5月7日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0558年 - 東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコ(アジアとヨーロッパの2つの大州に跨る国)の都市イスタンブルの前身、コンスタンティノープルのアヤソフィアが地震により崩壊する。再建工事は直ちに着手され、562年12月24日には、新たに献堂式が行なわれている。アヤソフィアは、東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築(ローマ建築円熟期の優れた工学・技術を継承した建築様式)の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国(現在のトルコ共和国の前身)の時代においても、第一級の格式を誇るモスク(イスラム教の礼拝堂)として利用されている。巨大なことで知られる特徴的なドームを持ち、1985年には「イスタンブルの歴史地区」の一部として、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されている。 
1274年 - 第2リヨン公会議が開会。第2リヨン公会議は、リヨン(現在のフランス南東部にある都市)で行なわれたキリスト教の公会議(キリスト教において、全世界の教会から司教[主教]等の正規代表者が集まり、教義・典礼・教会法等について審議決定する最高会議)である。十字軍の派遣、正教会との和解、教皇選挙(コンクラーヴェ)制度の見直しが話合われる。 
1348年 - ヨーロッパ中部最古の大学であるプラハ・カレル大学が創立される。プラハ・カレル大学(現在のカレル大学)は、神聖ローマ皇帝カール4世によって創立された、中央ヨーロッパに位置するチェコの首都プラハに所在する同国屈指の最高学府で、設立者が神聖ローマ皇帝(神聖ローマ帝国の君主たる皇帝で、特に神聖ローマ帝国の後半期、国号に「ドイツ国民の」が加わったこともあり、ドイツ皇帝と呼ぶ場合もある)であるため、「ドイツ語圏最古の大学」とも言われる。 
1592年 - 文禄の役: 豊臣秀吉が朝鮮出兵の指揮を執るため、京都から肥前国松浦郡名護屋の名護屋城(現在の佐賀県唐津市鎮西町、佐賀県唐津市呼子町に所在)へ出発する。 
1763年 - インディアン戦争: ポンティアック戦争が始まる。 
1824年 - ドイツの作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番『合唱付き』が初演。交響曲第9番『合唱付き』は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲である(第10番は、断片的なスケッチが残されたのみで完成されていない)。古典派以前のあらゆる音楽の集大成とも言えるような総合性を備えると同時に、来るべきロマン派音楽(クラシック音楽の歴史において、1730年代から1810年代まで続いた時期の芸術音楽の総称である古典派音楽を、それまでの理性偏重、合理主義等に対し、感受性や主観に重きをおいた一連の運動である、ロマン主義の精神によって発展させていった、ほぼ19世紀のヨーロッパを中心とする音楽)の時代の道標となった、記念碑的な大作である。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン自身は表題を付けなかったが、副題として『合唱』や『合唱付き』が付されることも多い。また、日本では、親しみを込めて『第九(だいく)』とも呼ばれる。第4楽章は独唱、及び合唱を伴なって演奏され、歌詞にはドイツの詩人、フリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄す』が用いられる。第4楽章の主題は『歓喜の歌』としても親しまれている。原曲の歌詞はドイツ語であるが、世界中のあらゆる言語に翻訳されており、その歌詞で歌われることもある。1940年12月31日午後10時30分、紀元二千六百年記念行事の一環として、ポーランドに生まれ、ドイツとアメリカ、日本で活動した指揮者、ヨーゼフ・ローゼンシュトックが、日本最初のプロ・オーケストラである新交響楽団を指揮して、『第九』のラジオ生放送を行なう。日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、第二次世界大戦後間もない1940年代後半、オーケストラの収入が少なく、楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため、合唱団も含めて演奏に参加するメンバーが多く、しかも、当時(クラシックの演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった『第九』を、日本交響楽団(新交響楽団が1942年にと改称されたもので、現在のNHK交響楽団の源流となっている)が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端、とされる。1956年に群馬交響楽団(群馬県にある常設のオーケストラで、日本の地方管弦楽団の草分け的存在でもある)が行なった群馬での『第九』演奏会の成功が、全国に広まったことをきっかけに、国内の年末の『第九』の演奏は急激に増え、現在に至っている。 
1847年 - アメリカ医師会が発足。 
1875年 - 樺太・千島交換条約が締結される。樺太・千島交換条約は、日本とロシア帝国との間で、国境を確定するために結ばれた条約である。千島・樺太交換条約や、署名した場所から採って、サンクトペテルブルク条約と呼ぶ場合もある。樺太(オホーツク海の南西部にある、現在のロシア連邦サハリン州の島)での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島列島(太平洋の北東にある列島)18島をロシア帝国が日本に譲渡すること、及び、両国資産の買取、漁業権承認等が取決められる。 
1875年 - 新治県を茨城県と千葉県に併合し、茨城県と千葉県が現在の形になる。 
1888年 - 数学者の菊池大麓、物理学者の山川健次郎ら25名に、日本初の博士号を授与。 
1915年 - 第一次世界大戦: ルシタニア号事件。イギリス船籍の客船『ルシタニア』が、北東大西洋上にあるアイルランド島南部沖約15kmの地点で、ドイツ海軍の潜水艦『U-20』から雷撃を受け、僅か約18分で沈没。短時間での沈没のため、船内から脱出できなかった乗客1,198名が死亡する。進水当時、最大の旅客船であった『ルシタニア』は第一次世界大戦の期間中も、アメリカ合衆国とイギリスを結ぶ豪華客船として運航され続けたが、ドイツ帝国は、イギリスの周辺海域に封鎖海域を設定しており、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州のニューヨーク港を出港し、イギリス中西部にあるリヴァプール港に向かう途中、ドイツ海軍の潜水艦が発射した魚雷を受けて操船不能となり、沈没する。『ルシタニア』に乗船していた139名のアメリカ人の内、128名が死亡し、これに対してアメリカ合衆国側は激怒する。反ドイツの気運がアメリカ合衆国国内で高まったこと等から、アメリカ合衆国がヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱した、モンロー主義に代表される孤立主義政策を一転し、アメリカ合衆国が第一次世界大戦へ参戦するきっかけの1つとなる。
1919年 - パリ講和会議(第一次世界大戦における連合国が、中央同盟国[連合国と戦った諸国]の講和条件等について討議した会議)で、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島(西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々)を、日本が委任統治(国際連盟によって委任された国が、国際連盟理事会の監督下において一定の非独立地域を統治する制度)することに決定。 
1922年 - 日本初のプロボクシング興行「日米拳闘大試合」が、日本における「ボクシングの父」と呼ばれるプロボクサー、渡辺勇次郎のプロモートにより、靖国神社(現在の東京都千代田区九段北に所在)相撲場で開催される。 
1932年 - フランス共和国第14代大統領ポール・ドゥメールが、ロシア移民の男に銃撃され、暗殺される。就任時には高齢である上、国家財政を厳しく管理する技術官僚という印象が強かったため、本来大衆的な人気は高くなかったが、勤勉な業務姿勢と愛国心が知られ、次第に世論の好意を得ていたポール・ドゥメールは、銃創が原因で死去した唯一の共和国大統領となる。 
1936年 - 衆議院議員で、立憲主義・議会政治・自由主義を擁護し、弁舌により、軍部の政治介入やファシズム(全体主義的・排外的政治理念)に抵抗した斎藤隆夫が、帝国議会(公選の衆議院と非公選の貴族院から成る、1889年の大日本帝国憲法発布から、1947年の日本国憲法への改正まで設置されていた日本の議会)で粛軍演説を行なう。粛軍演説とは、寺内寿一陸軍大臣に対する質問演説である。「革新」の実体の曖昧さを突き、広田内閣の国政改革の大要の質問を行なった後、軍部革正(粛軍)を軍部に強く要請すると同時に、議会軽視の傾きのあった軍部への批判演説となっている。