5月27日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

百人一首の日。
1235(文暦2)年5月27日(旧暦)、公家で日本の代表的な歌人の1人、藤原定家の撰による『小倉百人一首』が纏まった、とされることに因む。藤原定家の日記『明月記』の1235(文暦2)年5月27日(旧暦)の項に、藤原定家が親友の宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて書写した和歌百首の色紙が、京都嵯峨野(現在の京都市右京区嵯峨)に建築した別荘、小倉山荘の障子に貼られた、との記述があり、この記事が小倉百人一首の初出ではないか、と考えられている。藤原定家による、1180(治承4)年から1235(文暦2)年までの56年間に亘る克明な記録、『明月記』の名は、藤原定家が命名したものではなく、一般的には、「定家卿記」の名称が用いられていたようで、藤原定家当人自身は、「愚記」と読んでいた。概ね、14世紀の南北朝時代の頃から、『明月記』の名称が用いられるようになったとされる。『小倉百人一首』は、和歌の全句が書かれた読み札と下句のみが書かれた取り札から成り、取った札の多少を競う「歌がるた」として広く用いられ、100名の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んで作った秀歌撰、百人一首と言えば、通常、この『小倉百人一首』を指すまでになった。『小倉百人一首』の原型は、鎌倉幕府の御家人(鎌倉殿[鎌倉幕府]と主従関係を結び従者となった武士)で、歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、藤原定家が作成した色紙である。宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)は、京都嵯峨野(現在の京都市右京区嵯峨)に建築した別荘、小倉山荘の襖の装飾のため、藤原定家に色紙の作成を依頼した。藤原定家は、飛鳥時代の第38代天皇、天智天皇から鎌倉時代の第84代天皇、順徳天皇まで、100名の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」等と呼ばれた。後に、藤原定家が京都嵯峨野の小倉山で編纂したという由来から、『小倉百人一首』という通称が定着した。室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、『小倉百人一首』は、歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。百人一首に採られた100首には、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、概ね古い歌人から新しい歌人の順である。小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』等の勅撰和歌集(天皇や上皇の命により編集された歌集)に収載される短歌から選ばれている。『小倉百人一首』は、単に歌集として鑑賞する以外の用途でも広く用いられている。中学や高校では、古典の入門として生徒に『百人一首』を紹介し、これを暗記させることがよくある。これは、それぞれが和歌(5・7・5・7・7の31文字)なので暗唱し易く、また、正月に遊戯として触れることも多いので、生徒にとって馴染みがあるからである。また、短い和歌の中に掛詞(同じ音、或いは類似した音を有するものに、2つ以上の意味を込めて表現する方法)等、さまざまな修辞技巧が用いられ、副詞の呼応(一定の文末表現とペアで使われる副詞[自立語で活用がなく、主として用言を修飾して連用修飾語になるもの])等の文法の例も含まれることから、古典の入門として適した教材と言える。さらに、現在では歌集としてよりも、かるたとしての方が知名度が高く、特に正月の風物詩として馴染みが深い。『小倉百人一首』のかるたは歌がるたとも呼ばれるもので、現在、一般に以下のような形態を持つ。百人一首かるたは、百枚の読み札と同数の取り札の計200枚から成る。読み札と取り札は共に花札のように紙を張り重ねて作られており、大きさは74mm×53mm程度が一般的である。札の構造、材質、裏面等は、読み札と取り札では区別がない。読み札の表面には、大和絵(平安時代の国風文化の時期に発達した日本的な絵画)風の歌人の肖像(これは、歌仙絵巻等の意匠によるもの)と作者の名、和歌が記されており、取り札には、全て仮名書きで下の句だけが書かれている。読み札には彩色があるが、取り札には活字が印されているだけである点が、大きく異なる。江戸期までの百人一首は、読み札には作者名と上の句のみが、取り札には下の句が、崩し字で書かれており、現在のように、読み札に一首全てが記されていることはなかった。これは、元来歌がるたが、百人一首を覚えることを目的とした遊びであったためであり、江戸中期頃までは、歌人の絵が付されていない読み札もまま見られる。歌かるたが正月の風俗となったのは、格別の理由がある訳ではなく、元々、さまざまな折に子どもや若者が集まって遊ぶ際に、百人一首がよく用いられたことによるものである。その中でも、特に正月は、子どもが遅くまで起きて遊ぶことを許されていたり、わざわざ百人一首のための会を行なうことが、江戸後期以降、時折見られたりしたこともあり、現在では、これが正月の風俗として定着しているものと推測される。なお、坊主めくりという遊び方があり、坊主めくりをする際には首は読まない。使用する札は読み札のみで、取り札は使用しない。百枚の絵札を裏返して場に置き、各参加者がそれを一枚ずつ取って表に向けていくことでゲームが進む。多くのローカルルールが存在するが、多くで共通しているルールは以下のようなものである。男性が描かれた札を引いた場合は、そのまま自分の手札とする。坊主(ハゲと呼ぶことも稀にある)の描かれた札を引いた場合には、引いた人の手元の札を全て山札の横に置く。女性の札(姫)を引いた場合には、引いた人がそれまでに山札の横に置かれていた札を全てもらう。蝉丸(平安時代前期の歌人)の札を引いた場合、引いた人は一回休み。裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了となる。この時、最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。坊主めくりは、歌を暗記していない子どもも参加できる遊びとして考案されたとみられるが、その発祥時期と考案者は明らかでなく、江戸時代の文献には現われないことから、明治以降に成立したものと考えられている。百人一首を用いた競技は明治時代以前から行なわれていたが、そのルールは地方、かるた会によって多種多様であった。1904(明治37)年、新聞記者・作家・翻訳家の黒岩涙香によって、競技かるたのルールの統一が図られた。黒岩涙香は「東京かるた会」を結成し、第1回の競技かるた大会を開催した。その後、ルールについては微妙な修正を経て、現在に至っている。競技かるたの全国団体としては、1934(昭和9)年に「大日本かるた協会」により、全国統一が図られた。その後、第二次世界大戦中、戦後の分裂を経て、1957(昭和32)年に、1954(昭和29)年結成の「全日本かるた協会」に統一された。「全日本かるた協会」は1996(平成8)年に社団法人の認可を受け、現在に至っている(なお、現在では、一般社団法人となっている)。東京都文京区大塚に事務局を置く、小倉百人一首を使用したスポーツ競技、競技かるた大会の開催等を行なう「全日本かるた協会」では、1955(昭和30)年から、男子選手の最強を決める名人戦を、1957(昭和32)年から、女子選手の最強を決めるクイーン戦を、それぞれ主催している。