5月28日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

-585年 - 日食の戦い(ハリュス川の戦い)。メディア王国(現在のアジア・中東に位置する、イラン北西部にあった王国)がリディア(現在のアジアとヨーロッパの2つの大州に跨る、トルコ共和国のアジア部分にあった国)に攻込むが、偶然起こった日蝕(日食のことで、太陽が月によって覆われ、太陽が欠けて見えたり、或いは、全く見えなくなる現象)を不吉に感じて戦争を止め、戦場となったハリュス川を国境に定める。
0621年 - 虎牢の戦い。虎牢関(現在の中国中東部にある河南省の省都、鄭州市の市内に位置する滎陽市汜水鎮の西南部に置かれた関所)において、中国唐朝の武将、李世民が率いる軍が、混乱期に割拠した群雄、王世充と竇建徳の軍に勝利。李世民は、中国の北方を統一し、中国唐朝の版図の基礎を画定する。後の626年には、中国唐朝の第2代皇帝、太宗として即位。優れた政治力を見せ、広い人材登用で官制を整える等、諸制度を整えて中国唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築く。
1503年 - スコットランド王ジェームズ4世が、イングランド王ヘンリー7世の娘、マーガレット・テューダーと結婚。
1588年 - スペインの「無敵艦隊」が、イングランド遠征のためリスボン(ポルトガルの首都であるが、当時はスペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合の状態であったため、スペインの支配下にあった)を出発。スペインは、大航海時代(ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行なわれた時代)の海洋航海技術・造船技術を発展させ、強大な海軍を育成する。ただ、130隻からなる大艦隊「無敵艦隊」の名称は、後にこの艦隊と戦うことになったイギリスで、「半ば皮肉混じりに恐怖と賞讃の意味を込めて奉った尊称」である。スペインの文献では、単に「艦隊」、或いは「大艦隊」「いとも壮大なる艦隊」との形容詞が付く程度である
1830年 - アメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンが、インディアン移住法(ミシシッピ川[アメリカ合衆国中西部にある川]の東に住んでいたインディアン部族[アメリカ先住民]をミシシッピ川以西の土地に強制的に移住させたもの)に署名。インディアン移住法は、「文明化五部族」(かつてアメリカ合衆国において、ヨーロッパ系入植者の習慣を採用したとする、5つのインディアン部族[チェロキー族、チカソー族、チョクトー族、クリーク族 、セミノール族]を指す)が居住する土地への入植を切望していた南部で強く支持される。特に、当時最大の面積となっていたジョージア州(アメリカ合衆国南東部に所在)は、チェロキー自治領との司法での論争を繰返しており、アンドリュー・ジャクソンは、移住によりジョージアの危機を解決することを望む。理論上、インディアン移住は自発的に行なわれるべきであったが、実際には、強い圧力が移住条約に調印したインディアンのリーダー達に掛かる。殆どの観察者は、インディアンのリーダー達がインディアン移住の方針を支持していたか否かに関係なく、法の可決は州からの殆どのインディアンの必然的な移住を意味したと理解でき、それ以前に移住に抵抗していた一部のインディアンのリーダー達は、特に、1832年のアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンの地滑り的な再選の後に、彼らの立場を再考し始める。多くの反対があったにせよ、殆どの白人アメリカ人は、インディアン移住法の可決を支持する。エレミヤ・エヴァーツに代表される多くのクリスチャンの宣教師は、法の可決に反対する運動を行なう。アメリカ合衆国東部、ニュージャージー州選出の上院議員、セオドア・フリーリングハイゼンと、アメリカ合衆国南部、テネシー州選出の下院議員のデイヴィッド・クロケットは、この法に反対を表明する。インディアン移住法は、痛烈な討論の後に議会で可決される。インディアン移住法の条項の下で批准されたさまざまな条約が、数万のインディアンを気の進まない、しばしば強制的な西部への移住に導く。移住法の後に調印された最初の移住条約は、1830年9月27日のダンシング・ラビット・クリーク条約で、アメリカ合衆国南部、ミシシッピ州のチョクトー族が西部の土地と補償金と引換えに、川の東側の土地を割譲する。1835年に調印されたニュー・エコタ条約は、「涙の道」として知られるチェロキー族の大移動をもたらす。インディアンは西部への移住により多くの犠牲者を出し、インディアンのいなくなった南部の広大な土地は綿花地帯となる。
1858年 - ロシア帝国と中国清朝が璦琿条約(アイグン条約)に調印する。璦琿条約(アイグン条約)は、19世紀から20世紀初頭にかけて、中国清朝が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約(ある国家が他の国家に、自国民等に対する権力作用を認めない条約)の1つとされる条約で、アムール川(現在の中国最北東部、黒竜江省とロシア極東地方の境界を流れる川)以北が、中国清朝からロシア帝国に割譲される。
1871年 - 「血の1週間」の戦闘が終結。パリ・コミューン(史上初の「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言したパリの自治市会)が瓦解し、パリ統治が終了する。
1885年 - 工部省(近代国家のための社会基盤整備と殖産興業を推進した中央官庁で、所管業務は現在の総務省、経済産業省、国土交通省に受継がれている)品川硝子製造所払下げ。1877年11月に操業を開始した品川硝子製造所は、ヨーロッパの技術を導入して、さまざまなガラス製品を試作する。日本初の製靴会社「伊勢勝造靴場」を設立した実業家で、耐火煉瓦製造業等も手掛けた西村勝三らに払下げられた後、品川硝子会社となり、日本で始めての大量生産によるビール瓶製造にも乗出している。しかし、板ガラス製造に失敗したこと等により、ガラス事業としては成功せず、1892年に解散する。
1902年 - 日本で電柱広告が許可される。電柱広告は、電力会社、或いは電気通信事業者の電柱(電力柱、電信柱)に掲示される広告である。電柱はおよそ30m間隔で設置されているため、広告と同時に道案内による誘導が行ない易い。
1905年 - イルティッシュ号投降事件。日本海海戦で損傷を受けた、ロシアのバルチック艦隊に所属する特務艦『イルティッシュ』が航行不能となり、島根県那賀郡都濃村和木(現:島根県江津市和木町)で投降する。1903年にドイツ海軍の石炭運送船として建造された、排水量15,000トン、全長180mの『イルティッシュ』は当時、兵装として8つの小口径砲を装備していたが、日本海海戦で船体の3ヶ所(第二ハッチ右側、甲板上の社交室、艦前方)に被弾し浸水。日本沿岸を北上していたが、都濃村和木の沖合で航行不能となる。『イルティッシュ』が姿を現した際には大騒動となったが、白旗を確認すると住民達は安心し、救助活動に取掛かる。そして、艦長以下乗組員235名全員が上陸し、住民から飲食を含めた保護を受ける。住民による救助活動と、炊出しを受けたロシア兵には、涙を流すものもあったという。翌年(1906年)から、戦争等による中断を挟みながらも、和木住民によって、ロシア兵を偲んだロシア祭りが行なわれている。島根県江津市和木町には、『イルティッシュ』の乗組員の慰霊碑が建てられており、遺留品等は和木公民館に保管されている。
1926年 - ポルトガルで1926年5月28日クーデターが起こる。ポルトガル第一共和政が終結し、ポルトガル第二共和政となるエスタド・ノヴォ(保守権威主義的な独裁政権で、ヨーロッパ最長の独裁体制、とされる)へ移行する。
1927年 - 第1回日本オープンゴルフ選手権競技が開催される。この年は、アマチュア選手の赤星六郎が初代優勝者に輝いている。以来、日本のトッププロとトップアマチュアが出場し、日本プロゴルフ界の頂点を極めるビッグトーナメント、日本プロゴルフ選手権大会と並ぶビッグイベントに成長する。
1927年 - 第1次山東出兵。中国の国民党北伐軍に対抗して、日本政府が居留民と権益の保護の為に中国東部、黄海沿岸にある山東省へ出兵。