5月10日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0804年 - 後に天台宗の開祖となる最澄と、後に真言宗の開祖となる空海が遣唐使(中国文化の輸入を目的とし、朝廷が中国唐朝に派遣した公式の使節)として入唐。長期留学僧の学問僧として唐に渡った空海であるが、最澄はこの時期、既に天皇の護持僧である内供奉十禅師の1人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海は全く無名の一沙門で、空海の乗った船は、途中で嵐に遭い、大きく航路を逸れて漂着している。最澄は、空海とは別の船に乗っており、空海よりは早く入唐する。現在の中国東部、浙江省にある中国三大霊山の1つ、天台山(仏教の重要な経典の1つ、法華経を根本経典とした中国天台宗の開祖、智顗ゆかりの地として、古くから仏教信仰を集めている)に登り、天台教学を学ぶ。さらに、中国唐朝の翛然禅師より禅を学び、中国唐朝の密教(秘密に説かれた深遠な教え)の僧、順暁から灌頂(種々の戒律や資格を授け、正統な継承者とするための儀式)を授けられている。最澄は、805年に日本へ戻り、天台宗を開くが、最澄の学問の特色は、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想を共に学び、日本に伝えた(四宗相承)こととされる。渡唐に先立つ788年、現在の滋賀県大津市坂本本町にある標高848mの比叡山に、小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けていた最澄は、比叡山に大乗戒壇(大乗戒[大乗仏教における菩薩僧と大乗の信者に与えられる戒律]を授けるための戒壇[場所])を設立することを念願とする。大乗戒壇を設立するとは、即ち、奈良の旧仏教から完全に独立して、比叡山の寺院において、独自に僧を養成することができるようにしよう、ということである。最澄の説く天台の思想は、奈良の旧仏教の思想とは相容れず、非常に激しい反発を受ける。大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可され、このことが重要なきっかけとなって、後に、延暦寺(開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の823年のことであった)は、日本仏教の中心的地位に就くこととなり、延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして、北嶺と呼ばれることとなっている。最澄は866年、第56代天皇、清和天皇より伝教大師の諡号(死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名)を贈られる。日本で初めての大師号(高徳な僧に朝廷から勅賜[天皇から頂くもの]の形で贈られる尊称)で、以後、「伝教大師最澄」と称される。空海は、中国唐朝皇帝に師と仰がれた密教の高僧、恵果に師事し、その六大弟子の1人と称されるまでになる。恵果が入寂(僧侶が死ぬこと)した際、空海は全弟子を代表して、恵果を顕彰する碑文を起草している。806年、土木技術や薬学を始め、多分野を学び、経典等を収集し、中国唐朝に渡っていた遣唐使判官(大使、副使に次ぐ役職)高階遠成の帰国に便乗する形で、日本へ無事帰国する。空海は、20年の留学期間を2年で切上げて帰国したため、入京の許しを待って数年間、九州の筑前国(現在の福岡県西部)に設置された地方行政機関、大宰府(想定範囲は、現在の福岡県太宰府市、及び福岡県筑紫野市に当たる)に滞在している。809年に第52代天皇、嵯峨天皇が即位した後、帰京を果たすが、この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、と言われている。その後、2人は10年程交流関係を持ち、密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っている。しかし、最澄と空海とは徐々に対立するようになり、816年初頭頃には訣別するに至る。817年、修禅の道場として、高野山(現在の和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する)の開創に着手する。高野山は、日本仏教における聖地の1つとなり、現在は、「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。835年、空海は入寂するが、921年には、第60代天皇、醍醐天皇から弘法大師の諡号を贈られている。
1534年 - フランス人探検家、ジャック・カルティエが、カナダ東海岸のニューファンドランド島に到着する。カナダ東部にある湾、セントローレンス湾と、カナダ東部を東北に流れるセントローレンス川岸に、ヨーロッパ出身者として初めて到達し、北アメリカの原住民族、イロコイ族の言葉から、その周辺の土地を「カナダ」と名付け記述したことで知られるジャック・カルティエは、現在カナダ東部、ケベック州(カナダ国内では唯一、フランス語のみを公用語に定めている)に上陸し、後のフランスによるカナダ領有の基礎を築いている。 
1575年 - 石山合戦: 浄土真宗本願寺派第11世宗主の顕如が、織田信長に反抗して再挙兵する。
1611年 - 二条城会見。豊臣秀吉の三男で、朝廷では誕生以来、摂家豊臣家の後継者として見做していた豊臣秀頼が、徳川家康の招きで上洛。現在の京都市中京区二条通堀川に所在する、徳川家康が京都の守護、及び上洛時の宿所として造営した城、二条城で徳川家康と会見する。
1768年 - イギリス王ジョージ3世を批判する記事を書いた廉で、イギリスの急進的なジャーナリストのジョン・ウィルクスが監獄に収監される。軍は、ジョン・ウィルクスの収監に抗議する群衆に発砲し、7名の死者を出す。
1773年 - ボストン茶会事件: イギリスで茶法(イギリスがアメリカ植民地への茶の直送と独占専売権を、東インド会社に与えた法令)が成立。これに反対する運動が展開され、同年の12月16日に、マサチューセッツ植民地(現在のアメリカ合衆国北東部、マサチューセッツ州)のボストンで、イギリス本国議会の植民地政策に憤慨した植民地人の急進派が、港に停泊中の貨物輸送船に侵入し、イギリス東インド会社の船荷である紅茶箱を海に投棄した事件、ボストン茶会事件が発生することとなる。
1774年 - ルイ16世がフランス王に即位する。ルイ16世は、在位中の1789年にフランス革命が起こり、1792年に王権が停止され、翌年処刑されている。
1796年 - フランス政府転覆を計画した革命家・思想家のフランソワ・ノエル・バブーフらが逮捕される(バブーフの陰謀)。
1796年 - イタリア戦役: ロディの戦いが行なわれる。
1804年 - ウィリアム・ピット(小ピット)がイギリスの18代首相に就任。
1824年 - ナショナル・ギャラリー(イギリスの首都ロンドンのトラファルガー広場にある美術館)が初公開される。
1857年 - インド大反乱(セポイの乱、イギリスの植民地支配に対する民族的反抗運動で、独立したインド側からは「第一次インド独立戦争」と呼ばれる)が発生。インド北部の都市メーラトで、イギリス東インド会社(アジア各地の植民地経営や交易に従事した)が編成したインド人傭兵のことで、セポイとも言われるシパーヒーが蜂起する。
1869年 - 東西から建設されたアメリカ大陸横断鉄道(アメリカ合衆国の中西部と西海岸とを結ぶ鉄道)が接続される。アメリカ合衆国中西部、ネブラスカ州の東端にあるオマハと、アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州の北部に位置するサクラメントの間、約2,826kmを結んだアメリカ合衆国の大陸横断鉄道は、ユニオン・パシフィック鉄道(アメリカ合衆国最大規模の鉄道会社)と、セントラル・パシフィック鉄道(現在は、ユニオン・パシフィック鉄道に買収されている)による路線で、アメリカ合衆国の西部開拓の促進に大きく貢献する。ユニオン・パシフィック鉄道は、オマハから西向きへ、セントラル・パシフィック鉄道は、サクラメントから東向きへ、大平原と大山脈と幾多の峡谷を乗越えて、鉄道建設を進め、ユタ準州(当時、現在のアメリカ合衆国西部にあるユタ州)のプロモントリーサミットで開通記念式典が開催され、ゴールデン・スパイク(黄金の犬釘)が初めて行なわれる。なお、ゴールデン・スパイク(黄金の犬釘)とは、鉄道路線が完成する時、最後に記念のために打込まれる犬釘(鉄道のレールを枕木に固定する締結装置の一種で、鉄道の黎明期から長きに亘って使われている専用の「釘」)のことである。