5月17日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1521年 - テューダー朝期イングランド王国の貴族、大司馬(兵権を司った中世イングランド王国の官職)バッキンガム公エドワード・スタフォードが、反逆の容疑で処刑される。バッキンガム公爵位は消滅し、大司馬も王権に統合される。
1792年 - アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨーク市の株式仲買人達がすずかけ協定(アメリカの固定手数料協定)を結び、市の中心街マンハッタンの南端部にあるウォール街での証券取引が始まる。これが後に、世界最大の証券取引所となるニューヨーク証券取引所に発展する。
1805年 - オスマン帝国(現在のトルコ共和国の前身で、全盛期には地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国となっていた)が、エジプト(アフリカ大陸北東端に位置する、現在のエジプト・アラブ共和国)へ派遣した部隊の司令官、ムハンマド・アリーがエジプト総督(ワーリー)に就任。ムハンマド・アリーは、混乱を収拾して権力を掌握し、総督による中央集権化を成遂げ、経済・軍事の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功する。
1814年 - ノルウェー(北ヨーロッパのスカンディナビア半島西岸に位置する国)憲法が採択され、デンマーク(北ヨーロッパのバルト海と北海に挟まれたユトランド半島と、その周辺の多くの島々からなる国)からの独立を宣言。デンマーク王家のクリスチャン・フレデリクがノルウェー王に就任する。
1833年 - アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナがメキシコ大統領に就任。アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナは、1833年から1855年までの間に11回(7回と数える意見もある)も大統領に選ばれており、有能な軍人とされるが、政治家としては評価されていない。ただ、良くも悪くも、メキシコが生んだ、その時代を代表する英雄の1人となっている。
1860年 - ドイツのサッカーチーム、『TSV1860ミュンヘン』が設立される。『TSV1860ミュンヘン』は、ドイツ南部バイエルン州ミュンヘンに本拠地を置く総合スポーツクラブでもあり、約2万名の会員を有する国内最大のスポーツクラブの1つである。サッカー部門が特に知られており、観客動員数では、世界第1位のプロサッカーリーグであるブンデスリーガに所属している。
1865年 - 万国電信連合(現:国際電気通信連合[ITU])が発足する。
1868年 - 日本からハワイへの密航移民約150名が横浜を出港する。
1875年 - アメリカ合衆国中東部、ケンタッキー州ルイビルにあるチャーチルダウンズ競馬場で、第1回ケンタッキーダービーが開催され、アリスティデスが勝利。アメリカクラシック三冠の第1冠、ケンタッキーダービーは、アメリカの競馬における3歳牡馬の最大目標で、アメリカの数ある競走としても最高峰のイベントとされ、アメリカの競馬の祭典である。世界でも1、2を争う高額の賞金が提供される大イベント、ブリーダーズカップ・ワールド・チャンピオンシップ等を凌ぐ視聴率や観客動員数を保っている。競馬界のみならず、スポーツイベントとしても、アメリカ国内で非常に知名度が高いもので、競走時間から「スポーツの中で最も偉大な2分間」等と形容される。また、優勝馬には、バラのレイが掛けられることから、「ラン・フォー・ザ・ローゼス」の通称も持つ。
1875年 - 最初の屯田兵が北海道に入植する。屯田兵は、明治時代に北海道の警備と開拓に当たった兵士とその部隊で、1890年前後から1900年頃にかけては、兵士に新しく耕地を開墾させ、平時は農業を行なって自らを養い、戦時には軍隊に従事させる制度、屯田の経営は好成績を収めたが、その後は北海道の開拓が進展し、大規模な入植に適した土地が少なくなったこと等から、1904年に廃止される。
1889年 - 「府県制(明治23年5月17日法律第35号)」が公布される。後に「道府県制(明治32年3月16日法律64号)」となり、「自治体としての府県」について規定する。1947年の「地方自治法(昭和22年4月17日法律第67号)」施行により廃止となる。 
1889年 - 「郡制(明治23年5月17日法律第36号)」が公布される。府県で処理するには小さく、町村で処理するには大きい事務を処理させるため、郡に両者の中間に位置する行政・自治団体としての機能を付与したのが法律としての「郡制」である。「郡制廃止ニ関スル法律(大正10年4月12日法律第63号)」により「郡制」は1923年に廃止され、郡は単なる地理的名称として残ることとなる。
1928年 - アムステルダムオリンピック(第9回オリンピック競技大会)開幕。8月12日まで。女性の陸上競技への参加が初めて認められ、女性への門戸開放という点で、大きく進歩した大会となる。日本からは人見絹枝が出場し、女子800mで銀メダルを獲得する(日本最初の女子メダリスト)。また、日本は、織田幹雄(陸上男子三段跳)と鶴田義行(競泳男子200m平泳ぎ)が、悲願であった金メダルを獲得している。
1931年 - 群馬県群馬郡金古町(現在は群馬県高崎市の一部)にある仮設映画館で、フィルムから発火して火災が発生し、14名が死亡、37名が重軽傷を負う。
1938年 - 日中戦争: 中国東部一帯で行なわれた徐州会戦で、西住小次郎戦車小隊長が戦死。日中戦争初の軍神となる。軍神とは、戦勝や武運長久を祈願し、聞届けてくれると言われる神を指す。近代以降になると、勇猛な戦死者の美称としても用いられるようになり、西住小次郎中尉以後は、軍が公式に指定することになる。西住小次郎中尉(死後、大尉に昇進)は、日本初の国産制式戦車として開発・量産された、八九式中戦車をもって、歩兵支援という重要任務で戦車長として活躍し、激戦を戦い抜き、その内5回も重傷を負いながらも、1回も前線を退くことなく、実に計34回の戦闘に参加して武勲を挙げる。徐州会戦中、単身で戦車を下車し、戦車隊の進路情報の収集活動を行なっている際に狙撃され、出血多量のために意識朦朧となりながらも、部下に知り得た情報の伝達を命じ、「天皇陛下万歳」の言葉を最後に息を引取る(享年24歳)。新聞が「昭和の軍神・西住大尉 陸軍全学校教材を飾る偉勲鉄牛部隊の若武者」との見出しを付け、その生涯と戦績について報じ、報道は過熱化して、マスコミは西住小次郎のことを一斉に書立て、軍神と称賛する。以降、西住小次郎は「軍神西住戦車長」等と謳われ、広く国民に知られることとなる。
1940年 - 第二次世界大戦: ナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党支配下のドイツ国)によって、ベルギーの首都ブリュッセルが占領される。
1945年 - 富山地方鉄道本線の越中三郷駅 - 東新庄駅間で、五百石発上り電車と電鉄富山発下り電車が正面衝突。死者53名、重傷者85名、軽傷者115名。
1947年 - 参議院の無所属議員58名が、院内会派(議会内で理念や政策を共有し、活動を共にする複数の議員で結成される団体)「緑風会」を結成する。「緑風会」は、1965年に自然消滅の形で解散するが、現在でも、この「緑風会」にあやかった同名の団体が多数存在する。
1954年 - アメリカ合衆国最高裁判所がブラウン対教育委員会裁判で、「人種分離した教育機関は不平等」との判決を出す。
1956年 - 作家、石原慎太郎原作の映画『太陽の季節』が封切られる。石原慎太郎の実弟で、俳優の石原裕次郎が端役で映画デビュー。原作の『太陽の季節』は、石原慎太郎の短編小説である。裕福な家庭に育った若者の無軌道な生活を通して、感情を物質化する新世代を描いた作品で、石原慎太郎の出世作である。ストーリーが倫理性に欠けることで、発表されるや、文壇のみならず一般社会にも賞賛と非難を巻起こすが、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞している。映画『太陽の季節』のストーリーは、原作にほぼ忠実で、石原裕次郎は元々、原作に登場する文化風俗等を、兄に代わって説明するような立場で関わっていたが、役者の数が足りなくなったため、急遽出演することになったという。因みに、この映画は、主演俳優であった長門裕之と、その相手役の女優南田洋子が結婚するきっかけともなっている。日本の映画製作、配給会社で、1960年代に黄金時代を迎えていた日活が制作した映画『太陽の季節』は大ヒットし、長門裕之と南田洋子は「日活の看板スター」となる。ただ、この映画を機に、一気に人気となった南田洋子とは対照的に、長門裕之は、実弟の俳優津川雅彦や、後輩の石原裕次郎らに人気は奪われている。