5月12日 記念日 その6 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

母の日(Mother's Day)。
5月第2日曜日。日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表わす日。アメリカ合衆国では、1861(文久元)年から始まった、アメリカ合衆国と、その連邦組織から脱退した南部11州が結成した南部連合(アメリカ連合国)との戦争、南北戦争終結直後の1870(明治3)年、女性参政権運動家のジュリア・ウォード・ハウが、夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否しようと立上がり、「母の日宣言(Mother' Day Proclamation)」を発した。ハウの「母の日」は、南北戦争中にアメリカ合衆国東部のウェストバージニア州で、ジュリア・ウォード・ハウの「母の日」平和運動に影響を受け、「母の仕事の日(Mother's Work Days)」と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させたアン・ジャービスという女性の活動にヒントを得たものであるが、結局普及することはなかった。アン・ジャービスの死後2年経った1907(明治40)年5月12日、その娘のアンナ・ジャービスは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会を持ち、白いカーネーションを贈った。これが、アメリカ合衆国での母の日の起源とされる。アンナ・ジャービスの母への想いに感動した人々は、母を覚える日の大切さを認識し、1908(明治41)年5月10日に同教会に、470名の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。アンナ・ジャービスは参加者全員に、母親が好きであった白いカーネーションを手渡した。このことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなった。アンナ・ジャービスは、友人達に「母の日」を作って国中で祝うことを提案する。1914(大正3)年に「母の日」は、アメリカ合衆国の記念日になり、5月の第2日曜日と定められた。その後、アメリカ合衆国国内で正式な記念日となった「母の日」であるが、カーネーションが高値で取引されたり、「母の日カード」が大々的に売出されたりと、余りに商業的・ビジネス的に便乗しようとする輩が後を立たなかった。アンナ・ジャービスは憤慨し、差止め裁判を起こす等して、これらの商業的便乗に歯止めを掛けようとしたが、結局資本主義の力には太刀打ちできず、「母の日」は、ビジネスの世界におけるビッグイベントとして定着することとなる。日本では、1913(大正2)年に青山学院(現在の東京都渋谷区渋谷に本部を置く学校法人で、幼稚園から大学院までを擁する総合学園)で、母の日礼拝が行なわれた。アンナ・ジャービスから青山学院にメッセージが届き、当時青山学院(現在でもミッションスクール[キリスト教の教えを教育理念とし設立され、運営されている私立学校]で、キリスト教の一派であるメソジスト監督教会から派遣された宣教師によって設立されている)にいた女性宣教師達の熱心な働き掛けで、日本で「母の日」が定着していくきっかけになった、とされる。1931(昭和6)年に大日本連合婦人会を結成したのを機に、香淳皇后(第124代天皇、昭和天皇の皇后)の誕生日である3月6日(地久節)を「母の日」としたが、1937(昭和12)年5月8日に、第1回「森永母の日大会」(森永母を讃へる会主催、母の日中央委員会協賛)が、東京府東京市板橋区上練馬村小名向山(現在の東京都練馬区向山)にある遊園地『豊島園(現:としまえん)』で開催された後、1949(昭和24)年頃からアメリカ合衆国の例に倣うようになった。母の日には、カーネーション等を贈るのが一般的である。1927(昭和2)年から1945(昭和20)年まで実施されていた「地久節」は、天皇の誕生日が「天長節」と呼ばれたのに対するもので、国の祝祭日として勅令(天皇が発した法的効力のある命令)で定められることはなかったが、女子校等において、「天長節」に準じた扱いで、祝いの儀式が行なわれた他、この日を「母の日」として、婦人会等を中心に様々な行事が開催されていた。なお、あまり知られていないが、5月5日のこどもの日は、「国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)」第2条によると「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝すること」が趣旨とされている。
袋物の日/ハンドバッグの日。
東京都台東区柳橋に所在する業界団体、社団法人日本ハンドバッグ協会(現在は、一般社団法人となっている)が制定。ハンドバッグ等の袋物の需要を高めることが目的。5月第2日曜日の「母の日」を記念日としたのは、「母の日」→「お袋の日」→「袋物の日」と連想をしてもらい、「母の日」にはハンドバッグを贈る習慣を広めことで、袋物のアピールをしたいとの考えから。PR上「ハンドバッグの日」ともしている。1960(昭和35)年に設立された一般社団法人日本ハンドバッグ協会は、日本の袋物産業の代表機関として、政府・国会・官公庁並びに関係団体との連絡渉外業務、会員の自主的経済活動の促進業務、全国的な広報事業活動の展開業務に当たり、日本の袋物産業の発展と国際社会における服飾文化の興隆に寄与することを目的としている。袋物とは、物を納める袋状の道具である。布、皮革、ビニール、紙類等で作られ、編物や組物製のものもある。使用の状態により、携行袋、保存袋、使用袋に大別される。携行袋には、ハンドバッグ、買物袋、紙幣入れ、貨幣入れ、名刺入れ、鏡入れ、紙入れ、タバコ入れ、その他のさげ袋類がある。保存袋には、茶器入れ、武具入れ、調度品入れ、楽器入れ等がある。使用袋の主なものは、漉袋(こしぶくろ)類である。袋物は日常生活に深く繋がるため、食糧、衣服、器財、燧(火打)袋、武具等を納めるために用いたものが最も古い。因みに、母親のことを「お袋」というのは、昔、貴重品を管理するのに袋を使っており、それを管理するのが母親の役目であったから、との説や、子宮を袋に見立てて、そこから来たとする説、母親が子どもを抱く時、懐に抱くので、それが詰まってふくろ、お袋になったとする説等、諸説ある。
タオルの日。
東京都中央区日本橋人形町に所在する業界団体、日本タオル工業組合連合会が制定。「お母さんにタオルを贈ろう」という趣旨で、5月第2日曜日の「母の日」を記念日として制定したもの。1968(昭和43)年頃、アメリカによる繊維品輸入規制の動きが高まる中で、政・官、財界、及び国民に対して、繊維業界が一丸となって総合的な対応を講ずる必要がある、との判断により、日本タオル工業組合連合会が1970(昭和45)年1月に設立された。なお、タオルを使用する機会が増える春先から初夏にかけての需要をさらに向上させ、タオル産業を盛上げることを目的として、「4」と「29」をタオルで「良く拭く(よ[4]くふ[2]く[9])」と読む語呂合わせから、大阪タオル卸商業組合が4月29日を「タオルの日」としている。タオルとは、タオル地(主に綿で作られる織物で、緯糸を織り込む際に、たて糸の一部[パイル糸]を緩めて布地にループ状の部分を形成し、保温性、保湿性、吸水性を高めたもの)の布で作られた手ぬぐいで、サイズや用途によって、フェイスタオル・バスタオル・ビーチタオル・スポーツタオル等に分類できる。また、毛布としてのタオルケットがある。タオルは、吸水性や肌触りに特化するため、その多くでは、表面にループ状の細かい糸(輪奈)が飛出している布地で、基となっている布地は、粗く通気性に富むものが一般的である。日本においては、安価で使い勝手がよく、何処の家庭でも邪魔にならずに利用してもらえるとして、引っ越しや年始の挨拶回り、内祝、歳暮等に渡す物、或いは、企業の宣伝で利用される粗品の定番となっている。また、製品にも拠るが価格が安く、意匠も施し易い等の点で、企業等では、印刷による名入れのタオルや、起毛部分を調節して企業名をあしらったもの等もあり、ホテルや旅館等の宿泊施設では、特注の名入りタオルを使っているところも少なくない。企業ノベルティ(企業が自社や商品の宣伝を目的として、それらの名称を入れて無料配布する記念品)として、意匠を凝らした高級タオルを配付する企業も見られる。用途としては、濡れたものを拭くために使ったり、又は、濡らして汚れをふき取るためにも使われ、肌触りが良いことから、人の体を拭くために利用されており、用途にもよって様々な製品が流通している。安価な製品では、数回洗っただけで伸びたり縒れたりするが、特に頻繁に洗濯することを前提とした衛生用品としてのタオルでは、丈夫な下地を持ち、洗っても風合いが損なわれ難い。なお、ボクシングでは、試合続行が不可能と判断した自陣のセコンドが、リング内に白いタオルを投入れることで、試合放棄を表明する。記録上ではTKOと表記され、ノックアウト負けとして扱われる。
ホームソーイングの日。
愛媛県松山市三番町に所在し、繊維生地買取を行なっている日本ホームソーイング振興会が、5月第2日曜日の「母の日」を記念日として制定。なお、日本ホームソーイング振興会は、昭和50年代に、テキスタイル商社、服飾卸商、ミシンメーカー、手芸店によって結成された団体で、現存していないが、全国の「手作り文化」が根強く感じられることから、現在の組織は、その名称と理念を継承しているという。ホームソーイングとは、家庭で裁縫をすること、或いは手作りの洋服を縫うことである。裁縫は、簡単なものでは、取れてしまったボタンを取付け直したり、又は、ほつれてしまった部分を直すことであるが、手芸として高度化すると、布から衣服を作り上げたり、ぬいぐるみ等の玩具から、雑巾等の日用品に至るまで、布製の物品を作ることである。ミシン等、裁縫を支援する機械も発達しており、こと先進国で利用されているミシンの中には、20世紀末頃よりコンピュータを内蔵した多機能化・高性能化した機器も登場している。先進国の多くでは、少なくとも必要最低限の用を足すことのできる、衣服を含む布製品は、安価で大量に販売されていることもあり、一般では、裁縫という行為そのものが日常から遠ざかっている家庭というのも、珍しいことではない。しかし、趣味の範疇で裁縫を好む者もいて、いわゆる「手芸用品店」等では、豊富に裁縫用品が販売されている他、ボタンの脱落等、簡単な「衣服の損傷」で買い換えることを好まない者等向けに、スーパーマーケットやコンビニエンスストア等でも。簡単で安価な「ソーイングキット」(最低限の道具をセットにした裁縫セット)が販売されている。なお、こういった裁縫道具等を収める箱のことを、裁縫箱という。針箱の別名である裁縫箱(ソーイングボックス)は、裁縫という作業に特化した道具箱の1つと言え、専用に設計されたものもあれば、間に合わせで、何らかの空き箱を再利用して使っている場合もある。箱の中身は、裁縫に用いられる道具や部材(材料)等で、裁縫に使う道具を保管し易いような物品も納められている。古くは、衣類に一定の価値がある時代においては、何処の家庭でも裁縫箱があり、ほつれや穴・ボタン外れ等は随時、修理されて利用されていたが、衣類が大量生産され、安価で、かつ、いつでも入手できるようになって以降では、これを持たないか、或いは簡略化された、ソーイングキットのような、簡単な裁縫道具のみを纏めたもので代用している家庭も少なくない。さらに、携帯用のものもある。小学校の家庭科で使用するため、小学生は共同購入することが多い。初心者向けのものには、練習用の運針用布等が入っているものもある。裁縫箱の内容物としては、針類(裁縫用の針で、用途に応じて様々な種類がある)、糸類(衣服の色に合わせて選べるよう、複数の色を取揃えることが一般的)、はさみ類、針刺し(ピンクッション)、糸通し(スレッダー、スレーダー)、衣服用ボタン等が挙げられる。