4月21日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

-753年 - ロームルス(ロムルス)が都市国家ローマの初代王に即位(伝承された、ローマの建国神話による)。ロームルス(ロムルス)は、元老院(王の助言機関)やローマ軍団(レギオー、陸軍の基本的な編成単位)、七つの丘の城壁等、古代ローマの根幹となる概念を整備した、とされるが、多くの場合、史実というよりは、何らかの背景を持って伝承された神話と考えられている。
0878年 - 元慶の乱(朝廷の苛政に対して出羽国の夷俘[蝦夷の内、朝廷の支配に属するようになったもの]が蜂起して、出羽国秋田[現在の秋田市]に置かれた城柵、秋田城を襲った事件)が始まる。官軍は苦戦して鎮圧は難航したが、能吏で知られた公卿で地方官の藤原保則が、善政により鎮撫して終息する。 
1509年 - イングランド王ヘンリー7世が死去し、ヘンリー7世の次男、ヘンリー8世が即位する。 
1519年 - スペインのコンキスタドール(探検家・アメリカ大陸征服者)、エルナン・コルテスが、メキシコ本土(現在のメキシコ中部にあるメキシコの首都、メキシコシティのメキシコ湾側の外港、ベラクルス)に上陸する。 
1526年 -  第一次パーニーパットの戦い。ティムール朝(中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラーム王朝)の君主、バーブルの軍がローディー朝(アフガン系イスラーム王朝)の軍を破る。ローディー朝スルタン(君主)、イブラーヒーム・ローディーが戦死してローディー朝が終焉し、ムガル帝国(北インドのトルコ系イスラーム王朝)建国の契機となる。 
1591年 - 豊臣秀吉の命により、多くの大名にも影響力をもった茶人の千利休が、聚楽第(現在の京都市上京区中立売通大宮付近に所在した、豊臣秀吉が建設した政庁・邸宅・城郭)で切腹する。千利休が豊臣秀吉の怒りを買った原因を、「大徳寺(現在の京都市北区紫野大徳寺町に所在する、京都でも有数の規模を有する禅宗寺院)の三門(二層からなり、千利休が上層を完成させて「金毛閣」と名付けられた)改修に当たって増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階(上層)に設置し、その下を豊臣秀吉に通らせた」とする説が知られているが、その他にも様々な説があり、詳しくは分かっていない。千利休の自害後、聚楽第内にあった利休聚楽屋敷は、豊臣秀吉の手によって取壊される。利休七哲(千利休の高弟7名を指す呼称)の1人で、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家(肥後国熊本藩)の基礎を築いた武将・大名、細川忠興創建の大徳寺高桐院には、この利休屋敷の一部と伝えられる書院が遺る。十数年後、この屋敷跡地は、細川忠興の長男、細川忠隆(父の細川忠興から勘当された後に剃髪して、長岡休無と号している)の茶室、能舞屋敷として活用されている。茶の湯の後継者としては、千利休の先妻、宝心妙樹の子である嫡男の千道安と、後妻となった宗恩の連れ子で、娘婿でもある千少庵が有名であるが、この他に、娘婿の万代屋宗安、千紹二の名前が挙げられる。但し、千道安と千少庵は、千利休死罪と共に蟄居し、千家は一時取潰しの状態となる。豊臣家の茶頭としての後継は、織部流茶道の祖であり、安土桃山時代から江戸時代初期の大名である古田重然(古田織部)であったが、その他にも、織田長益(織田信長の弟の1人で、有楽斎如庵と号し、後世では有楽、有楽斎と称される)や細川忠興ら、多くの大名茶人がわび茶の道統を嗣いでいる。千利休の死後数年を経て、徳川家康や前田利家の執り成しにより、千道安と千少庵は赦免される。千道安が、堺の本家堺千家の家督を継いだが、早くに断絶したため、千少庵の継いだ京千家の系統(三千家と総称される、表千家・裏千家・武者小路千家)のみが現在に伝わる。また、薮内流家元の藪内家と千家にも、この時期に姻戚関係が生じる。三千家は千少庵の系譜であり、大徳寺の喝食(剃髪しない少年修行僧)であったその息子、千宗旦が還俗して、現在の表千家と裏千家の地所である本法寺(現在の京都市上京区小川通寺之内に所在)前に屋敷を構える。この時、千宗旦は、豊臣秀吉から千利休遺品の数寄道具長櫃3棹を賜ったという(指月集)。その次男の千宗守、三男の千宗左、四男の千宗室が、それぞれ独立して流派が分かれ、武者小路千家官休庵・表千家不審庵・裏千家今日庵となっている。なお、件の木像は、今日庵に現存する。 
1701年 - 播磨国赤穂藩藩主、浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下で吉良上野介義央に斬り付け、浅野内匠頭長矩は即日切腹、赤穂藩は断絶の処分が下る。 
1796年 - フランス革命戦争: モンドヴィの戦い。ナポレオン・ボナパルト(後のフランス第一帝政皇帝ナポレオン1世)率いるフランス軍が、サルデーニャ王国(近代イタリア王国の前身)に勝利。 
1798年 - フランス革命戦争: ラ・ド・サンの海戦でイギリスが勝利する。
1836年 - テキサス革命: サンジャシントの戦い。 
1872年 - 神祇の祭祀と行政を掌る機関であった神祇省を廃止し、宗教統制による国民教化の目的で設置された中央官庁組織、教部省を設置。教部省は約5年後に廃止となり、その機能は内務省(現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身)社寺局(現在の宗教法人神社本庁の源流)へ移される。 
1918年 - 第一次世界大戦: 第一次世界大戦参加各国で最高の撃墜機記録(80機撃墜、他に未公認3)を保持するエース・パイロットとして知られ、乗機を鮮紅色に塗装していたことから、「レッド・バロン」や「赤い悪魔」の異名で呼ばれた、ドイツ陸軍の航空士官マンフレート・フォン・リヒトホーフェンが撃墜され戦死する。 
1919年 - 社会主義者・思想家の堺利彦、経済学者で社会主義者の山川均らが、社会主義雑誌『社会主義研究』を創刊。 
1927年 - 昭和金融恐慌: 十五銀行が休業。経営破綻し、事実上倒産する。十五銀行は、1877年に第十五国立銀行として、当時148あった国立銀行の総資本額の47.3%に相当する規模で開業。有力華族(貴族階級)の出資により成立した銀行で、一般には「華族銀行」と呼ばれる。1897年には、国立銀行としての営業期間満了に伴なって普通銀行に転換し、十五銀行に改組される。休業後、1944年には帝国銀行(後の三井銀行、現在の三井住友銀行)に吸収合併される。
1927年 - 石川県金沢市内で火災が発生。強風に煽られ延焼し、733戸が全焼する大火となる。
1932年 - 東京府東京市(現在の東京都区部に相当)内4ヶ所に、自動式公衆電話を設置。
1932年 - 大宮町大火。静岡県富士郡大宮町(現在の静岡県富士宮市中心部に相当する)で大火があり、約1,200戸が焼失し、約7,500名が被災する。
1934年 - 東京府東京市渋谷区(現在の東京都渋谷区)にある渋谷駅前の忠犬ハチ公像が完成し、除幕式を挙行。死去した飼い主の帰りを、渋谷駅の前で約10年間待ち続けたという犬、秋田犬の「ハチ」自らも除幕式に出席する。 
1934年 - 1896年創刊のイギリスで最も古いタブロイド(新聞用紙の半分のサイズ)紙、デイリー・メール紙が、スコットランド北部(イギリス最北部)にあるネス湖で撮影されたネッシーの写真(『外科医の写真』)を掲載。なお、1994年には、撮影者がトリック写真であったと白状している。 
1951年 - 民間ラジオ放送16社に予備免許が与えられる(「民放の日」の由来)。  
1952年 - 「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令(公職追放令、昭和22年1月4日勅令第1号)」が廃止され、最後まで追放解除にならなかった約5,700名の公職追放が解除される。 
1952年 - 1951年7月20日に設立された日本民間放送連盟(民放連)が社団法人化される。
1954年 - 造船疑獄で、犬養健法務大臣が指揮権を発動、佐藤栄作自由党幹事長の逮捕を含めた強制捜査に対し、逮捕中止と任意捜査への切替えを検事総長に指示する。なお、造船疑獄とは、第二次世界大戦後の日本における計画造船における利子軽減のための「外航船舶建造融資利子補給法(昭和28年8月15日法律第215号)」制定請願を巡る贈収賄事件である。東京地方検察庁特捜部による海運、造船業界幹部の逮捕から始まった捜査は、政界・官僚に及び、最終的に逮捕者は71名となる。