5月15日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

五・一五事件の日。
1932(昭和7)年5月15日、海軍の青年将校、古賀清志中尉らと陸軍士官学校の生徒らが、首相官邸等を襲撃し、当時の首相である犬養毅を射殺する等した事件、五・一五事件が発生した。国家改造、軍部政権樹立のため、東京を混乱に陥れようとして決起したものである。翌日、内閣は総辞職し、海軍大将斎藤実を首班とする挙国一致内閣が発足した。前日に来日して犬養毅首相と面会する予定であった、イギリスの俳優で映画監督、チャールズ・チャップリンも「日本に退廃文化を流した元凶」として標的になっていたが、直前に急遽予定を延期し、大相撲観戦に行ったため、難を逃れた。五・一五事件は、二・二六事件と並んで、軍人によるクーデター・テロ事件として扱われるが、犯人の内、軍人は軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って、武器は民間から調達され、また、将校達も部下の兵士を動員している訳ではなく、その性格は大きく異なる。同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は、実際に体制転換・権力奪取を狙って、軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強く、これに対して五・一五事件は、暗殺テロの色彩が強い。五・一五事件により、この後は斎藤実、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。尤も、実態は両内閣共に、立憲民政党(民政党、都市中間層等を主な支持基盤とした政党で、立憲政友会との二大政党制を実現させたが1940[昭和15]年8月15日に解党)寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。立憲民政党内閣に不満を持った将校らが、立憲政友会(政友会、資本家や地方の地主を主な支持基盤とした政党で、1940[昭和15]年7月30日に解党)の総裁を暗殺した結果、立憲民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。また、犬養毅首相の死が、満州国(現在の中国東北部に所在)承認問題に影響を与えたという指摘もある。犬養毅首相は、護憲派(立憲主義[政府の統治を憲法に基づき行なう原理で、政府の権威や合法性が、憲法の制限下に置かれていることに依拠するという考え方]を擁護する立場)の重鎮で軍縮(軍隊の持つ兵器、装備、人員等の削減、或いは撤廃を行なうことで、軍隊の規模を縮小する方針)を支持しており、これも海軍の青年将校の気に入らない点であったと言われる。不況以前、大正デモクラシー(概ね、1910年代から1920年代にかけての期間に起こった、政治・社会・文化の各方面における民主主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称)に代表される民主主義機運の盛上がりによって、知識階級やマルクス主義者(ドイツ出身の哲学者・思想家・経済学者・革命家カール・マルクスと、ドイツの社会思想家・労働運動指導者フリードリヒ・エンゲルスにより展開された思想をベースとして、確立された社会主義思想体系の1つであるマルクス主義の信奉者)等の革新派は、露骨に軍縮支持・軍隊批判をしており、それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びる等、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていた、とされる。犬養毅首相は、中華民国の要人と深い親交があり、特に、政治家・革命家の孫文とは親友であった。それ故に、犬養毅首相は満州地方への進軍に反対で、「日本は中国から手を引くべき」との持論を、かねてより持っていた。これが、大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それに連なる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となったのである。また、犬養毅首相の暗殺が有名な事件であるが、首相官邸・立憲政友会(政友会)本部・警視庁と共に、牧野伸顕内大臣(宮中にあって天皇を補佐し、宮廷の文書事務等を所管した政府機関、内大臣府の長)も襲撃対象と見做された。しかし、「君側の奸」(君主の側で君主を思うままに動かして操り、悪政を行なわせるような奸臣[悪い家臣・部下])の筆頭格で、事前の計画でも、犬養毅首相に続く第二の標的と見做されていた牧野伸顕邸への襲撃は、何故か中途半端なものに終わっている。事件に関与した海軍軍人は、軍人を主な対象に施行された軍法(軍隊の構成員に対して適用される特別な法体系)の1つ、「海軍刑法(明治41年4月10日法律第48号)」の反乱罪の容疑により海軍横須賀鎮守府軍法会議(主として軍人に対し司法権を行使する軍隊内の機関)で、陸軍士官学校本科生は、「海軍刑法」と同じく、軍人を主な対象に施行された軍法の1つ、「陸軍刑法(明治41年4月10日法律第46号)」の反乱罪の容疑により陸軍軍法会議で、民間人は、「爆発物取締罰則(明治17年12月27日太政官布告第32号)」違反、「刑法(明治40年4月24日法律第45号)」の殺人罪・殺人未遂罪の容疑により東京地方裁判所で、それぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は、「陸軍刑法」の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。当時の政党政治の腐敗に対する反感から、犯人の将校達に対する助命嘆願運動が巻起こり、将校達への判決は軽いものとなった。このことが、二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押しした、とも言われ、二・二六事件の反乱将校達は、投降後も量刑について非常に楽観視していたことが、皇道派(天皇親政の下での国家改造[昭和維新]を目指した陸軍内の派閥)の陸軍青年将校で、二・二六事件において決起将校らと行動を共にし、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した、磯部浅一の「獄中日記」によって伺える。「獄中日記」は、共犯13名の処刑直後の1936(昭和11)年7月31日から、8月31日までに至るもので、磯部浅一の刑死後に、東京陸軍衛戍刑務所(軍事刑務所の1つ)看守の平石光久が密かに持出し、「五大文芸誌」の1つとされる文芸雑誌『文藝』1967(昭和42)年3月号において発表された。第二次世界大戦後の日本文学界を代表する作家の1人とされる三島由紀夫は、磯部浅一の「獄中日記」を高く評価し、磯部浅一の「獄中日記」が掲載された『文藝』1967(昭和42)年3月号に、『「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺書について』を寄せている。三島由紀夫の晩年の作、短編小説『英霊の声』(二・二六事件で銃殺刑に処せられた青年将校と、神風たらんと死んだ特攻隊員の霊が、天皇の人間宣言に憤り、呪詛する様を描いた作品)には、磯部浅一が獄中において記した手記(「獄中日記」や、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現する、という合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した、統制派の永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した事件、相沢事件以後の回想が描かれている「行動記」)からの抜粋が含まれている。『英霊の声』は、1960年代の三島由紀夫の1つの転換点となり、その後に書かれる、三島由紀夫の代表的評論である『文化防衛論』等への前駆的な役割を担っていた作品である。1932(昭和7)年2月から3月にかけて発生した連続テロ(政治暗殺)事件、血盟団事件では、政財界の要人が多数狙われ、井上準之助と団琢磨が暗殺された。日蓮宗の僧侶である井上日召は、テロリズムによる性急な国家改造計画を企て、暗殺組織を結成した。当初、この暗殺集団には名称がなく、「血盟団」とは事件後、井上日召を取調べた検事により付けられた名称である。前大蔵大臣(大蔵省[現在の財務省と、内閣府の外局である金融庁の前身]の長)の井上準之助と、三井財閥(現在の三井グループ)の総帥であった團琢磨が射殺され、捜査を開始した警察は、関係者を逮捕した。しかし、関与した海軍側関係者からは逮捕者は出なかった。五・一五事件の首謀者となった古賀清志は、繋がりのあった血盟団の残党を集め、大集団テロを敢行する計画を立案することとなる。