5月20日 記念日 その6 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

世界ミツバチの日(World Bee Day)。
中央ヨーロッパに位置するスロベニア政府の提案に基づき、2017(平成29)年12月の国際連合総会で制定された国際デーの1つ。日付は、養蜂が盛んなスロベニアにおいて、近代養蜂の先駆者である養蜂研究家、アントン・ヤンシャ(世界初の養蜂研究家、ともされる)の誕生日、1734(享保19)年5月20日に由来する。この国際デーは、生態系に対するミツバチや、その他の花粉を媒介する生物の役割の重要性を認識するための日である。ミツバチ等の花粉を媒介する動物は、花から花に花粉を運ぶことにより、農作物を含む植物を受粉させ、地球上の生命を維持している。これらの動物は、英語では「ポリネーター(pollinator)」、日本語では「花粉媒介者」「送粉者」「授粉者」等と呼ばれる。ミツバチの他に、チョウやガ、ハナムグリ等の昆虫、コウモリ、ハチドリやミツスイ等の鳥類が知られる。人間は、ミツバチ等の花粉媒介者のおかげで食料を得ることができる。また、持続可能な農業や生物の多様性の保全にも重要な役割を果たしている。ミツバチや養蜂を保護することは、生態系を維持すること以外にも、農業を促進し、貧困や飢餓を減らすことにも繋がる。日本では、「みつ(3)ばち(8)」と読む語呂合わせから、3月8日が「みつばちの日」となっている。
森林(もり)の日。
岐阜県の郡上郡美並村(現:岐阜県郡上市)等、村名の頭に美の字が付く10村が「美し村連邦」(うましさとれんぽう)を建国するに当たり、10村に関わりのある森林を再認識し、その建国を記念して制定した日。日付は、森林は木が5つなので5月。木の画数は4なので、5×4で20日。そして、新緑の美しい5月20日とした。10村は毎年、持回りで会議を開き、豊かな自然の保護や過疎、高齢化対策をテーマに活動を行なっていた。なお、「美し村連邦」は、参加する村の殆どが、平成の大合併(「市町村の合併の特例に関する法律[合併特例法、平成16年5月26日法律第59号]」に基づき、1999[平成11]年4月から2010[平成22]年3月までに行なわれた市町村合併)で消滅することから、2003(平成15)年に解散している。唯一、現在も村として残っているのは、茨城県稲敷郡美浦村で、茨城県南東部に広がる日本第2位の面積となる湖、霞ヶ浦の南西に位置する美浦村には、日本中央競馬会(JRA)の東日本地区における調教拠点、美浦トレーニングセンターがある。美浦トレーニングセンターは、競走馬の鍛練・調教を目的に設置されているトレーニングセンターとしては、中央競馬・地方競馬を問わず、日本国内で最大の規模の施設となっている。森林には、渇水や洪水を緩和し、川の流量を安定させる水源かん養機能や、土砂崩れの防止機能、雨水の浄化機能等がある。また、温室効果ガスである二酸化炭素を吸収・貯蔵するので、地球温暖化の防止機能もある。そのため、これから未来に向けて森林を守っていく必要がある。日本では、法律や森林を守る制度等によって、「森林の木を伐ったら苗木を植え、育て、再び森林にする」ことになっており、日本の森林面積は過去40年間減ることはなく、ほぼ横ばいである。良い森林を造るためには植樹、下刈り、間伐等の手入れや管理が重要となるが、山の手入れや管理をする人は、年々高齢化しているため、その担い手の減少が懸念されている。  
「信濃の国」県歌制定の日。
師範教育者(初等・中等学校教員の養成者)の浅井洌が作詞し、同じく師範教育者(後に作曲家となる)の北村季晴が作曲した地理唱歌「信濃の国」は、1900(明治33)年に長野県師範学校(現在の信州大学教育学部の前身)の運動会で初めて披露されてから1世紀以上に亘り、長野県民に愛されてきた歌である。1968(昭和43)年5月20日に正式に県歌に制定されてから、2018(平成30)年に50周年を迎え、これを記念して記念日とした。これからも長く歌い継いでいくことが目的。「信濃の国」は元々、信濃教育会が作った唱歌である。当時は、教育の場にも日清戦争(1895[明治28]年に勃発した、主に朝鮮半島を巡る日本と清国[中国清朝]の戦争)の影響が及んでおり、これを心配した信濃教育会が、戦争とは離れたテーマを教材とすることを目的に、長野県師範学校の教諭に作成を依頼したもので、「地理歴史唱歌」6作品の中の1つであった。「信濃の国」は、1900(明治33)年に師範学校で初めて披露された後、卒業生が県内の学校で生徒に教えたことにより各地に広がり、歳月を経て、親から子へ、子から孫へという形で歌い継がれてきた。長野県で1966(昭和41)年に、県章やシンボルを決定した際、「信濃の国」を県民意識の高揚のために県歌に制定してはどうか、という気運が盛上がり、1968(昭和43)年5月20日には、「信濃の国」が県歌として制定された。こうして「長野県民の殆どが歌える」と言われる県歌が誕生した。2018(平成30)年に県歌制定50周年を迎え、「未来へつなごう!信濃の国」をテーマに記念事業が営まれ、特設サイトの公開や、イベント等が実施された。その中で、長野県ゆかりの著名人も参加した50周年記念ムービー「未来へつながるコーラスリレー」も作成された。50年後、100年後も愛される歌でありますように、との想いが込められている。現在の東京都中央区銀座に、江戸時代前期の国文学者、北村季吟の子孫として生まれた北村季晴は、父と親交のあったジェームス・カーティス・ヘボン(幕末に訪日して、横浜の近代医学の基礎を築いたと言われるアメリカの医療伝道宣教師・医師で、ヘボン式ローマ字の考案者としても知られる)が開校した明治学院(現在の明治学院大学の前身)に入学し、同級生となった島崎藤村(ロマン主義[感受性や主観に重きをおいた精神運動]詩人から代表的な自然主義[自然の事実を観察し、「真実」を描くために、あらゆる美化を否定するもの]作家となった)と親交を結ぶが、北村季晴に音楽の才能を見出したジェームス・カーティス・ヘボンの薦めもあり学院を中退し、東京音楽学校師範部へ進んだ。1901(明治34)年に長野県師範学校を退任し、三越呉服店(現在の百貨店、三越)音楽部主任となった。北村季晴の作詞・作曲・演出で、1905(明治38)年に「歌舞伎座」(現在の東京都中央区銀座にある歌舞伎専用の劇場)で、弥生狂言の中幕として演じられた『露営の夢』は、日本人の手になるものとしては、最初の本格的な歌劇とされている。 
子連れの日。
子ども連れでのビジネス講座等を手掛ける京都市の「一般社団法人ぷちでガチ」が制定。さまざまな場所に子どもを連れて行けるような、思いやり溢れる寛容な社会を築きたい、との思いと共に、子ども連れで行ける機会、場所を増やすことをきっかけに、障がいのある人、高齢の人等にも暮らし易い、バリアフリーな世の中に、との願いが込められている。日付は、5月20日の「8」と「20」で、「子連れ(こ[5]づれ[20])」と読む語呂合わせから。「ぷちでガチ」とは、子ども(ぷち)と一緒に本気(ガチ)で日本を元気にする、という意味。「一般社団法人ぷちでガチ」は、活動開始時から「会社ではできないことをしよう!」をモットーに、特徴ある運営を行なってきた。事業内容には、子育て世代向け教育サービス、育休中・前後の支援、セミナー企画運営、講師派遣等がある。
井泉水忌。
俳人・俳論家、荻原井泉水の1976(昭和51)年の忌日。1884(明治17)年生まれの荻原井泉水は、1908(明治41)年に東京帝国大学(現在の東京大学の前身)を卒業し、1911(明治44)年には、新傾向俳句機関誌『層雲』を主宰して、門下から尾崎放哉や種田山頭火らを輩出する。俳句革新運動の代表的人物として知られる俳人・随筆家、河東碧梧桐もこれに加わる。新傾向俳句運動の一翼を担うが、後に河東碧梧桐らと分かれ、季題に捉われず、感動を自由なリズムで書留める自由律俳句を唱え、俳壇に大きな影響を与える。1965(昭和40)年には、自由律の俳人としては唯一となる、日本芸術院(美術・文芸・音楽・演劇等、芸術のさまざまな分野において優れた功績のある芸術家を優遇し、顕彰するために置かれた国の栄誉機関)会員に選ばれている。句集『皆懺悔』『原泉』『長流』、評論『旅人芭蕉』『奥の細道』等、数多くの著作を残した他、仮名文字専用論を唱える民間団体(財団法人としては2013[平成25]年12月に解散し、現在は任意団体として活動を行なっている)、カナモジカイ(漢字の不便を取除き、片仮名による横書きを普及させることを目的として、1920[大正9]年に仮名文字協会として設立され、1923[大正12]年にカナモジカイと改称している)評議員を長く務める等、国字改良論に賛同した。1976(昭和51)年5月20日、脳血栓のため鎌倉の自宅で死去。享年92(満91歳)と、門弟の尾崎放哉や種田山頭火と違い、延命地蔵のお告げ通り天寿を全うした。