6月15日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3土曜日 旧暦  5月10日、友引(庚戌)、月齢  8.6 
グレゴリオ暦で年始から167日目、年末まであと199日。
誕生花 フトイ・カーネーション。

信用金庫の日。
1951(昭和26)年6月15日、「信用金庫法(昭和26年6月15日法律第238号)」が公布されたことに因んで、東京都中央区八重洲に本会を置く、全国の信用金庫を会員とし、信用金庫の健全な発展と社会的使命を果たすことを目的に設立された、公益性をもつ金融団体、社団法人全国信用金庫協会(現在は、一般社団法人となっている)が制定。信用金庫は、預金の受入れ、資金の移動や貸出し(融資、ローン)、手形の発行等を行なう金融機関の1つで、「信金(しんきん)」と略称される。現在、全体で100兆円を超える資金を運用し、地元の中小企業を中心に60兆円強の資金を融資する等、地域経済社会に確固たる地位を築いている。信用金庫は、「信用金庫法」に基づく、会員の出資による営利を目的としない協同組織の地域金融機関である。営業地域は、一定の地域に限定されている。中小企業、並びに個人のための専門金融機関とされる。大企業や営業地域外の企業・個人には融資ができない、という制限があるが、これは「地域で集めた資金を地域の中小企業と個人に還元することにより、地域社会の発展に寄与する」という信用金庫の目的のためである。諸外国における協同組織による地域金融機関は、イギリスの「クレジット・ユニオン」「ビルディング・ソサエティー」、ドイツの「クレジットゲノッセンシャフト」、アメリカの「クレジット・ユニオン」「ミューチャル・スリフ」等が有名であり、いずれも中小企業や庶民の生活に密着した経営を展開し、各国の金融の分野で大きな役割を果たしている。こうした協同組織は、コミュニティーの形成による相互扶助や福祉・育成・発展を基本としており、その意味からコミュニティーバンクとも呼ばれる。協同組合運動は、19世紀にイギリスの実業家であるロバート・オウエンが、働く者の生活安定を考えて、工場内に購買部等を設けた「理想工場」をスコットランド(イギリス北部)南西部のニューラナークに設立したことに遡る。その思想を受継ぎ、イングランド(イギリス中南部)北西部、マンチェスター郊外のロッチデールにおいて、働く人々が出資して、商品を安く購買できる自分達の企業を作ったのが、ロッチデール先駆者協同組合であり、これが世界で最初の協同組合である。株式会社と異なり、出資額に係わらず、1人1票の平等の権利を有するという民主的な運営を行なう等、株式会社の弊害を是正するための協同組合原則、いわゆる「ロッチデール原則」を確立し、これが現在の協同組合の原理となっている。また、同時期に、働く者の相互扶助のためにイギリス各地に設立された「フレンドリー・ソサエティー(友愛組合)」も、こうした協同組合のルーツと言われる。明治維新以降、日本は、資本主義による急速な産業化を進めたが、こうした中で、株式組織の銀行は、地方で集めた資金を、都市部の大企業や土地投機に集中的に運用したため、地域の中小零細企業や庶民は、自分達の預けた資金を利用できず、地域社会は疲弊衰退し、貧富の差が拡大し、社会の混乱が生じた。明治政府は、こうした資本主義の弊害を是正するためには、資本の原理による株式会社の銀行ではなく、ドイツの信用組合を見習って、営業地域や融資対象を限定し、1人1票の民主的な運営原理による協同組織の金融機関を創設することこそ、中産階級の育成と庶民の生活安定のために必要であると考え、内務大臣(内務省[現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身]を指揮監督した国務大臣)の品川弥二郎や内閣法制局(法令案の審査・立案や法制の調査を所掌事務とする国家機関)長官の平田東助が中心となって、1900(明治33)年に「産業組合法(明治33年3月7日法律第34号)」を制定した。これに基づき、ドイツの法律家ヘルマン・シュルツェ=デーリチュの考案した信用組合を手本に、全国各地の地主や有力者が中心となって信用組合を設立したのが、信用金庫の前身である。これと同時期に、南ドイツの行政家フリードリヒ・ヴィルヘルム・ライファイゼンの考案したライファイゼン式信用組合が日本でも設立され、これが農業協同組合の信用事業の前身であり、両者は、同じ産業組合(「産業組合法」によって設立された日本の協同組合)の理念を共有する仲間であり協力関係にあった。教育者・思想家の新渡戸稲造や、詩人・童話作家の宮沢賢治等、当時一流の知識人が、この産業組合運動に尽力したことは広く知られている。産業組合の事業分野としては、信用、販売、購買、利用の4つの事業がある。これが、現在の農業協同組合、信用金庫、生活協同組合等に機能分化していった。一方、幕末の社会運動家である二宮尊徳が、勤倹貯蓄と相互扶助を目的とした報徳思想(報徳社運動)を起こし、これを全国に広めたが、これが、日本における信用金庫等の協同組合運動の思想的なルーツの1つであると言われる。日本最古の信用金庫である、現在の静岡県掛川市に本店を置く掛川信用金庫は、二宮尊徳の弟子である実業家・政治家、岡田良一郎によって設立された。また、江戸時代後期の農政学者・農民指導者である大原幽学が作った世界最古の農業協同組合である先祖株組合も、協同組合運動のルーツであるとされる。その後、都市の中小商工業者を対象とした信用組合のために、1917(大正6)年に「産業組合法」が一部改正され、主に都市の中小商工業者のための市街地信用組合が生まれ、従来の「産業組合法」に基づく準市街地信用組合に分かれた。さらに1943(昭和18)年には、単独法である「市街地信用組合法(昭和18年3月11日法律第45号)」が制定されたが、第二次世界大戦終戦後には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策により、中央集権から地方分権への政策転換が進められ、旧市街地信用組合は、法律上「中小企業等協同組合法(昭和24年6月1日法律第181号)」に基づく信用協同組合とされた。しかし、この信用協同組合は、経営者の兼業禁止規定もなく、監督官庁が大蔵省(現在の財務省と、内閣府の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織]である金融庁の前身)から都道府県となり、都道府県への届出だけで簡単に設立できるため、「町役場の金融部門」「町の発展のための公共的金融機関」として発足した旧市街地信用組合とは経営理念、歴史、経営内容が異なる、「青果や食肉等業種別の組合」「職域組合」「民族系組合」等から派生した新しい信用協同組合が林立し、それらと同一視されることが懸念された。このため、旧市街地信用組合は、それらと一線を画すため、1951(昭和26)年に、議員立法(立法府に所属する議員が発議すること)により、新たに大蔵省直轄の協同組織金融機関制度である「信用金庫」を創設し、一斉に転換した。当時、無尽会社(一定の口数と給付金額とを定め、定期的に掛け金を払込ませて、一口毎に抽選、入札その他、これに準ずる方法により掛金者に対して金銭以外の財産の給付をすること[物品無尽]を業として行なう株式会社)が相互銀行、信託会社(他人[受託者]に、一定の目的に従って財産の管理、又は処分を行なわせることを目的として、受託者に財産権の移転、その他の処分をすることである信託を業とする会社)が信託銀行と、大半が「銀行」に名称変更したのに対し、当時の信用組合の関係者は「儲け主義の銀行に成り下がりたくない」という強いプライドから、「信用銀行」という案を拒否し、そこで当時の舟山正吉銀行局長から「金は銀よりも上」として、政府機関だけしか使っていなかった、金庫という名称を許され、「信用金庫」という名称となった。