5月9日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1450年 - 中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラーム王朝、ティムール朝の第5代君主アブドゥッラティーフが暗殺される。父であるウルグ・ベクに不満を抱いたアブドゥッラティーフは、反乱を起こして父を殺害し、即位する。父とは異なり、イスラームの指導者層から支持を受けたが、将校の多くはアブドゥッラティーフに服しておらず、ウルグ・ベクの忠僕によって暗殺されている。
1742年 - 江戸幕府の成文法「公事方御定書」が完成。「公事方御定書」は、享保改革(江戸時代中期に行なわれた、先例格式に捉われない諸改革)を推進した江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の下で作成された、江戸幕府の基本法典(特に、犯罪と裁判についてのもの)である。上巻・下巻の2巻からなり、上巻は基本法令を、下巻は旧来の判例に基づいた刑事法令を収録している。特に、下巻は「御定書百箇条」と呼ばれている。
1846年 - 米墨戦争: レサカ・デ・ラ・パルマの戦い。
1876年 - 上野恩賜公園(現在の東京都台東区に所在する公園で、通称は上野公園)の開園式が挙行される。1873年に「社寺其ノ他ノ名区勝跡ヲ公園ト定ムル件(明治6年1月15日太政官布告第16号)」が出され、旧社寺地等を接収し公園としたのが、用地を確保し、施設整備を行なう営造物公園の始まりである。この太政官布告により、1887年頃までに約80ヶ所の公園が全国で設置され、上野恩賜公園も、日本初の公園に指定されている。上野恩賜公園は「上野の森」とも呼ばれ、関東平野西部の、荒川と多摩川に挟まれた台地、武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから、「上野の山」とも呼ばれる。総面積は約53万平方mで、東京都建設局の管轄であり、公園内には博物館、動物園等、多くの文化施設が存在する。高台となっている忍ヶ岡は、近世からソメイヨシノ(現代の観賞用のサクラの代表種となっている)の名所としても有名であり、日本さくら名所100選に選定されている。桜の開花時期になると、大勢の花見客が押寄せることで有名である。また、忍ヶ岡の南に位置する不忍池(しのばずのいけ)は、夏には池の一部を覆い尽くす程の蓮に覆われ、一面の緑の葉と桃色の蓮の花が美しい。冬には、鴨を始めとした数多くの種類の水鳥が飛来し、非常に賑やかとなる。江戸時代初期、江戸幕府第3代将軍徳川家光が江戸城の丑寅(北東)の方角、即ち、鬼門を封じるために、この地に天台宗関東総本山の寺院、東叡山寛永寺を建立する。以来、寛永寺は、浄土宗の寺院、三縁山広度院増上寺(現在の東京都港区芝公園に所在)と並ぶ将軍家の墓所として権勢を誇ったが、戊辰戦争(新政府軍と旧幕府軍による内戦)では、寛永寺に立篭った旧幕府軍の彰義隊(江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜の警護等を目的として結成された部隊)を新政府軍が包囲殲滅したため(上野戦争)、伽藍は焼失し、一帯は焼け野原と化している。1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察したオランダ出身の軍医、アントニウス・ボードウィン(「ボードワン」とも呼ばれ、上野公園には、業績を顕彰する銅像「ボードワン博士像」がある)が、公園として残すよう日本政府に働き掛け、その結果、日本初の公園に指定されている。このことをもって、アントニウス・ボードウィンは、上野公園生みの親と称されている。上野公園は、日本国内でも有数の都市公園で、公園の内外に歴史建築物や文教施設が多数存在しており、一帯が文化・芸術の集合地域を形成している。東京都立恩賜上野動物園を始め、動物園の付近に、旧東京音楽学校奏楽堂(日本で最初に建てられた本格的な西洋式音楽ホールとされる)等の芸術博物館、東京芸術大学、東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校、東京都立上野高等学校等の教育施設が広がっている。東日本旅客鉄道(JR東日本)鶯谷駅方面には、徳川家霊廟の歴史的建築等が存在する寛永寺や東京国立博物館、国際子ども図書館があり、噴水池周辺には、東京都美術館、国立科学博物館があり、東日本旅客鉄道(JR東日本)上野駅公園口近くには、国立西洋美術館、東京文化会館がある。さらに、京成上野駅そばには、上野の森美術館や西郷隆盛像があり、その西側に桜並木が続く。桜並木沿いに清水観音堂(寛永寺)、五条天神社、花園稲荷神社がある。脇道に逸れると、上野東照宮、寛永寺五重塔(東京都所有)があり、伊豆栄梅川亭、上野精養軒等、老舗料理屋がある。江戸時代は寛永寺地であり、町名はなかったが、1872年、不忍池弁天島に不忍天竜町が設定され、1873年には、それ以外が上野公園地となる。1875年、不忍天竜町は上野公園地に編入され、1924年になって、上野恩賜公園に改称している。
1877年 - 東ヨーロッパに位置するルーマニアが、オスマン帝国(現在のトルコ共和国の前身)からの独立を宣言。
1883年 - 富山県、佐賀県、宮崎県が再置される。「富山佐賀宮崎三縣設置(明治16年5月9日太政官布告第15号)」により、長崎県からの佐賀県の分県(肥前国東部10郡)、鹿児島県からの宮崎県の分県(日向国の内、志布志郷・松山郷・大崎郷を除いた地域)と共に、石川県から、旧越中国一円(越中国4郡)を富山県として再び設置する。
1901年 - オーストラリア南東部にあるメルボルンで、初のオーストラリアの国会(オーストラリア連邦議会)が開かれる。
1911年 - 中国清朝が、幹線鉄道国有化令を発布する。
1915年 - 中華民国の袁世凱政権が、日本の対華21ヶ条要求(第一次世界大戦中に、日本の在華権益の拡大を図った要求)を受諾する。軍事力を背景に、地方に割拠する集団である軍閥の1つ、北洋軍閥の総帥で、中華民国の実権を掌握していた袁世凱は、1914年7月、第一次世界大戦の勃発に際し、中立を逸早く宣言する。しかし、隣国の日本は、日本とイギリスとの間の軍事同盟(攻守同盟条約)、日英同盟を理由に、山東半島(中国東北部[旧満洲地域]に位置する中国最大の大きさの半島)にある膠州湾岸のドイツ領に出兵し、占拠する。この間、袁世凱は、日本に領土の返還を求めるが、受入れられず、さらに、日本から対華21ヶ条要求を突付けられる。袁世凱は、この情報を諸外国にリークする等して抵抗するが、1915年5月9日、ついにこれを認めることになる。その後、皇帝に即位して国号を「中華帝国」に改めたが、袁世凱の専制を批判する動きが高まる等して、1916年3月には退位に追込まれ、同年6月、失意の内に病死している。
1926年 - アメリカ海軍軍人のリチャード・バードが、航空機により初めて、北極点上空に到達。北極圏にあるノルウェー領の群島、スヴァールバル諸島にあるスピッツベルゲン島から北極点までを、約15時間で往復する。
1926年 - 東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区)銀座の松屋デパートで、日本初の飛降り自殺事件が発生する。
1932年 - 坂田山心中事件が発覚。神奈川県中郡大磯町にある山、坂田山(標高111m)で、若い男女の心中死体が発見される。翌日5月10日朝、女性の死体が消えていることが判明。さらにその翌日、5月11日朝には発見される。単なる心中事件から一転して、「女性の死体が持去られる」猟奇事件へと発展し、警察は変質者による犯行と断定。後に、町の火葬場職員が犯人として逮捕されている。新聞各紙は「天国に結ぶ恋」等と報道し、事件から間もなく、ロマンチックに美化された同名の映画や歌が製作、公開されて人気を博している。以後、坂田山で心中する男女が後を絶たず、同じ年だけで20組が心中、1935年までの自殺者(未遂も含む)は約200名にも達している。
1936年 - 第二次エチオピア戦争: イタリアが東アフリカの3つの植民地を合わせて東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を樹立し、その皇帝にイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が就任する。
1938年 - 福島県中北部に所在する磐梯山で山崩れが発生。磐梯山では、1888年7月15日の大噴火で山の北側が大崩壊したが、この山崩れでは、この際に形成された火口壁が融雪に伴ない、再び崩壊する。崩壊した土砂は、土石流(土砂が水[雨水や地下水]と混合して、河川・渓流等を流下する現象)となって約3kmに亘って流下し、山麓の川上温泉に到達する。山崩れは5月15日にも発生し、この2回の崩壊で、2名が死亡、5名が負傷し、家屋4棟が損壊している。
1939年 - 東京府東京市(現在の東京都)板橋区志村に所在した大日本セルロイド(現在の大手化学品メーカー、ダイセル)東京工場で火災が発生。さらに、隣接する日本火工(現在の大手ステンレスメーカー[鉄鋼メーカー]、日本冶金工業)の工場に延焼して爆発事故も誘発され、死者32名、負傷者245名等が出る惨事となる。