けは、寿司と共に出され、符牒ではガリと呼ばれる。紅生姜は、細かく刻んで焼きそば、たこ焼き等に加えたり、ちらし寿司、牛丼等に添えられる他、新生姜を皮を剥いただけの根茎のまま、酢漬けしたものもよく出回り、そのままでも食べられる。大阪等、関西の一部地域では、紅生姜は薄く切って天ぷらの定番食材として用いられている。生姜の芽を湯通しして甘酢に漬けたものを、「はじかみ」や「はじかみ生姜」という。焼き魚等に彩りや口直しとして添えられる。端が赤いことから「はし赤み」が転じて「はじかみ」になったとも、又は、「はじかみ」とは顔をしかめる意で、刺激的な味を表わす語に由来するとも言われる。生姜飴、生姜糖、葛湯、冷やし飴(飴湯)、ジンジャーエール、生姜茶(センガンチャ)等の材料として、甘い味と合わせて用いることも多い。生姜の根茎は、生薬(天然に存在する薬効を持つ産物から、有効成分を精製することなく体質の改善を目的として用いる薬)として生姜(しょうきょう)と呼ばれ、中国では、紀元前500年頃から薬用として利用されている。発散作用、健胃作用、鎮吐作用があるとされる。発散作用は、主に発汗により寒気を伴なう風邪の初期症状の治療に使われ、健胃止嘔作用は、胃腸の冷え等による胃腸機能低下防止等に使われることが多い。生姜を加えた葛湯は、体を温めて、免疫力を高めるため、風邪の民間療法によく用いられる。