6月11日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

国立銀行設立の日。
1873(明治6)年6月11日、日本初の銀行として第一国立銀行(現在のみずほ銀行の前身の1つ)が創立総会を開き、約1ヶ月余り後の7月20日には、大蔵省(現在の財務省と、内閣府の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織]で独任制の庁、金融庁の前身)より仮開業免状を公布された。なお、当時の大蔵省は、国内行政を管轄していた民部省と合併して、絶大な権力をもつ巨大官庁であった。徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による、中央集権体制の確立が推進された結果の巨大官庁誕生には、政府内の反発が収まらず、1873(明治6)年11月29日、徴税以外の国内行政部門は再度分離されて、新しく内務省が創設されることとなった。地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道等の国内行政の大半を担った内務省は、初代内務卿(内務省を指揮監督した官職で、事実上の首相でもあった)の大久保利通(「富国強兵」[国家の経済を発展させ、軍事力の増強を促す政策]をスローガンとして、殖産興業政策[明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、そして、資本主義育成により、国家の近代化を推進した諸政策]を推進する等、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった)の思想を反映して、設立当初から国民生活全般への強度の監視を課題としており、行政事務の枠に留まらなかった。その後、農商務省(明治政府の殖産興業政策の一翼を担った国家機関で、所管分野は、主に農業・林業・水産業・商工業といった諸産業である)や、郵便や通信を管轄する逓信省等、各省が独立し、内務省の所管は、大正期には地方行政・警察・土木・衛生・社会(労働)・神道(国家神道)等といった分野に限られるようになったが、第二次世界大戦前、各省の総合出先機関的な性格が強かった道府県庁を直接の監督下に置いていたため、地方行政を通じて、各省の所管事項にも直接、又は間接に関係し、内政の中心としての地位を保ち続けた。特に、文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)は、内務省によって事実上支配下に置かれていた。そのため、日本の教育行政は、内務省が主導していたと言える。1885(明治18)年末、内閣総理大臣(首相)と国務大臣から構成される内閣が、国の政治を担当する制度、内閣制度が発足し、大蔵省の長である国務大臣が大蔵大臣となった後、官制が整備され、大蔵省は、歳入歳出、租税、国債、造幣、銀行を扱う官庁とされた。大蔵省は、国家予算の配分、租税政策といった財政政策に関する実質的な決定権を有していることに加え、金融行政も担っており、その権限は強力であったが、第二次世界大戦前の官僚機構の中では、陸軍省や海軍省、及び、地方行財政と警察行政を握って絶大な権力を有していた内務省に次ぐ「四強」の末席を占めていたに過ぎなかった。第二次世界大戦での日本の敗戦により、旧陸海軍が武装解除され、陸軍省と海軍省も解体・廃止されることになった。さらには、内務省も連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって解体・廃止された。大蔵省も組織解体の対象であったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領行政の「協力者」として振舞うことで、無傷で生き残ることに成功した。そのため、結果的に大蔵省の一人勝ち状態となり、「省の中の省」「官庁の中の官庁」と呼ばれ、大蔵官僚は「官僚の中の官僚」と呼ばれるまでになった。国立銀行は、1872(明治5)年の「国立銀行条例(明治5年11月15日太政官布告第349号)」に基づいて開設された金融機関である。「国立銀行」とは、アメリカの「national bank(現在では、国法銀行と訳すことが多い)」の直訳であり、「国法によって立てられた銀行」という意味である。従って、民間資本が法律に基づいて設立して経営したものであり、国が設立して経営した、いわゆる国立の銀行ではない。金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持ち、当初は第一国立銀行から第五国立銀行の4行が設立された。1876(明治9)年に全部改正された「国立銀行条例(明治9年8月1日太政官布告第106号)」に基づき、不換紙幣(正貨たる金貨や銀貨である本位貨幣との兌換が保障されていない法定紙幣)の発行や、金禄公債(禄制の廃止[華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄]により還禄した華族・士族にその代償として交付された公債)を原資とすることも認められるようになると急増し、1879(明治12)年までに153の国立銀行が開設された。なお、これ以降は設立許可は認められなかった。銀行は、設立順に番号を名乗っており、これを「ナンバー銀行」と呼ぶこともある。これらのナンバー銀行は現存するものもあるが、現存する八十二銀行は、第十九銀行と六十三銀行が合併し、両者の数字の和を取って名付けられた銀行(82 = 19+63)であり、また、現存する第三銀行は、無尽会社(一定の口数と給付金額を定めて加入者を集め、定期的に掛金を行ない、一口毎に抽選、又は入札により、全ての加入者が順番に給付を受ける資格を取得する仕組みである無尽を業とする会社)を発祥とする第二地方銀行であるため、この両者に関しては、国立銀行の番号を名乗っている訳ではない。1882(明治15)年に中央銀行(国家や国家連合・国家的地域・事実上独立している地域等の金融機構の中核となる機関)である日本銀行が開設されると、国立銀行は貨幣発行権を剥奪されて普通銀行となり、翌1883(明治16)年の「国立銀行条例(改正法、明治16年5月5日太政官布告第14号)」の制定と、1885(明治17)年の「兌換銀行券条例(明治17年5月26日太政官布告第18号)」により、紙幣発行は唯一日本銀行のみが行なうようになった。但し、旧国立銀行の紙幣は、暫くの間は流通していた。1896(明治29)年には、「国立銀行営業満期前特別処分法(明治29年3月23日法律第11号)」が制定され、国立銀行券の発行が法律で停止さた。これは、銀行の成長を促すために、国の管理下から民間に委譲する目的が含まれていた。現在、これらを前身として存続している銀行の内、国立銀行時代のナンバーを引継いでいない所の大半は、「国家総動員法(昭和13年4月1日法律第55号)」に伴なう銀行の一県一行主義に基づいた戦時統合により、新たな法人として設立されているところが多い。このため、後身銀行である現在の銀行は、設立年月日をこの時期とし、国立銀行の設立日は「創業日」として扱われているケースが多い。なお、「国立銀行条例」が廃止となったのは、1954(昭和29)年の「大蔵省関係法令の整理に関する法律(昭和29年5月22日法律第121号)」の制定によるものである。日本最初の株式会社でもあり、後継銀行が東京株式取引所創設時より同市場に上場、第二次世界大戦後も東京証券取引所に上場していた第一国立銀行は、渋沢栄一により創設された。江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取立てられ、明治政府では大蔵少輔事務取扱となり、副大臣相当職の大蔵大輔、井上馨の下で財政政策を行なった渋沢栄一は、退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所等といった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」と称される。また、『論語』(古代中国の思想家、孔子と、その高弟の言行を、孔子の死後、弟子達が記録した書物)を通じた経営哲学でも広く知られている。さらに、2024(令和6)年7月からは、新紙幣一万円紙幣の顔となる予定である。