6月6日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

おけいこの日、いけばなの日。
昔から、芸事は6歳の6月6日から始めると上達する、と言われていることから。8世紀前半に編纂された日本最古の歴史書『古事記』に「稽古」があり、その意味は、古(いにしへ)を稽(かむがへ)ることである。古武道(日本の伝統的な、徒手、若しくは鈍器や刃物、火器等の武具の使用法や、水泳、乗馬等、戦闘に関わる技術を体系化したものの総)等の形練習においては、過去の達人であった先人の遣った理想的な形に近づくべく修練することである。武道、芸能に限らず、親方や師匠が教えることを、「稽古をつける」という。また、単に学んだことを練習することも稽古という。「お稽古ごと」というと、伝統芸能に限らずピアノ教室等も含まれる。どれにおいても、稽古を積み研鑚を重ねることによって実力を付けていく。「いけばなの日」は、日本の伝統文化であるいけばな芸術の普及・発展のために活動する公益財団法人、日本いけばな芸術協会が制定。1966(昭和41)年に設立された公益財団法人日本いけばな芸術協会は、日本の東部と西部に分かれており、東部の事務局は東京都千代田区永田町、西部の事務局は大阪市中央区高麗橋にある。記念日を通して、いけばなの技術の習得だけでなく、その歴史等から知見を広げること、花に直接ふれることで、命の尊さやパワーを感じ、人間性を豊かにしてもらいたい、との願いが込められている。いけばな(生け花)は、華道とほぼ同じ意味で使われるが、「華道」という呼称は、「いけばな」よりも求道的意味合いが強調されている。華道には様々な流派があり、様式・技法は各流派によって異なる。華道は、日本発祥の芸術ではあるが、現代では国際的に拡がってきている。欧米のフラワーデザインは、3次元のどこから見ても統一したフォルムが感じられるように生けるとされる。華道の場合、鑑賞する見る方向を正面と定めている流派も多くあるが、3次元の空間を2次元で最大限に表わす流派もある。また、華道は、色鮮やかな花だけでなく、枝振りや木の幹の形状、葉や苔と等、全てを花材とし鑑賞する点でも、海外のアレンジの概念とは一線を画している。華道の発祥は、仏教伝来に際し花を献じる「供花」に由来するという説が有力である。また、一輪挿し等に挿した花を愛でる習慣は、古くは平安時代位まで遡ることができる。華道の確立は、室町時代中期、京都六角堂(現在の京都市中京区にある仏教寺院)の僧侶によるものとされる。僧侶は代々、池の畔に居住していたことから「池坊(いけのぼう)」と呼ばれていた。そうした呼び名が、後に流派の名前となる。家元、宗家らによって江戸時代中期にかけて立花(たちばな、りっか)と呼ばれる型が大成されていった。 その後、江戸時代中期から後期になると、華道はそれまでの上流階級・武家階級のものから、広く庶民の嗜みへと変化し、生花(しょうか、せいか)を中心に広く愛さるようになった。今日の華道と言えば、江戸時代後期、文化文政の時代に流行した生花、挿花のことを指すことが多い。特に、江戸後期に大流行した曲生けと呼ばれた遠州流系では、技巧の達人・名手が多く登場し、意匠を凝らした銅の花器や、厳選された木材と職人技の塗り花台等と共に、数寄者(芸道に執心な人物の俗称)がこぞって花を生け、今もその意匠・デザインは引継がれていることも多い。また、関西では未生流系、東日本では古流系等の流派から、多くの流派に分かれていくきっかけとなる。江戸時代末期から明治時代初期の頃、世界的なジャポニスム(ヨーロッパ等で見られた日本趣味)により華道(生け花)がヨーロッパに紹介され、ヨーロッパのフラワーデザインにラインアレンジメント(縦と横のラインだけで構成されるアレンジメント)の手法として影響を与えた。国内ではやがて、花姿は時代の流れに即し、なげいれ花、盛花(もりばな)等、さまざまな型が編み出された。また、異種花材として植物以外のあらゆる材料も「花材」として盛んに取入れられている。
かえるの日。
「かえる友の会」の会員で、作家の矢島さらが1998(平成10)年に制定。かえるの鳴き声「けろ(6)けろ(6)」の語呂合わせと、6月は梅雨ということから。矢島さらは、1989(平成元)年に、当時の女子中高生を赤裸々に描く、現在のライトノベル(「軽小説」を原義とした小説の分類名で、明確に定義付けられてはいないが、若者向け、読み易い文体、アニメ絵の表紙をしている物等がそう呼ばれ易い)の先駆的小説によってデビューした。愛くるしいカエル関係の書籍を出版する等、カエルを心から愛して已まない「かえる友の会」会員としても、精力的に活動しているという。「かえる友の会」は、埼玉県蕨市南町にある、幕末から明治時代にかけて活躍した絵師、河鍋暁斎の個人美術館『河鍋暁斎記念美術館』内にあり、カエルに関する情報交換や、「かえる展」等のイベントを行なっている。日本におけるカエル(蛙)は、棲息に好適な水辺や水田が多かったことから、常に人にとって身近な存在となっている。古来より春の景物とされ、日本に現存する最古の和歌集『万葉集』以来、特に鳴き声を愛でて詩歌に詠む。和歌での「かはづ」は、主に鳴き声が美しいことで知られるカジカガエルのことを指すが、この語は、平安時代初期頃から混同され、かえる一般を指すようになった。俳諧においては、カエル一般を指すと思われる用例が増える。「蛙」は春の季語で、これは、初蛙のイメージからとされる。「雨蛙(あまがへる)」「蟇/蟾蜍(ひきがへる)、蟾(ひき)、蝦蟇(がま)」「河鹿(かじか = カジカガエル)」は夏の季語である。「日本最古の漫画」とも称される、現在の京都市右京区に所在する高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物『鳥獣人物戯画(鳥獣戯画)』にも、サルやウサギと共に、人間に擬せられたカエルの姿が、生き生きと描かれている。また、江戸時代中頃から江戸で出版された、絵入り娯楽本等の総称『草双紙』では、妖術使いの悪漢が大蝦蟇(おおがま = 空想上の化け物)に乗って登場する等、様々な表現のモチーフとなっている。昭和40年代には、カエルを主人公としたテレビアニメーション等(『ど根性ガエル』)や、着ぐるみ劇(『ケロヨン』)が人気を博した。江戸時代の本草学者・儒学者、貝原益軒の本草書(生物学書や農学書に相当する資料集)『大和本草』によれば、「かえる」の名は、他の土地に移しても必ず元の所に帰るという性質に由来すると記述されている。日本では、「お金が返る(かえる)」として、カエルのマスコットを財布の中に入れておく習慣がある。西洋においても、カエルはよく親しまれている。ノーベル賞の授賞式では、参加した学生と受賞者がカエルのようにジャンプする「蛙跳び」の儀式があり、これは、受賞者のさらなる飛躍を願ってのことである由。受賞者の参加は自由意思によるが、参加した受賞者には「カエル勲章」が授けられる。第二次世界大戦対米英戦において、連合国軍が採った戦略が、アイランドホッピング、又はリープフロッギング(蛙飛び)と呼ばれ、日本では飛び石作戦と呼ばれることが多い。これは、ラバウル等の要塞化され侵攻が困難な日本軍の拠点を避けながら、比較的日本軍の戦力が薄く、かつ、日本本土に迫るには重要な位置にある島(サイパン島等)に連合国軍の戦力を集中させ、攻略してゆくというものである。これを可能にしたものは、アメリカ海軍の潜水艦部隊であり、アメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍からなる圧倒的な航空戦力であった。連合国軍の潜水艦部隊や航空戦力は、比較的航空機の援護が薄かった日本軍の輸送船を撃沈して、補給物資や部隊移動の遮断を行ない、日本軍が多数駐留し、拠点にしている島を孤立させ、無視できる存在にした。