4月22日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0238年 - 六皇帝の年: 古代ローマの統治機関である元老院が、マクシムス(マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス)とバルビヌス(デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス)を共同皇帝として擁立する。しかし、両者の間では口論が絶えず、激しく敵対したため、その即位から約3ヶ月後には、プラエトリアニ(近衛隊、ローマ帝国において皇帝を守るために組織された直属の精鋭部隊)が両者共殺害している。 
0353年 - 中国東晋の政治家、王羲之が、名士41名を別荘に招いて曲水の宴(水の流れのある庭園等で、その流れの淵に出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事)を開き、詩集の序文として書道史上最も有名な書作品『蘭亭序』を書く。王羲之は、書いた時に酔っており、後に何度も清書しようと試みたが、草稿以上のでき栄えにならなかったと言伝えられている。 
1212年 - 歌人・随筆家の鴨長明が随筆『方丈記』を書上げる。鴨長明は晩年、京の郊外にある日野山(現在の京都市伏見区日野町)に一丈四方(方丈、一丈は約3.03m)の狭い庵を結び隠棲する。鴨長明が、庵内から当時の世間を観察し、書き記した記録であることから「方丈記」と自ら名付けたのが、随筆『方丈記』である。日本中世文学の代表的な随筆とされ、約100年後の『徒然草』(官人[官吏・役人]・遁世者・歌人・随筆家の卜部兼好[兼好法師、兼好とも、吉田兼好は江戸期の俗称]作)、約200年前に著された『枕草子』(女流作家・歌人の清少納言作)と合わせ「日本三大随筆」とも呼ばれる。 
1500年 - ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化: ポルトガルのキリスト騎士団隊長、ペドロ・アルヴァレス・カブラルの船団が、ヨーロッパ人では初めて、南アメリカに位置する現在のブラジルに到達する。 
1806年 - 文化の大火(丙寅の大火、通称は車町火事・牛町火事)。明暦の大火、明和の大火と共に、江戸三大大火の1つと言われる。焼失家屋は約126,000戸、死者は約1,200名を超えたとされる。このため町奉行所では、被災者のために江戸8ヶ所に御救小屋を建てて炊出しを始め、11万名以上の被災者に御救米銭(支援金)を与えている。 
1891年 - 江戸時代後期から幕末にかけて活躍した漢学者で、文章家としても名高い大槻磐渓の三男、大槻文彦が編纂した国語辞典『言海』全4巻が完結。『言海』は、日本初の近代的国語辞典とされる。 
1900年 - 義和団の乱:中国清朝末期の権力者、西太后の支援により、秘密結社であった義和団が、中国清朝の首都北京に入城して、列国の公使館等を焼打ちする。 
1906年 - アテネオリンピック(中間大会)が開幕。1904年のセントルイスオリンピック(第3回オリンピック競技大会)と1908年のロンドンオリンピック(第4回オリンピック競技大会)の中間に、ギリシャの首都アテネで開催されたオリンピック競技会であるが、この大会の後、4年毎に開催された大会だけをオリンピックと呼ぶことになり、現在のオリンピックの公式の歴史には登場しない。1度しか開催されなかったため、特別大会、又は中間大会とも呼ぶ。当時、フランスの教育者で近代オリンピック提唱者、ピエール・ド・クーベルタン男爵は、オリンピックは世界各地で順に開催されるべきと考えていたが、ギリシャ王のゲオルギオス1世は、オリンピックは恒久的にギリシャで開催されるべき、と考えていたため、通常のオリンピックは4年毎に世界各地で、4年毎の大会の中間の年には、ギリシャで中間大会を開催することになる。1906年の大会は、その最初の中間大会である。しかし、その後、ギリシャの政情不安と共に、提唱者のゲオルギオス1世が暗殺され、計画は立消えとなり、中間大会は二度と開催されずに終わる。
1911年 - 清華学堂(現在の清華大学)が設立される。清華大学は、現在の中華人民共和国の首都北京にある総合大学で、特に、工程技術人材を大量に養成してきたため、「エンジニアの揺籃(ゆりかご)」とも称される。  
1915年 - 第一次世界大戦: 第二次イーペルの戦い。ベルギー西部にあるイーペルで、ドイツ軍がフランス軍等の連合国軍に対し、史上初の大規模毒ガス攻撃を行なう。使用された毒ガスは塩素であり、甚大な被害を受けた連合国軍は撤退し、ドイツ軍は、一度は連合国軍に奪取されていたイーペルを再び占領する。1917年秋には、イーペル近郊でマスタードガス(塩化硫黄とエチレンから得られる無色・無臭の油状液体で、皮膚に付着すると激しい炎症を引起こし、激しい痛みと傷跡を残す)が戦闘に使用されており、この毒ガスが使用されたことも人類史上初めてで、都市の名前をとって、イペリットとも呼ばれるようになっている。
1922年 - 労働者、及び被扶養者の健康保険制度について定めた法律、「健康保険法(大正11年4月22日法律第70号)」が公布される。2002年には、健康保険法改正(「健康保険法等の一部を改正する法律[平成14年8月2日号法律第102号]」)によって、高齢者医療制度改革と医療保険制度改革が行なわれる。本人負担が2割から3割へ負担増となったのも、この「健康保険法」改正によるものである。 
1925年 - 国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取締まることを目的として制定された法律、「治安維持法(大正14年4月22日法律第46号)」が公布される。1941年に全部改正され、「治安維持法(昭和16年3月10日法律第54号)」となり、第二次世界大戦後の1945年に「「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ發スル命令ニ關スル件ニ基ク治安維持法廢止等ノ件(昭和20年10月15日勅令第575号)」が公布され、「治安維持法」は廃止となる。 
1927年 - 社会全般に生じていた金融不安が表面化したことから発生した金融恐慌、昭和金融恐慌の対策として、金銭債務の3週間の支払い猶予(モラトリアム)を緊急実施。なお、金融恐慌とは、天災・内乱、景気の悪化等で、企業を結ぶ貸借の決済が不可能となり、信用関係が急激に崩壊して、預金の取付け、銀行の支払停止、連鎖倒産等で、金融界全般に混乱が起こることである。 
1930年 - 列強海軍の補助艦(巡洋艦以下の補助艦艇)保有量の制限を主な目的とした国際会議、ロンドン海軍軍縮会議で締結された多国間協定、「海軍兵器の制限と削減のための国際条約(ロンドン海軍軍縮条約、昭和6年1月1日官報号外条約第1号)」に調印。補助艦の保有比を、英米10:日本7に制限する。条約は、10月2日に正式に批准されたが、海軍内部では条約に賛成する「条約派」と、これに反対する「艦隊派」という対立構造が生まれる。また、希望量を達成できずに条約に調印してしまったこと、フランス等のように、日本も条約を部分参加に止めなかったことに対し、一部マスコミや野党から批判が噴出する。新造艦艇を条約の制限内に納めるための無理な設計の結果、日米では重心が上がったトップヘビー構造の艦が建造され、日本国内で友鶴事件(1934年3月12日、荒天で波浪が高い状況で行なわれた水雷戦隊の演習中に、長崎県佐世保港外で日本海軍の千鳥型水雷艇3番艦『友鶴』が転覆し、乗組員総員113名中、死者・行方不明者100名を出す大惨事となった事件)や、1935年9月26日に発生した第四艦隊事件を引起こす原因となる。第四艦隊事件は、海軍演習のため臨時に編成された第四艦隊(司令長官松下元中将)の補給部隊・水雷戦隊・主力部隊・潜水戦隊が、北海道の函館港を出港して岩手県東沖合いに向かう途中、台風と遭遇し、参加艦艇(41隻)の約半数(19隻)が何らかの損傷を受け、転覆・沈没艦は無かったものの、当時最新鋭の吹雪型(特型)駆逐艦2隻では波浪により、艦橋付近から前の艦首部分が切断されるという甚大な被害となる。この大規模海難事故により、日本海軍艦艇の艦体の強度や設計に問題があることが判明し、前年3月12日に発生した友鶴事件と共に、後の海軍艦艇の設計に大きな影響を与えている。1935年12月に第2回の第二次ロンドン海軍軍縮会議が開催されたが、1934年に行なわれていた予備交渉が不調に終わった為、日本は軍縮条約からの脱退を決意。日本は、1936年1月15日に脱退し、第二次ロンドン海軍軍縮会議には参加せず、軍縮時代は終わることとなる。なお、「ロンドン海軍軍縮条約」によって定められた艦種の定義(特に、巡洋艦の軽重の区分)は、条約の失効以後も国際的な慣習として継続する。