4月30日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0313年 - ツィラルムの戦い。ローマ皇帝リキニウス(フラウィウス・ガレリウス・ウァレリウス・リキニアヌス・リキニウス)が、ローマ帝国の東側を分割統治していたマクシミヌス・ダイア(ガイウス・ウァレリウス・ガレリウス・マクシミヌス)を破る。 
0572年 - 第30代天皇、敏逹天皇が即位。 
0781年 - 第50代天皇、桓武天皇が即位。 
1006年 - 太陽と月以外で、史上最も視等級(天体の見掛けの明るさ)が明るい天体である超新星(大質量の恒星が、その一生を終える時に起こす大規模な爆発現象)『SN 1006』が観測される。『SN 1006』の地球からの距離は約7,200光年。スイス、エジプト、イラク、中国、日本等の観察者達により記録されている。当時の殆どの占星術師は、この現象を戦争や飢饉の前触れと解釈する。幾つかの資料では、この星は影が落ちる程明るく、時には昼間でも確かに見ることができたと述べられており、現代のドイツの天文学者フランク・ウィンクラーは、「1006年の春には、人々は恐らくこの星の光で深夜でも、ものを読むことができたであろう」と述べている。 
1483年 - この日から1503年7月23日まで、太陽系外縁天体内のサブグループ(冥王星型天体)の代表例とされる、準惑星に区分される天体で、2006年までは太陽系第九惑星とされていた冥王星が、太陽系第八惑星、海王星の軌道の内側へ入り込む。1503年7月23日まで。冥王星は、離心率が大きな楕円形の(歪んでいて真円から遠い)軌道を持ち、黄道面から大きく傾いており(太陽系の惑星は、黄道面と呼ばれる仮想の平面にかなり近い面を公転している)、離心率が大きいことから、冥王星の軌道の一部は、海王星よりも太陽の近くに入り込んでいる。冥王星が海王星の内側に入り込む期間は、微妙な変化はあるものの、約13年間と約20年間のものが、交互に訪れると考えられている。
1789年 - ジョージ・ワシントンが、初代アメリカ合衆国大統領に就任する。現在のアメリカ合衆国東部、バージニア州の前身となる、北アメリカ大陸に設立されたイギリス領植民地、バージニア植民地で生まれたジョージ・ワシントンは、中流の農園主であったが、青年期には測量を学び、生まれ育ったバージニアの地形について知悉するようになる。その後、バージニア市民軍の軍人となり、イギリス領アメリカ植民地とヌーベルフランス(フランスが北アメリカに植民を行なった地域)を主な戦場としたフレンチ・インディアン戦争にも、イギリス側で参戦する。フランス軍との戦闘に勝利した後にな、軍隊の現役から退き、バージニアの農園主、及び政治家として過ごす。ジョージ・ワシントンは、1769年に高まった植民地の反抗で、指導的な役割を担うようになる。イギリス本国の高圧的な植民地経営に対して、北アメリカ13州の自治意識が高まり、1774年から開催された各植民地代表による会議、大陸会議により、イギリスの支配に対して反乱を起こした13植民地の軍事行動について、連携を図ることを目的とした大陸軍が編成され、ジョージ・ワシントンは、植民地軍総司令官に任命される。イギリスの新聞は、大陸会議の愛国者に対しては否定的であったが、イギリス本国とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争、アメリカ独立戦争を司令官として戦ったジョージ・ワシントンの個性と、軍隊指揮官としての質については何度も褒め上げる。さらに、イギリス議会の両陣営共に、アメリカ将軍の勇気、忍耐強さ、及び、その軍隊の繁栄に対する気配りが賞賛に値し、自国の指揮官に求められる美徳の例と考える。ジョージ・ワシントンが、政治に関与することを拒んだことで、全て軍事的任務に身を挺し、党派的抗争を超越している人としての評判を強化する。現在のアメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリンを主戦場にして戦われた、アメリカ独立戦争の主要な戦闘の1つであり、この戦争の中では最大の会戦であるロングアイランドの戦い(アメリカ独立宣言から約1ヶ月余り後のことであり、独立国アメリカ合衆国の軍隊が戦った初めての戦闘となった)では、ジョージ・ワシントン率いる大陸軍は幾度か敗北して、ニューヨーク市から完全に追出され、ニュージャージー(現在のアメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州に隣接するニュージャージー州)を越えて、ペンシルベニア(現在のアメリカ合衆国北東部、ニュージャージー州に隣接するペンシルベニア州)までの退却を余儀なくされる。しかし、その後、大陸軍はニュージャージーを奪還し、攻撃の成功は、独立を支持する入植者達の士気を鼓舞する。1783年、アメリカ合衆国とイギリスとの間でパリ条約が締結され、イギリスがアメリカ合衆国の独立を承認し、ミシシッピ川より東をアメリカ合衆国領とする。ジョージ・ワシントンは、大陸軍を解体し、陸軍最高司令官も辞任する。この辞任は、成立間もない国家にとっては極めて重要で、軍人ではなく、文民から公式に選ばれた大統領が、最終的な権威を保持することとなる。1789年2月4日、アメリカ合衆国において、最初の大統領選挙が行なわれる。選挙人を選出する方法の決定は、各州に任され、全13州の内、10州のみが、選挙人団の投票を行なう。また、それらの10州の内、5州のみが、大統領選出の為、一般投票を行なっている。選挙人投票率100%の票を得たアメリカ合衆国大統領は、現在までジョージ・ワシントンだけである。1789年4月30日、ニューヨーク市にあるフェデラル・ホールにおいて、アメリカ合衆国憲法に基づく、大統領の就任宣誓式が開催される。アメリカ合衆国成立期の非常に重要な歴史と関わる場所であり、現在は国定記念館として、有名な観光名所となっているフェデラル・ホールは、元は1700年に、二代目のニューヨーク市庁舎として建設されている。アメリカ独立戦争の後、1785年から1789年まで、このニューヨーク市庁舎は連合規約の下、合衆国連合会議の議事堂として使用される。1789年、アメリカ合衆国憲法の下にニューヨーク市が最初のアメリカ合衆国の首都となり、この建物は、アメリカ合衆国議会最初の議事堂となっている。初代のアメリカ合衆国大統領に選出されたジョージ・ワシントンは、1789年4月30日、この建物のバルコニーで就任演説を行なう。ジョージ・ワシントンは、職務の華やかさや作法には慎重に臨み、肩書きや衣装が、共和制者として適切であるように配慮し、決してヨーロッパ宮廷を真似するようなことはしなかったという。また、ジョージ・ワシントンは、才能あり、性格もよい優秀な代議士、かつ判断者として、通常の閣議では、最終結論を出す前に議論させたため、有能な管理者であることを証明している。ジョージ・ワシントンは、2期目の大統領選出馬には、気乗りがしておらず、3期目の大統領選出馬を拒否し、大統領職は2期までという慣習的政策を作る。この政策は、後にアメリカ合衆国憲法修正第22条によって法制化されている。ジョージ・ワシントンは、大統領就任後、国務長官にトマス・ジェファーソン(アメリカ独立宣言の主要な作者であり、アメリカ合衆国の共和制の理想を追求したことで、最も影響力のあったアメリカ合衆国建国の父の1人とされ、アメリカ合衆国第3代大統領となっている)、財務長官にアレクサンダー・ハミルトン(政治家、憲法思想家、哲学者であり、アメリカ合衆国初期外交のリーダーとして、アメリカ合衆国建国の父の1人とされる)等を要職に任命する。ジョージ・ワシントンは、政党は党派的対立を生んで国家を分裂させる元であると考え、共和主義者を中心としつつも、均衡を重視した人事を行なったとされている。しかし、親密なアドバイザーであった2人が党派を形成し、後の第一政党制(大統領、連邦議会、及び、州の政治の支配を巡り、アレクサンダー・ハミルトンがその創設に大きく寄与した連邦党と、トーマス・ジェファーソンとジェームズ・マディソンが結成した共和党[民主共和党)の2つの全国的政党が競い合った)と呼ばれる時代を築くこととなる。 
1803年 - ルイジアナ買収。アメリカ合衆国が、フランスから「仏領ルイジアナ」を買収する。当時の「仏領ルイジアナ」は、主にミシシッピ川流域の広大な領地で、現在のアイオワ、アーカンソー、オクラホマ、カンザス、コロラド、サウスダコタ、テキサス、ニューメキシコ、ネブラスカ、ノースダコタ、ミズーリ、ミネソタ、モンタナ、ルイジアナ、ワイオミングの15州に跨る。 
1812年 - 「仏領ルイジアナ」買収の後、フランスから取得した領土の内、北緯33度線の南側部分を分離して起立されたオーリンズ準州が州に昇格し、アメリカ合衆国18番目の州、ルイジアナ州になる。