西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3木曜日 旧暦 4月 9日、赤口(庚辰)、月齢 8.0
グレゴリオ暦で年始から137日目、年末まであと229日。
誕生花 モッコウバラ(木香薔薇)・イキシア(白)。
旅の日。
「蕉風」と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の1人である松尾芭蕉が、紀行文『おくのほそ道』の旅に出た日が1689(元禄2)年3月27日(旧暦)であり、この日が新暦では5月16日に当たることに因んで、1988(昭和63)年に日本旅のペンクラブが制定。ともすれば忘れ勝ちな旅の心を、そして、旅とは何か、という思索を込めて問い掛ける日、としている。東京都府中市北山町に事務局を置く任意団体、日本旅のペンクラブは、旅を愛する作家や芸術家等によって、1962(昭和37)6月28日に設立され、旅の文化の向上を目指すと共に、自然環境保護や地域活性化のため、取材例会、観光振興への提言等さまざまな活動を続けている。日本旅のペンクラブでは、会長は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人の西行、副会長は松尾芭蕉ということが、最初からの申送りとなっている。西行は、秀郷流武家藤原氏の出自で、平安時代中期の貴族・武将であり、近江三上山の百足退治の伝説で有名な藤原秀郷の9世孫に当たる。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、23歳で出家して円位を名乗り、後に西行とも称した。出家後は心の趣くまま諸所に草庵を営み、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。1702(元禄15)年に刊行された『おくのほそ道』は、日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、松尾芭蕉の著作中で最も著名で、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という序文より始まり、作品中に多数の俳句が詠み込まれている。『奥の細道』とも表記されるが、中学校国語の検定済み教科書では、全て『おくのほそ道』の表記法を取っている。松尾芭蕉が、殆どの旅程で弟子の河合曾良(松尾芭蕉の弟子の中で、特に優れた高弟10人のことをいう蕉門十哲の1人)を伴ない、江戸深川(現在の東京都江東区に所在)の採荼庵(さいとあん)を出発し(「行く春や鳥啼魚の目は泪」)、全行程約600里(約2,400km)、日数約150日間で東北・北陸を巡り、1691(元禄4)年に江戸に帰った。『おくのほそ道』では、この内の武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)から、下野国、岩代国、陸前国、陸中国、陸奥国、出羽国、越後国、越中国、加賀国、越前国を通過して美濃国(現在の岐阜県南部)大垣を出発するまでが書かれている(「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」)。『おくのほそ道』の沿道には、多くの文化財が点在している。それらを統合し「文化財保護法(昭和25年5月30日法律第214号)の名勝(芸術上、又は観賞上価値が高い土地について、日本国、及び地方公共団体が指定を行なったもの)として、「おくのほそ道の風景地」が10県に跨り13ヶ所が指定されている。狩猟時代、人々は食糧採集のために旅をしており、鳥獣を追って山野を歩き、魚を獲るために川を上下した。水稲農耕が始まった弥生時代に入ると、農民は定住したものの、猟人、山人(山里に住む人)、漁師等によって食糧採集の旅は続けられており、また、農民以外の職は、行商人であったり歩き職人であったりした。当時は人口が少なく、待っていても仕事にならず、旅をして新しい客を、常に開拓する必要があったからである。中世から近世にかけては、店を構える居商人が次第に増えたものの、変わらず旅をする商人・職人も多かった(例えば、富山の薬売り等)他、芸能民、琵琶法師、瞽女(女性の盲人芸能者)等々もいた。行政によって強制された旅も多かった。防人(九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵)では、東国の民衆がはるばる九州まで赴いた。また、貢納品(租庸調という一種の税金)の運搬で、重い荷物を背負って都まで行かねばならず、途中で食糧も尽き、命を落とす者が絶えなかった。近世に入り、運送の専門業者が出現したことで、こうした貢納のための強制された旅は激減した。やがて、自由に自発的に行なう旅が生まれ発展していった。平安時代末期までは、交通の環境は苛酷なまでに厳しかったので旅は苦しく、かつ危険であったが、こうした苦難な旅をするのには強い動機があった訳で、それは信仰であった。僧侶は修行や伝道のために旅をし、一般人は社寺に参詣するために旅をした。平安末から鎌倉時代は、特に熊野詣(紀伊半島南部の熊野にある、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の熊野三山を参詣すること)が盛んであった。室町時代以降、伊勢参り(庶民の間では、一生に一度はお参りに行きたい憧れの地であった伊勢神宮[現在の三重県伊勢市に所在]に参拝する旅)が盛んになり、また、西国三十三所(近畿2府4県と岐阜県に点在する33ヶ所の観音信仰の霊場の総称で、これらの霊場を札所とした巡礼は、日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている)、四国八十八箇所(四国にある空海[弘法大師]ゆかりの88ヶ所の寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所)のお遍路(巡礼)等が盛んになった。それまで徐々に発達してきた交通施設・交通手段が、江戸時代に入ると飛躍的に整備された。江戸幕府が、五街道(江戸日本橋を起点とする5つの陸上交通路)や宿場(駅逓事務[宿場から宿場へ荷物を送り届けること]を取扱う為設定された町場)を整備する方針を打出して実現させたためである。宿場町には、宿泊施設の旅籠(旅人を宿泊させ、食事を提供することを業とする家)や木賃宿(燃料代程度、若しくは相応の宿賃で旅人を宿泊させた最下層の旅籠)、飲食や休息を取るための茶屋、移動手段の馬や駕籠、商店等が並んだ。また、貨幣も数十分の一から数百分の一程度の軽さのものに変わり、為替(遠隔地への送金手段システム)も行なわれ、身軽に旅ができるようになった。また、それまで多かった山賊や海賊も江戸時代には減り、かなり安心して旅ができるようになった。江戸時代には駕籠や馬も広く使われてはいたが、足代(料金)が高いことから、長距離乗るのは大名や一部の役人等に限られ、一般人はそれを使うとしても、ほんの一部の区間だけが多かった。船に乗る船旅も行なわれ、波の穏やかな内海は比較的安全で、瀬戸内海や琵琶湖・淀川水系、利根川水系等でよく行なわれていたが、外海では難破の恐れもある危険なものであった。農民の生活は単調・窮屈・暗いもので、農民は旅をしたがったが、各藩の方は民衆が遊ぶことを嫌い、禁止しようとした。しかし、参詣の旅ならば宗教行為なので禁止できなかったため、庶民は伊勢参宮を名目として観光の旅に出た。現代と比べて娯楽が少ない当時、旅の持つ意味は遥かに大きかった。また、江戸期には旅を題材とした旅文学・紀行文や絵画作品も多く作られた。近代になり、鉄道と汽船が利用できるようになると、一般人でも長距離の移動が楽にできるようになった。1886(明治19)年、修学旅行の嚆矢(ものごとの始まり)とも言われる、日本で最初に設立された官立の中等教員養成機関、高等師範学校(後に東京師範学校と改称され、現在の筑波大学の前身となる)の「長途遠足」が実施されるが、東京から千葉県銚子方面へ11日間軍装で行軍するという、軍事演習色の強いものであった。