5月24日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

エンパイヤ・デー/コモンウェルス・デー。
5月24日は、ハノーヴァー朝グレートブリテン=アイルランド連合王国第4代女王(グレートブリテン国王兼アイルランド国王を含めたハノーヴァー朝の君主としては第6代女王)ヴィクトリアの誕生日で、かつてイギリスの祝日であった。1819(文政2)年のこの日、ヴィクトリアは、ハノーヴァー朝グレートブリテン=アイルランド連合王国第2代国王ジョージ3世の孫として生まれ、1837(天保8)年にウィリアム4世(ジョージ3世の第3子)の後を継いで、18歳で国王に就いた。在位は1901(明治34)年までで、その在位期間は約63年7ヶ月にも及び、歴代イギリス国王の中では、ウィンザー朝グレートブリテン=北アイルランド連合王国第4代女王エリザベス2世(2022[令和4]年9月8日に崩御)に次ぐ長さである。この頃、イギリス(グレートブリテン=アイルランド連合王国)の国勢は最も盛んで、世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めたイギリス帝国(大英帝国)を象徴する女王として知られ、その治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれる。これを記念して、イギリスの祝日となった。コモンウェルス(the Commonwealth)は、イギリスとその植民地であった国から成るイギリス連邦のことである。かつてはイギリス帝国(大英帝国)であったことから、この日は「エンパイヤ・デー(帝国の日、Empire Day)」と呼ばれる祝日であった。1904(明治37)年にイギリスで「エンパイヤ・デー」が制定され、1958(昭和33)年に「エンパイヤ・デー」から「コモンウェルス・デー」に改称された。現在では、過去の歴史的な意味合いを持たない日として、3月の第2月曜日が「コモンウェルス・デー(英連邦諸国の日)」となっている。元々、コモンウェルス(commonwealth)とは、公益を目的として組織された政治的コミュニティーを意味する用語である。17世紀から現在に至るまで「共和国」の同義語として扱われたが、20世紀に入ってからは、「複数の国家や行政区等に亘る友好提携(及び、その運営組織)」という新たな定義が加えられつつある。イギリス連邦は、かつてのイギリス帝国(大英帝国)がその前身となって発足した、イギリスとその植民地であった独立の主権国家から成る、緩やかな国家連合(集合体)である。イギリス連邦は、「連邦」というが、連邦国家、或いは連合国家ではなく、中央政府を有しない国家連合である。カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等、イギリス国王を自国の国王に擁く人的同君連合である英連邦王国も加盟国に含まれるが、独自の君主や大統領を元首に擁く国家も多数存在し、旧イギリス帝国(大英帝国)に由来する連合としては、最も広範かつ緩やかなものである。1931(昭和6)年、イギリス議会におけるウェストミンスター憲章(イギリス連邦体系に法的根拠を与えたもの)において、イギリス国王に対する共通の忠誠によって結ばれた、それぞれが主権をもつ対等な独立国家の自由な連合体と定義され、イギリス、アイルランド自由国(現在のアイルランド共和国で、後に脱退)、カナダ、ニューファンドランド(後にカナダの1州となる)、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国で、後に脱退)をメンバーとして発足した。成立期のイギリス連邦は、ブロック経済としての側面を強める傾向にあった。1929(昭和4)年に始まった世界恐慌は、イギリス連邦にも甚大な被害をもたらしており、こうした中でイギリスは、従来取っていた自由貿易主義を放棄し、他国からの輸入に関税をかけた一方で、イギリス連邦内においては、1932(昭和7)年のオタワ協定において相互に関税率を引下げ、連邦内の貿易を促進する政策を取った。この関税は帝国特恵関税と呼ばれ、これによって、ポンド圏(スターリング・ブロック)が成立した。但し、経済的にアメリカと非常に強い関係にあったカナダは、このブロックには加入していなかった。逆に、イギリスと非常に強い経済関係にあったアルゼンチン(南アメリカ南部に位置する国)はこのブロックに加入する等、イギリス連邦とスターリング・ブロックの範囲は完全に一致していた訳ではない。この帝国特恵関税、及びスターリング・ブロックは、第二次世界大戦中に崩壊し、以後イギリス連邦が経済ブロック化することはなかった。第二次世界大戦後、1947(昭和22)年にインドとパキスタンが独立したことで、白人連合としての性格が消滅した。さらに、この独立の際に、インドは近日中に制定される予定の憲法において、共和制を取ることを表明し、なおかつ、その後もイギリス連邦に留まることを希望した。この要望は受入れられ、1950(昭和25)年にインドが共和制を採った際、連邦へのインドの残留を認めたために、以後「イギリス国王に対する共通の忠誠」は、連合体の必要条件から除外されることとなり、同君連合以外の国家も連邦参加が可能となった。こうして、同君連合である英連邦王国とイギリス連邦とが制度的に分離した。これにより、政治体制に係わらず、イギリスから新たに独立した国家がイギリス連邦に留まることが可能になり、以後の拡大をもたらすこととなった。また、1949(昭和24)年には、従来の加盟国の中で最も反英的であったアイルランドが完全に連邦から脱退した。イギリスの国力の衰退は続き、1940年代から1950年代には、アジア諸国が次々とイギリスから独立した。さらに、1960年代には、アフリカ諸国が次々とイギリスから独立したが、こうした新独立国の殆どはイギリス連邦に留まった。ただ、イギリス本国はイギリス連邦よりも、統一化の進むヨーロッパ大陸を志向するようになり、欧州経済共同体(EEC)に加盟して、イギリス連邦からヨーロッパへと重心を移すこととなった。イギリスの正式名称は、日本語では、「グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国」とする場合(法文等)と「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」とする場合(条約文等)がある。「イギリス」は、ポルトガル語でイングランドを指す「Inglez(イングレス)」が語源で、元の意味に係わらず、連合王国全体を指して使われており、その一部を為す「イングランド」とは区別されている。江戸時代には。オランダ語の「Engelsch(エンゲルシュ)」を語源とする「エゲレス」という呼称も広く使用された。幕末から明治・大正期には、「英吉利」(えいぎりす = イギリス)や「大不列顛」(だいふれつてん = 大ブリテン)と漢字で表記されることもあり、「英吉利」が「英国」という略称の語源である。但し、「英国」は、狭義に連合王国全体でなく、イングランド(英格蘭)のみを指す場合もある。
らいてう忌。
思想家・評論家・作家・フェミニストで、第二次世界大戦前から戦後に亘って活動した女性解放運動家であり、第二次世界大戦後は主に、反戦・平和運動に参加し、力を注いだ平塚らいてうの1971(昭和46)年の忌日。1911(明治44)年9月、平塚らいてう25歳の時、女性による月刊雑誌『青鞜』発刊を祝い、自らが寄せた文章の表題「元始、女性は太陽であった」は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の1つとして、永く人々の記憶に残ることとなった。1920(大正9)年には、日本初の婦人運動団体として「新婦人協会」を結成。「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための活動を行なっている。