5月25日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

-240年 - 前漢時代の歴史家、司馬遷によって編纂された、正史(国家によって公式に編纂された王朝の歴史書)の第一に数えられる中国の歴史書『史記』秦始皇本紀に、ハレー彗星(約76年周期で地球に接近する短周期彗星で、多くの周期彗星の中で最初に知られた彗星でもある)出現の、確実で最も古い記録が現れる。
0723年 - 養老七年格が発布される。養老七年格は、後に三世一身法となる格(律令の修正法令)であり、墾田(新しく開かれた田地)の奨励のため、開墾者から三世代(又は本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。
1526年 - 駿河国(現在の静岡県中部・北東部[大井川以東])守護の今川氏親が、33条からなる分国法(戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法令)、今川仮名目録を制定。今川仮名目録は、東国では最古の分国法である。今川氏は、既に幕府の命令を待たずに遠江国(現在の静岡県西部[大井川以西])へと進出した時点で、守護大名から戦国大名へと立場を変えつつあったが、今川仮名目録の成立をもって、名実共に、戦国大名としての立場を明らかにしたとされる。内容は、戦国大名の権力誇示というよりも、土地等に関する訴訟の裁定基準といった色合いが強いことが特徴である。
1615年 - 大坂夏の陣: 豊臣方の武将、大野治胤の軍勢が、徳川方の兵站基地であった堺(現在の大阪府中部に所在)を焼打ちし、大坂夏の陣が開戦する。
1657年 - イングランド共和国(1649年から1660年までの間のイングランドでの政治体制)で「謙虚な請願と勧告」が制定される。「謙虚な請願と勧告」は、イギリス史上初の成文憲法であった統治章典に続く憲法で、王政への回帰と諸制度の復活を記し、統治章典の欠点を改善した内容が盛込まれる。
1659年 - 清教徒革命(ピューリタン革命、議会派が、国王を処刑して共和国を樹立したもの)の指導者で、独裁政治を行なおうとしたリチャード・クロムウェルが、イングランド護国卿(イングランドにおいて、王権に匹敵する最高統治権を与えられた官職)を辞任。
1787年 - フィラデルフィア憲法制定会議(イギリスからの独立後に連合規約下で運営されていたアメリカ合衆国を統治するための問題を討議した会議で、その結果はアメリカ合衆国憲法となって結実する)が、定足数の7州の代表が集まったことにより開会。
1810年 - 南アメリカ南部に位置するアルゼンチン(当時は、スペインが中南米の植民地化の間に作ったリオ・デ・ラ・プラタ副王[君主の代理人として植民地や属州を統治する官職]領)のブエノス・アイレス(現在のアルゼンチンの首都)で五月革命が起こる。副王バルタサール・イダルゴ・デ・シスネロスが失脚し、現地の政府プリメラ・フンタが樹立される。
1871年 - 日本初の特許(高度な技術的工夫を、発明として発明者の独占を認めること)法令である「専売略規則(明治4年4月7日太政官布告第175号)」が発布される。
1876年 - 青森県二戸郡と宮城県気仙郡が岩手県に移管され、現在の岩手県と青森県の県域が確定する。
1887年 - 福島県東蒲原郡が新潟県に移管され、福島県と新潟県の県域が現在の形になる。
1895年 - 日清戦争の講和条約、「日清両国媾和条約(下関条約、明治28年5月13日勅令)」による、日本への台湾割譲を阻止しようとした中国清朝の官僚唐景崧が、台湾民主国の成立を宣言する。台湾民主国軍は、台湾に上陸した日本軍と戦闘を繰返したが、日清戦争を勝抜いた日本軍と、傭兵主体で数にも劣る台湾民主国軍では実力が違っており、日本軍に撃破されて、台湾民主国軍は崩壊する。台湾民主国の新政府は空中分解し、唐景崧も逃亡して、台湾は日本によって平定される。
1899年 - 山陽鉄道(現在の西日本旅客鉄道[JR西日本]山陽本線)が運行した京都駅 - 三田尻駅(現:防府駅)間の列車に、日本初の食堂車が連結される。
1908年 - 日本と、南アメリカ北西部に位置するコロンビアが国交樹立。
1910年 - 幸徳事件(大逆事件)の検挙が開始される。なお、幸徳事件とは、第122代天皇、明治天皇を暗殺しようとした計画が発覚し、これをきっかけに多くの社会主義者やアナキスト(無政府主義者)に対して取調べや家宅捜索が行なわれ、社会主義者を根絶する弾圧を政府が主導し、捏造したとされる事件である。
1915年 - 大手総合商社、三井物産社員であった梁瀬長太郎が独立し、外国車輸入販売業「梁瀬商会(現在のヤナセ)」を設立する。
1941年 - 中華民国駐英大使郭泰祺とアメリカ国務長官ハルが、アメリカ合衆国の首都ワシントンで不平等条約改正の交換公文に署名する。
1945年 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: アメリカ軍の戦略爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス498機が東京を空襲。焼夷弾攻撃により、山手の都区部の大部分が焼失する。死者3,651名、負傷者17,899名、被害家屋165,545戸。
1949年 - 商工業の奨励・統制を担った商工省を改組して、通商産業省(現在の経済産業省の前身)が発足する。
1951年 - 内閣が「人名用漢字別表」を告示。人名用漢字92字を定める。人名用漢字とは、日本における戸籍に子の名として記載できる漢字の内、常用漢字(日常生活において現代日本語を書き表わす場合に使用する目安として、日本政府より選定された漢字)に含まれないものを言う。1947年12月22日に公布され、翌年1月1日に施行された「戸籍法(昭和22年12月22日法律第224号)」により、当用漢字(1946年11月から1981年10月まで用いられた、「当用漢字表」に掲げられた1,850字の漢字)の範囲に含まれない漢字は、新生児の名に用いることができないとされたものの、1951年5月25日、内閣は92字を人名用漢字として新たに指定し(人名用漢字別表)、その後、使用したい漢字が使用できないことから、裁判を行なって人名用漢字を追加することとなる。また、親が子に付ける名前の多様化が進んだ結果、人名用漢字別表は次第に数を増やし、2017年には、合計で863字となっている。
1953年 - アメリカ合衆国が、史上初、かつこれまでで唯一の核砲弾(弾頭に核兵器を搭載した砲弾)の実射試験を行なう。核兵器の小型化が進んでいない時代に、アメリカ合衆国で最初に作られた核砲弾は、1952年から配備が進められたW9核砲弾である。口径が280mmもある巨大なものであり、専用のアトミックキャノンと呼ばれるカノン砲(長砲身砲)により発射されるが、その巨大さ故に運用が困難であったが、その後は戦術核兵器の小型化が進められ、1963年には、一般的な155mm砲向けのW48核砲弾の部隊配備が開始される。核砲弾の実射試験は、アメリカ合衆国西部、ネバダ州のネバダ砂漠にあるネバダ核実験場で行なわれ、W9核砲弾が使用されている。
1954年 - ハンガリー生まれの写真家ロバート・キャパが、インドシナ戦争(第一次インドシナ戦争、ベトナム民主共和国の独立を巡ってフランスとの間で戦われた戦争)取材中に地雷に触れて爆死する。
1955年 - 世界3位の高峰で、ネパールとインドとの国境にあるヒマラヤ山脈のカンチェンジュンガ(標高8,586m)にイギリス登山隊が初登頂。
1955年 - 岩波書店から、中型の日本語国語辞典『広辞苑』初版が刊行される。
1957年 - 東京都千代田区有楽町に、そごう東京店(有楽町そごう)が開店。コマーシャルソング(キャンペーンソング)である、ムード歌謡歌手、フランク永井歌唱の楽曲『有楽町で逢いましょう』が流行する。
1959年 - 第二次世界大戦後初の国産潜水艦『おやしお』が進水式。『おやしお』は通常動力型潜水艦で、同型艦はない。水中速力20ノットを目指して、250t型、500t型、1,000t型の3種が検討されたものの、第二次世界大戦後初の国産艦であることから、造り易さが優先されて1,000t型が選定されたが、最終的には1,100t規模まで大型化する。艦型は、水中速力を重視した旧日本海軍の『伊二〇一型』潜水艦を参考にして、当時としては画期的な、正面断面積が小さくスリムなものとなる。1962年に就役し、1976年に除籍となる。
1960年 - 辞典類・教科書・参考書等を刊行する出版社、大修館書店が、漢字の研究者である諸橋轍次の『大漢和辞典』の最終巻を刊行。『大漢和辞典』は、世界最大の漢和辞典(漢字、漢語[熟語]の意味を日本語で解説した辞典)とされ、当初は本体12巻、及び索引巻の合計13巻であったが、修訂第二版で「語彙索引」(第14巻)1巻が追加され、さらに「補巻」(第15巻)1巻が出されたことで、現在では全15巻構成となっている。