6月11日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2火曜日 旧暦  5月 6日、仏滅(丙午)、月齢  4.6 
グレゴリオ暦で年始から163日目、年末まであと203日。
誕生花 リーガルリリー・べにばな・ヒゲナデシコ。

傘の日。
この季節の必需品である傘の販売促進を願い、東京都台東区浅草橋に事務局を置く、傘メーカー有志により1963(昭和38)年に設立された任意団体、日本洋傘振興協議会(JUPA)が、1989(平成元)年に制定。日付は、この日が暦の上で「梅雨入り」を意味する雑節の1つ、「入梅」になる年が多いことから。この季節の必需品である傘の販売促進と、傘の使い方等、モラルの向上が目的。傘は、雨・雪・日光等が直に当たらないよう、頭上に広げ差しかざすものである。竹や金属等の骨に紙や布等を張り、柄をすえて開閉ができるようにしたもので、「笠」と区別するために「さしがさ」ともいう。「笠」とは同語源である。「傘」は、上から降下してくるものに対して、直被しないように防護する目的の用具で、一般には、手に持って差掛けて使う用具の総称を指し、頭部に直接被って使う用具である「笠」と区別される。なお、ガーデンパラソルやマーケットパラソル等、携行を目的としない特殊な傘もあり、これらは、地面に立てたり吊ったりして用いる。傘は現代においては、雨や雪等の降水時に、体や持ち物を濡らさないために使う他、夏季の強い日射を避けるために使うことも多い。日本には、第29代天皇、欽明天皇の時代である552(欽明天皇13)年に、百済(古代の朝鮮半島南西部にあった国家)の第26代の王、聖王(聖明王)の使者から渡来した外来品で、当初は主に、日射を避ける「日傘」として用いていたが、その後、日本独自の構造的進化も見られ、降水に対して使うことが多くなっていった。日本語では、使う目的によって雨傘、日傘と呼んで区別する。日本の伝統的な工法と材質で作られたものを和傘、西洋の伝統的な工法と材質で作られたものを洋傘と呼ぶ区別もある。洋傘をこうもり傘ともいうが、こうもり傘の語源に関しては、「傘をかぶる」が「こうむる」となり、これを語源とする等の複数の説があるが、アメリカ海軍の軍人、マシュー・ペリーがアメリカ海軍東インド艦隊を率いて日本に来航した際、持込んだ洋傘を「その姿、蝙蝠(こうもり)のように見ゆ」と比喩したことから生まれた、という説が最も有力である。現在の雨傘は、軸と骨が金属製で、防水加工した布が張られている物が多く、軽いカーボン製の骨の傘も増えてきた。日傘は、雨ではなく、強い日差しを避けるためのものであり、地面に軸を突き刺して利用する大判のものもあるが、一般に「日傘」と呼ぶ場合は、雨傘と同じく、手に持って使う小型のものを指す。日傘はその用途上、防水機能よりも、紫外線の遮断・反射機能や装飾性が求められ、雨傘と比較してサイズが小さめである場合が多いが、大寸のドーム型パラソルも登場してきた。日傘の普及に伴ない、特に、雨天でも使用可能を謳って商品化された日傘も存在する。通常の日傘よりも布の目が細かく、透水性のない仕様になっているが、あくまで「日傘としても使える雨傘」ではなく、「不意の雨でも使える日傘」といった位置付けがなされており、そのデザインや大きさ等は、日傘に準ずるものである。傘は、材質・地域によって大まかに和傘と洋傘に区別される。手で持つ棒(軸 = 中棒 = シャフト)の先端から放射状に細い棒(親骨)を出し、これに薄い幕(傘布)が張られているという基本構造、及び、未使用時には折畳んで収納可能という点は、両者に共通するものであるが、和傘が主に紙(油紙、防水加工した和紙)や竹を、洋傘が防水加工した木綿、絹、ナイロンやポリエステル等の化学繊維等を材料とする所に大きな違いがある。江戸時代後期の1804(文化元)年、長崎に入港した中国(中国清朝)からの唐船の舶載品目の中に、「黄どんす傘一本」との記述が見られる。これ以前にも、安土桃山時代に、堺の商人が豊臣秀吉に傘を献上した記録等、洋傘が海外から日本に持込まれた形跡はあるが、江戸時代の「黄どんす傘」が、洋傘として特定できる最古の記録とされている。因みに、どんす(緞子)とは、室町時代に中国(中国明朝)から伝えられたとされる絹の紋織物で、地は繻子(しゅす)織(サテン)で、地と表裏が反対になった繻子織の裏組織で模様を織り出したものとなっている。光沢があり、高級織物の代名詞とされる。厚地のものは礼装用の帯地、薄地のものは布団や座布団の生地として使われる。明治時代、洋傘の輸入本数は多くなり、文明開化(明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象)の波と共に、洋傘は一気に市民の手に渡っていった。1868(明治元)年に刊行された江戸・東京の地誌『武江年表』(江戸の町名主・考証家で、江戸の町についての基本資料を著述したことで知られる斎藤月岑が著したもので、徳川家康が江戸城に入った1590[天正18]年から1873[明治6]年までの市井[古代中国で、井戸のある所に人が多く集まり、 市が立ったところから、人が多く集まり住む所という意味になる]のできごとが編年体で纏められている)という書物に、「この年から庶民にも洋傘が普及し始めた」との記述がされている。明治時代以後の洋傘の普及により、和傘は急速に利用されなくなっていった。現在では、和傘は、雨傘としての利用は殆どなく、観光地での貸出しや、日よけ用として旅館や和菓子屋の店先、野点用等に、持歩くのでなく、固定して利用される程度である。今日のような開閉式の傘は、13世紀にイタリアで作られたと言われるが、傘の親骨(フレーム)には、鯨の骨や木を使っていた。イギリスでは、18世紀頃に現在の構造のものが開発された。傘の開発当初は、太陽から肌を守るため、つまり、日傘として開発され、雨の日は傘をさす習慣がなく濡れていた。ある1人の紳士が、雨の日に傘をさし笑われたとも言われている。しかし、時が経ち、人々はその紳士のマネをするようになり、次第に雨の日の必須アイテムとなった。当初、雨傘は女性の持ち物とされていたが、1750(寛延3)年、慈善家で旅行家であり、著述家、商人でもあったジョーナス・ハンウェイが、雨傘を使用したことをきっかけに、男性にも大幅に普及した。ジョーナス・ハンウェイは、ペルシャ(現在の西アジア・中東に位置するイランを表わす古名)を旅行中に見付けた中国製の傘が、雨傘として使われていたのに感激し、これを広めようと思って、防水を施した傘をさし、イギリスの首都ロンドンの町を歩いたという。女性の持ち物とされていた傘を、男性は雨の日には、帽子で雨を避けるのが当たり前で、雨具として男が傘を使うのは、ペチコート(スカートの下に着用する女性用の下着の1つで、スカートの滑りをよくする目的と、スカートのシルエット形成目的で使われる)を着るのと同じこと、という程奇異に思われる時代に、その大胆さは変人扱いを招いたとされる。ところが、ジョーナス・ハンウェイが約30年間も手に持歩き、雨傘として使い続けたことで、イギリスの男達の目にも、次第に傘が見慣れたものとなっていったという。洋傘の普及に伴なって、ジャンプ傘、折畳み傘、ビニール傘等が汎用化するに至っている。傘を開く際には、各骨を支える棒(受骨)を束ねた部分(下ろくろ = ランナー)を、軸に沿って押上げる必要がある。これを、バネの力を利用して自動化したものが「ジャンプ傘」と呼ばれるもので、最近では、閉じることも自動化したものが製作されている。折畳み傘は、親骨(リブ)の部分が二段階に折れ曲がると共に、中棒の部分も大管に小管が収まることで、小さく折り畳めるようになっている傘である。1928(昭和3)年に、ドイツ人のハンス・ハウプトが発案した。近年では、中棒(中軸)や各骨を最小限の強度を満たすだけの素材で構成し、傘布にビニールシートを使った「ビニール傘」が、廉価で販売される例が定着し、広く認知されている。