5月8日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

スートブロワ記念日。 
ボイラー等の内部で、ゴミが固まり熱効率が落ちるのを防ぐために使われるスートブロワ(煤吹装置)。その普及と知名度を高めるために、兵庫県尼崎市東初島町に本社を置く、機械メーカーのフコク機械工業株式会社が制定した日。日付は、スートブロワ(煤吹装置)の英文「Soot Blower」の頭文字「S」と「B」を、5月8日の「5」と「8」に見立てたところから。スートブロワ(煤吹装置)は、ボイラー等の熱で発生させた蒸気を吹付けて、伝熱面に付着する煤やダスト(塵)を除去する。噴射媒体としては、蒸気以外にも圧縮空気等を使用する場合もある。また、ゴミ処理場等で使用されると高温を保てるため、環境を守る一助にもなる。
紙飛行機の日。
広島県福山市御幸町大字中津原に本拠を置き、紙飛行機を通じて世界との交流と図り、子ども達のものづくり、工夫する楽しさ、挑戦する気持ちを応援する任意団体、折り紙ヒコーキ協会が制定。一枚の紙を折るだけで作る「おりがみ」紙飛行機の楽しさ、魅力を、より多くの人に伝えることが目的。日付は、5月8日の「5」と「8」を「GO(5)HIGH(8)」と読んで、「行け、空高く」と、5月の青空に高く飛んで行く、紙飛行機の飛ぶ姿を表わしている。また、知的障害と白血病というハンデを背負いながら、多くの人に愛と勇気を教えてくれた紙飛行機が大好きな少年、井上健史の命日(2002[平成14]年5月8日、享年満9歳)にも因んでいる。「おりがみ」紙飛行機は、正方形か長方形(矩形とも呼ばれる、4つの角が全て等しい四角形)の紙を使うことが多い。それ以外の形を使ったり、補助的に切ったり切取るものもある。これらの紙を折って作るもので、折り紙の一種でもある。普通は手で投げて飛ばす。正確で強い中心線が、左右のバランスを取り、直進性を高めることに繋がる(以降の折り方は、左右対称で行なわれる)。多くの飛行機では、次に機首側を三角形にして折込んでいく。これは、重心を前寄りにするためである。一般に、機首が上がれば揚力が大きく、下がれば小さくなるため、重心を空力中心のやや前方にすれば、迎え角を自動的に調整する効果(風見安定)が期待できる。 
こはくの日。
岩手県久慈市小久慈町第19地割で、琥珀の原石の採掘、及び琥珀装飾品の製造・加工・販売、琥珀博物館の運営を手掛ける企業、久慈琥珀株式会社と、岩手県久慈市長内町第17地割で、琥珀の原石の採掘から工芸品への加工・販売を行なう企業、有限会社上山琥珀工芸、岩手県久慈市門前第37地割で、琥珀商品の企画や琥珀に関するコンサルティング等を行なう企業、株式会社ten-senの3社が制定。日付は、「琥珀(こ[5]は[8]く[9])」と読む語呂合わせから、5月8日と5月9日の2日間としたもの。琥珀は、古くから人々に愛され続けてきた植物由来の宝石で、岩手県久慈市は国内最大の産出地。商業的に琥珀の採掘を行なっている唯一の場所、久慈市から琥珀の魅力を伝え、その価値を高めることが目的。また、結婚10年目を積年の愛の花が開く「アンバーウェディング」(琥珀婚)として、琥珀を贈る文化を広めたい、との願いも込められている。琥珀は、英語ではアンバー(amber)と呼ばれ、半化石の琥珀はコーパル(copal)、加熱圧縮成形した再生琥珀はアンブロイド(ambroid)という。西洋でも東洋でも、宝飾品として珍重されてきた。鉱物に匹敵する硬度を持ち、色は飴色、黄色を帯びた茶色、ないし黄金色に近い。
八田與一の慰霊祭。
八田與一(現在の字体では八田与一)は、日本の水利技術者である。日本統治時代の台湾で、農業水利事業に大きな貢献をした人物として知られる。石川県河北郡花園村(現在は石川県金沢市今町)に生まれた八田與一は、1910(明治43)年に東京帝国大学(現在の東京大学の前身)工学部土木科を卒業後、台湾総督府(台湾を統治するために設置された日本の出先官庁)内務局土木課の技手として就職した。台湾では、初代台湾総督府民政長官であった後藤新平(官僚・政治家で、植民地経営者であり、都市計画家でもある)以来、熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫(寄生性で、特に病原性のある原生動物)感染症、マラリア等の伝染病予防対策が重点的に採られ、八田與一も当初は衛生事業に従事し、台湾各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。八田與一は28歳で、当時着工中であった桃園大圳(台湾北部にある桃園台地に設けられた水路)の水利工事を一任されたが、これを成功させ、高い評価を受けた。当時の台湾は、まさにインフラストラクチャー(国民福祉の向上と、国民経済の発展に必要な公共施設)建設の真っ只中で、水利技術者には、大いに腕の振るい甲斐のある舞台であった。1918(大正7)年、八田與一は台湾南部の嘉南平野の調査を行なった。嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるために、この地域にある広大な田畑は、常に旱魃の危険にさらされていた。そこで八田與一は、台湾総督府民政長官下村海南の一任の下、ダムを建設する計画を上司に提出し、さらに、精査した上で国会に提出され、認められた。事業は。受益者が「官田渓埤圳組合(後に嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため、八田與一は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920(大正9)年から1930(昭和5)年まで、完成に至るまで工事を指揮した。そして、総工費5,400万円を要した工事は、満水面積約1,000ha、有効貯水量約1億5,000万平方mの大貯水池、烏山頭ダムとして完成し、また水路も、嘉南平野一帯に約16,000kmに亘って、細かく張巡らされた。この水利設備全体が、「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼ばれている。2000年代以降も、烏山頭ダムは嘉南平野を潤しているが、その大きな役割を、今は曽文渓ダムに譲っている。この曽文渓ダムは1973(昭和48)年に完成したダムで、建設の計画自体も八田與一によるものであった。また、八田與一の採った粘土・砂・礫を使用したセミ・ハイドロリックフィル工法(コンクリートを殆ど使用しない)という手法により、ダム内に土砂が溜まりにくくなっており、近年、これと同時期に作られたダムが機能不全に陥っていく中で、しっかりと稼動している。烏山頭ダムは公園として整備され、八田與一の銅像と墓が中にある。また、八田與一を顕彰する記念館も併設されている。1939(昭和14)年、八田與一は台湾総督府に復帰し、勅任技師として台湾の産業計画の策定等に従事した。第二次世界大戦対米英戦中の1942(昭和17)年5月、陸軍の命令によって、フィリピンの綿作灌漑調査のため、3名の部下と共に、広島市にある宇品港で客船『大洋丸』に乗船した八田與一であったが、『大洋丸』が長崎の西方に位置する五島列島付近で、アメリカ海軍の潜水艦『グレナディアー』の雷撃により撃沈され、八田與一も巻込まれて死亡した。日本よりも、八田與一が実際に業績を挙げた台湾での知名度の方が高い。特に、高齢者を中心に八田與一の業績を評価する人物が多く、烏山頭ダムでは、八田與一の命日である5月8日に、慰霊祭が行なわれている。また、現在烏山頭ダム傍にある八田與一の銅像は、ダム完成後の1931(昭和6)年に作られたものである。住民の民意と周囲の意見からでき上がったユニークな銅像は、像設置を固辞していた八田與一本人の意向を汲み、一般的な威圧姿勢の立像を諦め、工事中に見掛けられた八田與一が、困難に一人熟考し苦悩する様子を模し、郷里加賀(石川県)出身の彫刻家、都賀田勇馬に制作を依頼し、碑文や台座は無く、地面に直接設置されて、同年7月8日に、八田與一立会いの下で除幕式が行なわれている。その後、姿を消したこともあったが、水利組合と地元の有志によって守られた銅像は隠され続け、1981(昭和56)年1月1日に、再びダムを見下ろす元の場所に設置された。今では、台座上に修まる銅像の経過や、八田與一が顕彰される背景、業績もさることながら、土木作業員の労働環境を適切なものにするため尽力したこと、危険な現場にも進んで足を踏入れたこと、事故の慰霊事業では、日本人も台湾人も分け隔てなく行なったこと等、八田與一の人柄によるところも大きく、エピソードも多く残されている。八田與一の業績と、嘉南の人達との触れ合いを取材した、テレビドキュメンタリー番組「テレメンタリー96 たった一つの銅像 ~衷心感謝八田與一先生~」が 1996(平成8)年6月30日に、テレビ朝日系列で放送された。さらに、2008(平成20)年には、八田與一を描いた長編アニメ映画「パッテンライ!! ~南の島の水ものがたり~」が制作されている。