5月31日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

藻岩山の日(もいわ山の日)。
藻岩山は、北海道札幌市南区にある標高531mの山である。札幌の中心から南西、南南西にあり、20世紀後半になって高い建物が林立する以前は、市内中心部からもよく見えた。展望台とスキー場によって、札幌市民と観光客の行楽地となっている。藻岩山山開き(6月1日)の前日である5月31日が、偶然にも標高の「531m」に符合することから、毎年5月31日が「藻岩山の日(もいわ山の日)」とされ、この前後の数日には、藻岩山観光運営委員会が企画したイベントが開催されている。藻岩山の基盤を構成する地質は、第三紀の中新世末(約500万年前)から鮮新世(約500万年前から約258万年前までの期間)に、浅い海底に噴出した溶岩でできた西野層と呼ばれる地層である。その後、第四紀(約260万年前から現在までの期間)に起きた3回の噴火により安山岩(長石や石英等でできている火山岩)が噴出し、山体を作った。藻岩山の山体の大部分は、2回目の噴火による。山は幅広い谷を挟んで、尾根を東と南東に伸ばす。北東面は直線状斜面を形成し、豊平川扇状地に面している。山麓に近いところが山鼻という地域で、その北方に札幌市中心部が発展している。市街にビルが立並ぶ以前に、札幌の人々が馴染んだ藻岩山の姿は、この方面から見たものである。東に伸びる尾根は、札幌市街方面から見ると、裾野で長く平らに伸び、先端が急に落ちて見える。古くは、この形から、尾根の先端を「軍艦岬」と呼んだ。岬とは呼ばれるが、崖下を流れるのは山鼻川である。南東側の尾根も崖(割栗)で終わり、崖下を豊平川が流れる。長く通行困難で、藻岩地区を札幌から切離していたが、現在は国道230号が通じている。2つの尾根に挟まれた浅い谷は藻岩下という地区で、山鼻川が流れ出る。 北西と西は後志山地で、藻岩山は山地の東の端に位置する。現在の藻岩山は、アイヌ民族(東北地方北部から北海道等に先住していた民族)から「インカルシペ」(いつも上って見張りをするところ)と呼ばれていた。この山は、アイヌ民族にとっての聖地であり、山腹には、カムイシュネ(神の灯火)が灯る様が眺められたという。山鳴りがする時は、天然痘(非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる感染症の1つ)の流行の兆しとして警戒し、本当に天然痘の流行が始まればこの山に逃込み、神の加護を願った。しかし、明治時代、入植した和人達は「モイワ」(小さな岩山)と呼ばれていた隣の小山と「インカルシペ」を取違え、「インカルシペ」を藻岩山、「モイワ」を円山と呼び習わし、やがて、誤解されたまま地名として定着してしまった。この藻岩山は、札幌に近いこと、近くの豊平川を用いた水運が利用できることから、明治時代には南側で木材が伐採され、北の沢川から豊平川、創成川を経由して札幌まで流された。山頂には、登山道の他、北側からロープウェイともーりすカー(密閉型キャビンを持つミニケーブルカー)の乗継ぎ、或いは、南側から藻岩山観光自動車道(冬季休業)で中腹まで至り、もーりすカー(ミニケーブルカー)に乗換えて行くことができる。但し、共に有料である。山頂展望台からは石狩平野、そして、石狩湾までを一望することができ、夜には札幌市街の夜景を楽しめる。北東斜面には、シナノキ、ミズナラ、シラカバ等の広葉樹が生い茂る藻岩原始林があり、1921(大正10)年3月3日には、北海道で最初の天然記念物に指定された。一度も人の手が入ったことのないという、厳密な意味での原始林ではなく、天然林に当たる。天然記念物になる以前から、伐採等の利用が禁止され、今日に至る。第二次世界大戦後占領期には、山腹(ロープウェイコースの北側)を切拓いた進駐軍(連合国軍最高司令官総司令部[GHQ])専用のスキー場が建設され、長野の志賀高原スキー場と並んで、本邦初のスキーリフトが導入された。現在は、植生がある程度回復しており、スキーリフトの台座等の遺構が残るのみである。藻岩下の上、山頂から南東方に札幌藻岩山スキー場がある。札幌の中心部から10km足らずという立地もあって、多くの市民で賑わう。山頂から冬期閉鎖中の観光自動車道を滑り降りることもできる。1886(明治19)年に山道が造られたことを記念する山開きをして以来、毎年6月1日に山開きが行なわれている。北海道札幌市中央区にある浄土宗の寺院、北縁山廣度院新善光寺は、1884(明治17)年、公娼(公に営業を許された娼婦)の遊郭(公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀等で囲った区画)であった薄野遊郭内に開山する。その後、1901(明治34)年には、現在地に移転した。この際、第122代天皇、明治天皇が最初の利用者となった高級西洋ホテル「豊平館」(後に公会堂となり、現在は、札幌市中央区中島公園内に移築されている)の初代料理長等で知られる料理人の原田伝弥も、寺院の創設に協力している。1886(明治19)年に北縁山廣度院新善光寺は、寺の裏手にある藻岩山に、山頂までの参道を整え、石像を揃えることに着手し、1888(明治21)年に盛大な山開きを行なった。この参道は、現在も登山道として使用されている。1901(明治34)年には、西国三十三所(近畿2府4県と岐阜県に点在する33ヶ所の観音信仰の霊場の総称で、これらの霊場を札所とした巡礼は、日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている)観音霊場を模倣して、藻岩山に三十三体の観音像を配置し、霊場として整備した。当初は、仏像の準備が間に合わず、観音像が描かれた掛け軸を木の枝にぶら下げてあり、それを拝みながら山を登るスタイルであったが、僧らが準備できた観音像を1体ずつリュックに入れ、山まで担ぎ上げて、順次整備を進めた。山頂には、観音像を祭った1坪の石堂も建てられた。 
青峰忌。
新聞記者・俳人・翻訳家、嶋田青峰の1944(昭和19)年の忌日。青峰忌は、夏の季語の1つとなっている。本名は賢平で、俳号の青峰は、故郷の山、青峰山(三重県鳥羽市と志摩市の市境に位置する標高336mの山)に由来する。嶋田青峰は、俳人・作家の高浜虚子が俳人の柳原極堂から継承した俳誌『ホトトギス』の編集を任されていたが後に離れ、「温厚な生活感情の句」を特徴としていた俳誌『土上』の中心人物となる。しかし、昭和期以降、過激な俳句革新運動である新興俳句運動に理解を示していたことから、1941(昭和16)年、「治安維持法(昭和16年3月10日法律第54号)」による新興俳句派に対する弾圧事件「新興俳句弾圧事件(昭和俳句弾圧事件)」に連坐して逮捕される。当時の俳壇の主流を占めていた、季語・定型を重視する「ホトトギス」の伝統俳句に対し、1931(昭和6)年から反「ホトトギス」運動として興った俳句運動、新興俳句運動は、叙情的な調べによって理想美を追求する水原秋桜子や、従来の俳句にはなかった都会的な素材、知的・即物的な句風、映画理論に基づく連作俳句を試みた山口誓子を先駆として、女性のエロスを主題とした句や無季俳句を作った日野草城や、伝統俳句から離れたモダンな感性を持つ俳句で知られる西東三鬼らが呼応する。新興俳句運動は、思想的深まりを帯びると共に反軍反戦へと進み、形式も無季(季語を持たない俳句)準定型(定型に囚われない俳句)へと発展したが、政府からの言論弾圧を受けて終焉に追込まれる。個々の新興俳人の活動は、第二次世界大戦後に復活して、その流れが受継がれ、従軍した鈴木六林男、戦火想望俳句(無季俳句の好題である戦争に拘った俳句)を作った三橋敏雄等は、無季による戦争俳句を作り続けた。嶋田青峰は、留置場で喀血して釈放され、自宅での療養に入るも、第二次世界大戦対米英戦の戦時中で、十分な医薬品・栄養・燃料を得られなかったばかりでなく、門下生からは、連座を恐れて絶縁を申入れられ、見舞いの客も殆どないという不遇の生活が続いた。結局、病状が好転することなく、釈放から約3年が経過した1944年(昭和19)年5月31日に62歳で亡くなった。亡くなるまで一度も立つことができなかったという。このことから、俳句史上に悲しい印象を残している。