5月29日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

エスニックの日。
東京都千代田区神田佐久間町に事務局を置き、東南アジアを始めとするエスニック文化を持つ国々と、日本との国際交流の推進を目指す、一般社団法人日本エスニック協会が制定。エスニック文化やエスニック料理の普及活動を行なうと共に、日本の伝統的な料理とエスニック文化が融合した新しい食文化の開発等、さまざまな文化的創造を図る。日付は、5月29日の「5」を、アルファベットの「S」と見立て、「29」を「ニ(2)ック(9)」と読み、合わせて「エス(S)ニ(2)ック(9)」としたもの。なお、エスニックとは、自分達の文化圏に対して、異文化や異民族の習慣等を指して使われる言葉である。日本でエスニック料理という場合は、インドネシアやタイ等の東南アジアの料理や、インド、西アジア、中近東といった地域の料理を指すことが多い。これらは、1980年代中頃からニューヨーク、東京、パリ等の大都市のレストランで、流行の先端を行く料理として紹介、提供されるようになり、脚光を浴びるようになった。エスニック料理の代表とも言える東南アジアの料理の特徴としては、使用される調味料が挙げられる。第一に、魚やエビを発酵させてうま味を引出した魚醤(ぎょしょう)や蝦醤(かしょう)がある。魚醤は、タイではナンプラー、べトナムではヌクマム(ニョクマン)、カンボジアではタクトレイと呼ばれている。日本料理で言えば、秋田の「しょっつる」、石川の「いしる」が魚醤に近く、タイではカピと呼ばれる蝦醤は、塩辛に近い。第二には、トウガラシが挙げられる。乾燥したものを使用する日本とは異なり、生を使用する。トウガラシは、中南米を原産とする、ナス科トウガラシ属の果実、或いは、それから作られる辛味のある香辛料である。栽培種だけでなく、野生種が香辛料として利用されることもある。なお、トウガラシ属の代表的な種であるトウガラシにはさまざまな品種があり、ピーマン、シシトウガラシ(シシトウ)、パプリカ等、辛味がないか、殆どない甘味種(甘唐辛子[あまとうがらし])も含まれる。トウガラシ属は、中南米が原産地であり、北アメリカ南部に位置するメキシコでの歴史は、紀元前6000年に遡るほど非常に古い。しかし、世界各国へ広がるのは15世紀になってからである。英語では、カプシカム・ペッパー、レッド・ペッパー、チリ・ペッパー等と呼ばれる。コショウ科コショウ属のつる性植物の果実を原料とする香辛料、コショウ(胡椒)とは関係が無いにも関わらず、コショウ(胡椒)の英名である「ペッパー」と呼ばれている理由は、ヨーロッパに唐辛子を伝来させたイタリア出身(定説)の航海者・探検家、クリストファー・コロンブスが、インドと勘違いしてアメリカ大陸近傍の海域に到達した際、唐辛子をインドで栽培されている胡椒の一種と見做したためである。それ以来、トウガラシ属の実は全て「ペッパー」と呼ばれるようになった。第三にココナッツミルクが挙げられる。これは、料理にもデザートにも使用される。また、ハーブやスパイスも特徴的で、殆ど生のまま使用する。ショウガやニンニク、香菜(シャンツァイ、パクチー、コエンドロ等とも称する)、レモングラス、バイ・マックルー(コブミカンの葉で柑橘類特有の強い香りをもつ)等で独特の味、香りを加える。さらに、これらのうま味、辛味、甘味に加え、柑橘類の絞り汁やタマリンド(マメ科の植物)の熟した果肉に水を加えて、絞った甘酸っぱい液を使って酸味を加える。代表的な料理に、タイのトムヤムクン(エビを使った酸味と辛味の効いたスープ)、ベトナムのゴイクン(生春巻)、インドネシアのナシ・ゴレン(炒飯)等がある。なお、タイ料理に欠かせない香草の「パクチー」(英語では「コリアンダー」で、カレーのスパイス等に使われる)に関連する「パクチーの日」は、「パ(8)ク(9)チー」の語呂合せから8月9日とされている。 
地下鉄の日。
京都市内、及びその周辺地域で公営交通事業を行なう京都市の地方公営企業(都道府県、及び市区町村が経営し、法人格を持たないため、いわゆる社内カンパニーに当たり、一般会計[行政予算]とは切離された特別会計での独立採算制を採る)の1つで、地下鉄(市営地下鉄)、路線バス(市営バス)を運営している京都市交通局(本局所在地は、京都市右京区太秦下刑部町)が制定。1981(昭和56)年5月29日、京都市初の地下鉄となる、京都市営地下鉄烏丸線の北大路駅 - 京都駅間が開業した。烏丸線はその後、1988(昭和63)年に京都駅 - 竹田駅間、1990(平成2)年に北山駅 - 北大路駅間、1997(平成9)年に国際会館駅 - 北山駅間と、順次延伸されている(路線距離13.7㎞)。北大路駅 - 十条駅間は、烏丸通の地下を通り、京都市中心部を南北に貫いている。竹田駅付近は地上区間になっており、これは、東西線を含めた京都市営地下鉄全線で唯一である。開業当初は4両編成で運行されていたが、竹田駅への南進開業後は全列車が6両編成で運行されている。竹田駅開業の約2か月後から近畿日本鉄道(近鉄)京都線との相互乗入れを行ない、当初は、国際会館駅 - 新田辺駅間で、後に近鉄奈良駅まで直通運転区間が拡大されている。烏丸線内は、全ての駅が将来の増結に対応したホーム長となっている。近年の京都への観光客数の増加と比例するように、利用者数は増え続けており、2022(令和4)年度では1日平均約246,000名の利用があった。関西圏の地下鉄の中では、大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)の御堂筋線、及び谷町線に次いで、3番目に利用者数が多い。京都市営地下鉄にはもう1つの路線、東西線がある。京都府宇治市の六地蔵駅から京都市右京区の太秦天神川駅までを結ぶ東西線(路線距離17.5㎞)は、京都市中心部と京都市東南部の山科区・伏見区との通勤輸送、及び滋賀県大津市との都市間輸送の一部を担う路線であり、1997(平成9)年に醍醐駅 - 二条駅間が開業し、2004(平成16)年に醍醐駅から六地蔵駅まで延伸、2008(平成20)年1月16日には、二条駅から太秦天神川駅までが開業した。京都市山科区の御陵駅から滋賀県大津市のびわ湖浜大津駅までを結ぶ、京阪電気鉄道(京阪)の軌道路線、京阪京津線(路線距離7.5㎞)の電車が、びわ湖浜大津駅から御陵駅を経て、太秦天神川駅まで直通運転している(京都市役所前駅で折返す列車もある)。但し、京都市営地下鉄の電車は、京阪京津線への直通運転を行なわない。

世界カワウソの日(World Otter Day)。
5月最終水曜日。イギリスにあるカワウソの種の保存のための活動を行なう非営利(NPO)団体、国際カワウソ生存基金(The International Otter Survival Fund)がカワウソの保護を目的として制定。イタチ科カワウソ亜科に属する哺乳動物カワウソは、かつて13種あったものの、環境の変化や乱獲、密輸によってその数は激減し、ニホンカワウソは絶滅し、5種が絶滅危惧種に指定されている等、絶滅の危機に瀕している。カワウソを飼育している世界中の水族館や動物園では、さまざまなイベントが行なわれる。日本在来種のニホンカワウソはかつて、日本全土に生息していた。各地に伝わっている河童伝説は、実はニホンカワウソを見間違ったと考えられるものが多く、各地の伝承にもしばしば登場。七十二候の1つ「獺祭魚(だっさいぎょ)」は、春になってカワウソ(獺)が魚を捕らえるようになった時季を表わしている等、ニホンカワウソは古くから親しまれていた。「獺祭魚」とは、元々中国から伝わった言葉で、カワウソには捕らえた魚を一度並べてから順に食べる習性があり、それがまるで供物を祭っているように見えることに由来する。身近な動物であったニホンカワウソも、乱獲や近代の開発によって生息数が激減。1928(昭和3)年には、狩猟の対象外にされたものの減少は止まらず、高知県須崎市で1979(昭和54)年に目撃されたのが最後となり、2012(平成24)年、環境省はニホンカワウソを絶滅種に指定した。現在、日本の水族館や動物園で見られるのは、コツメカワウソ、ユーラシアカワウソ、ツメナシカワウソ、カナダカワウソの4種である。なお、2017年(平成29)年2月、カワウソの姿が対馬に設置された琉球大学のカメラに捉えられ、同年8月に発表された。日本国内では38年振りとなる。  
多佳子忌。
俳人、橋本多佳子の1963(昭和38)年の忌日。橋本多佳子は、新興俳句運動の指導的存在である俳人、山口誓子に師事し、新興俳句運動の中心的存在である俳人、水原秋桜子が主宰する月刊俳句雑誌『馬酔木』の同人となる。第二次世界大戦後俳壇の女流スターとなり、女性の哀しみ、不安、自我等を、女性特有の微妙な心理によって表現した。句集に『海燕』『信濃』『紅絲』等があり、力強い作品も多い。 
白櫻忌、晶子忌。
歌人で作家・思想家、与謝野晶子の1942(昭和17)年の忌日。歿後に出された最後の歌集『白櫻集』に因み、「白櫻忌(白桜忌)」とも呼ばれる。晩年の与謝野晶子は、白いソメイヨシノの花を好んだという。情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』や、日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名で、『源氏物語』の現代語訳でも知られる。歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現する等、考えられなかった時代に女性の官能を大らかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立した。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌に因み、「やは肌の晶子」と呼ばれた。夫の与謝野鉄幹と共に、日本で初めての男女平等教育を実施、共学を実現した専修学校『文化学院』を設立した。与謝野晶子は、日露戦争後から新聞や雑誌に警世の文を書くようになり、評論活動を始める。評論は、女性の自立論と政治評論に分類でき、教育問題等も評論している。女性の自立論は、女性が自分で自己鍛錬・自己修養し、人格陶冶することを説いた。英米思想的な個人主義である。数学が大変得意であり、女性も自然科学を学ぶべきと主張した。また、各府県市町村に民選の教育委員を設けることを提案している。今の教育は「文部省の専制的裁断に屈従した教育」であるから、それを「各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任」し、それによって「教育が国民自身のものとなる」と主張している。他にも、ヨーロッパの老婦人が若い婦人と様々の社会奉仕に努力する姿を見て、日本にも成人教育や社会教育の場を作るよう提言している。