5月27日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

日本海海戦の日・日本海海戦記念式典・海軍記念日(続き)。
バルチック艦隊は、約33,340kmもの長大な距離を、1904(明治37)年10月15日から1905(明治38)年5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは、水兵の間に潜在的に蔓延していた。ベトナム中南部にあるカムラン湾出航後は、ウラジオストクまで寄港できる港がないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積込んでいた。このため、ただでさえ実際の排水量が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦は、さらに排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、復原力の低下に繋がり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。長期の航海では、船底に付いた貝やフジツボが船足を落とす。当時の軍艦は、2ヶ月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは、本格的にはドックに入らなければできない作業であったから、長い航海の間にバルチック艦隊は、徐々に最高速度を落としていった。また、燃料の石炭も十分な無煙炭を確保できなかった結果、艦自体のスピードの低下や、もうもうと吐く黒煙によって、艦隊の位置を知られてしまう失態を演じてしまった。当時のロシア社会は、貴族の上級士官が庶民の水兵を支配するロシア、という構造的問題を抱えていた。上官と兵士ではなく、主人と奴隷のような関係の軍隊は、時に対立や非効率を産んだ。水兵の中にも、ロシア革命にも繋がる自由思想の芽が育ち始めた時期で、無能な高級士官への反発が、戦う意義への疑問を産み、士気を削いでいた。結果、サボタージュが頻繁に見られた。ロシア海軍の水兵の内、優秀な者は太平洋艦隊と黒海艦隊(ロシア南西部に位置するヨーロッパとアジアの間にある内海、黒海に駐留している、ロシアの主力艦隊の一翼を担っていた艦隊)に集められており、バルチック艦隊の水兵の質は最も低かった。航海前に多くの新水兵を乗せたが、アフリカ大陸東方のインド洋に浮かぶマダガスカルでの長期滞在中等、十分に戦闘訓練を行なったものの、目的が明らかでなく「訓練のための訓練」となってしまって、実戦に有効ではなかった。バルチック艦隊司令部は、長い航海の終わりに疲れきった状態での戦闘を避けるべく、終始、守勢の行動を採った。また、「ウラジオストクに一目散に逃げ込んで、十分な休養の後に日本艦隊と対峙しよう」という考えも、決戦の勢いを鈍らせた。結果、自艦隊に有利な状況での先制攻撃の決心を欠き、チャンスを生かせなかった。ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督が規律を重んじ過ぎる性格で、各艦の勝手な発砲に過敏な程の嫌悪感を示した影響も大きい。後年、東郷平八郎は、緒戦でバルチック艦隊の隊形の不備を指摘して「ロシアの艦隊が小短縦陣(2列縦列)で来たのが間違いの元だったのさ、力の弱い第二戦艦隊がこちら側にいたから、敵が展開を終えるまでに散々これを傷めた。あの時もし、単縦陣で来られたらああは易々とならなかったろう」と述べている。海戦当日の気象は、「天気晴朗ナレドモ浪高シ」とあるように、風が強く波が高く、日本艦隊の回り込みによって風下に立たされたバルチック艦隊は、向かい風のために砲撃の命中率がさらに低くなった。乾舷を高く設計したロシアの艦艇は、波が高いと無防備の喫水線以下をさらけ出すことになり、魚雷1発で撃沈されたとする見解もある。東郷平八郎は、指揮能力、統率能力も秀でていた。最前線で敵の動向に瞬時に対応する陣頭指揮を行ないつつ、幕僚を戦艦『三笠』で最も安全な司令塔に移動させ、自分が戦死した後の速やかな指揮権継承を保障する等の繊細な指揮を取った。東郷平八郎は、旅順封鎖の期間中も演習を行ない、十分に艦隊の練度を上げていた。直前の黄海海戦等の戦闘経験と、その勝利によって士気も高かった。また、黄海海戦の教訓を十分に活かした。複数の艦を同時に自由に反転させる等の、様々な艦隊運動を思いのままに行なうことができた。このため、逃げ回るバルチック艦隊の風上に常に回り込み、見事な艦隊を維持しながら、猛烈な砲撃を加え続けることができた。連合艦隊は、煤煙が一筋になって見える程、正確に整列した単縦陣を作っており、先頭の艦が取り舵(進行方向左に舵を転ずること)をとると、それに続く艦船も見事に後に付いて行く。バルチック艦隊のジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督は、その余りに素晴らしい艦隊行動に、先程までの自軍のだらしない艦隊行動を恥じたと言われる。連合艦隊司令部は、第1艦隊参謀秋山真之、第2艦隊参謀佐藤鉄太郎を参謀に擁し、上層部もその意見をよく重用しつつ、組織的、有機的に、最善の判断を行なうよう常に努力した。また、各艦隊司令官・各艦艦長は、必要に応じて独自の判断で行動する高い能力を持ち、高速巡洋艦からなる第2艦隊には、「船乗り将軍」や猛将と言われた上村彦之丞提督が任命される等、適材が適所に配属されていた。上村彦之丞は、判断良くバルチック艦隊の進路を塞ぎ、戦勝の重要な基因をなした。なお、毎年5月27日には、横須賀の海上自衛隊で「日本海海戦記念式典」が催されている。海上自衛隊は、日本海軍の軍艦旗と全く同一の意匠を、自衛艦旗の意匠として改めて採用し、日本海海戦を記念して制定された第二次世界大戦前の海軍記念日(5月27日)のイベント開催、5分前精神の徹底や信号喇叭による総員起こし、出航時の『帽振れ』、週末に海軍カレーを食べる習慣等、多くの文化を日本海軍から継承しており、その独特の気風から「伝統墨守唯我独尊」とも言われる。因みに、陸上自衛隊の気風は「用意周到頑迷固陋」、航空自衛隊の気風は「勇猛果敢支離滅裂」と言われる。5月27日は、この日本海海戦を記念し、1906(明治39)年3月に制定された「海軍記念日」になっていた。日露戦争は、アジアの小国と思われていた日本が、白色人種のヨーロッパの大国ロシアに初めて勝利を収めた戦いである。その中でも、遠路回航されたバルチック艦隊を迎え撃ち、これを撃滅した日本海海戦は、陸上での奉天会戦の勝利(陸軍記念日)と並んで日本国民が記念すべき日とされ、「海軍記念日」として祝われたものである。「海軍記念日」は第二次世界大戦後に廃止されたが、それ以降も財団法人三笠保存会等がこの日に記念式典を行なっている。日露戦争で連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗した敷島型戦艦の四番艦『三笠』は現在、防衛省が所管し、神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として保存され、現存している。『三笠』は、世界で現存唯一の前弩級戦艦(戦艦の初期の形態)である。現在の砲塔、煙突、マスト等は、第二次世界大戦後に作成されたレプリカで、主砲はコンクリートで復元されている。下甲板以下は、1922(大正11)年の「海軍軍備制限ニ関スル条約(ワシントン軍縮条約、大正12年条約第2号}」に基づき、コンクリートや土砂で埋められているため、艦内で見学できるのは上甲板と中甲板であるが、資料展示室や上映室等が作られているために、かつて軍艦であった面影は、後部部分の一部を除いて見ることができず、事実上、軍艦の形をした資料館となっている。三笠公園には、東郷平八郎の銅像等があり、大和型戦艦の砲弾も付近に展示されている他、旧帝国海軍を偲ぶ形で石碑も建設されている。『三笠』には、神奈川県横須賀市にある横須賀基地に配備されている、海上自衛隊横須賀教育隊の一般曹候補生が「三笠研修」として訓練見学に訪れ、隊員有志らはボランティアで清掃活動している。『三笠』を建造したイギリスの重工業メーカー(製鉄・造船・航空機製造等)、ヴィッカース社は、日本海海戦時の活躍を誇りとし、1911(明治44)年からの、日本初の超弩級巡洋戦艦となる金剛型戦艦の一番艦、『金剛』建造時には、一般に企業秘密とすることまで幅広く技術供与し、派遣された日本海軍の造船、造機、造兵各技術者を受入れ、技術指導を実施したことで、日本の造艦、造船のレベルは大きく引上げられている。