4月20日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

女子大の日。
1901(明治34)年4月20日、日本初の女子大学となる日本女子大学校(現在の日本女子大学の前身)が開学した。日本女子大学校は、日本で初めての組織的な女子高等教育機関として誕生したものある。女性に教育は有害無益であると考えられていた当時、キリスト教(プロテスタント、新教)牧師である創設者の成瀬仁蔵は、著書『女子教育』によって必要性を力説。創立に当たっては、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立者大隈重信が創立委員長となり、総理大臣の伊藤博文、学習院(旧宮内省[現在の宮内庁の前身]の外局として設置された官立学校)院長の近衞篤麿、文部大臣(現在の文部科学省の前身の1つ、文部省の長)の西園寺公望、財界人の渋沢栄一や岩崎弥之助等、各界の重鎮の多大な支援を受け、明治を代表する女性実業家であり、豪気・英明な天性から「一代の女傑」と称えられた広岡浅子の働き掛けで、三大財閥(一族の独占的出資による資本を中心に結合した経営形態、財閥の中でも特に大きいもの)の1つである三井財閥から、目白台(現在の東京都豊島区目白)を寄贈され開校した。教育方針は「女子を人として、婦人として、国民として教育する」。1948(昭和23)年、学制改革によって新制大学としての日本女子大学が発足し、現在に至っている。広岡浅子は、大阪の梅花女学校(現在の幼稚園、中学校、高等学校、短期大学、大学、及び大学院を有するキリスト教主義学校で、幼稚園が共学となっているのを除き、一貫して女子校となっている梅花学園の前身)の校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、成瀬仁蔵の著書である『女子教育』を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験を持つ広岡浅子は『女子教育』に大いに共感し、金銭の寄付のみならず、成瀬仁蔵と行動を共にして、政財界の有力者に協力を呼掛ける等、強力な援助者となる。広岡家(大坂の豪商であった加島屋で、明治時代以降は近代的な金融企業として大阪の有力な財閥となる)や、実家の三井家(三井財閥の当主の一族)に働き掛け、三井財閥から目白台(現在の東京都豊島区目白)の土地を寄付させるに至り、1901(明治34)年の日本女子大学校設立に導く。日本女子大学校の発起人の1人であり、創立当初の評議員となる。また、現在の総合商社、双日の源流の1社である日本綿花(後のニチメン)発起人の1人でもある広岡浅子の夫、広岡信五郎は、日本女子大学校の創立委員の1人である。
肌には知る権利がある記念日。
埼玉県川越市芳野台に本社を置く、化粧品の開発、製造、販売等を手掛ける企業、株式会社ちふれ化粧品が2015(平成27)年に制定。株式会社ちふれ化粧品が「肌には知る権利がある」をスローガンに、化粧品に配合されている「全成分・分量」とその「配合目的」「製造年月」を業界に先駆けて公開してきたことから、食べ物を選ぶ時のように、肌に直接付ける化粧品も、それが何から作られているのかを知った上で選んで欲しい、との思いが込められている。日付は、4月20日の「4」と「20」で、社名の「ち(4)ふ(2)れ(0)」の語呂合わせから。一般的に、化粧品の配合成分は、化粧品メーカーによる業界団体、日本化粧品工業連合会のルールに則り、配合量の多い順に記載される。株式会社ちふれ化粧品では、ルールができる前から表示していたため、「配合目的別」に記載している。「化粧品の全成分表示」は、2001(平成13)年に法律で義務化され、消費者が商品を選択する際の参考情報の1つとして、社会に浸透してきている。1947(昭和22)年、アゼリア薬品工業株式会社が設立され、1955(昭和30)年に社名を東京実業株式会社と改称した後、1962(昭和37)年には、100円化粧品の販売を開始する。1968(昭和43)年、女性団体の1つである全国地域婦人団体連絡協議会(全地婦連)と提携して、「ちふれ化粧品」を発売したが、この際に、品質への疑念を払拭するため、商品に使用される全成分の構成内容や比率を表示する等の方針が取られた。1991(平成3)年、東京実業株式会社から、全国地域婦人団体連絡協議会(全地婦連)の名に由来した社名、株式会社ちふれ化粧品と改称した。
四川料理の日。
長野県諏訪郡富士見町富士見に運営会社を置く「四川フェス実行委員会」が制定。日付は、「4」が四川の「四」で4月。中国語で「80」のことを「バーシー」と読み、四川語の「すごく美味しい」の意味と同じ音になることから、「80÷(四川の)4」で20日に。本場の美味しい四川料理を、もっと日本に広めることが目的。四川料理とは、狭義には、中国西南部に位置する四川省の郷土料理のことである。広義には、その周辺地域を含めた、共通する特徴をもつ郷土料理のことを指す。四川料理は、一般には唐辛子や花椒等の香辛料を効かせる、辛い中華料理として知られる。四川省の中でも、古くから『天府の国』と呼ばれてきた省都、成都を本場とする。中国各地に四川料理の専門店が存在しており、「正真正銘・正統派の四川料理」という意味の「正宗川味」という看板が多く見られる。代表的な料理として、麻婆豆腐(マーボードウフ)、担担麺(タンタンメン)、回鍋肉(ホイコーロー)、青椒肉絲(チンジャオロース)、棒棒鶏(バンバンジー)等がある。日本においては、第二次世界大戦後まで四川料理への馴染みは薄かったが、東京で四川料理店を開いた、中国系日本人1世の陳建民が、日本放送協会(NHK)の料理番組『きょうの料理』で、日本人の口に合い、入手し易い材料に代える等の工夫を加えた料理を紹介したことにより、日本各地に四川料理が広まった。元来は宮廷料理を得意とした陳建民は、日本における四川料理の父、とも言われるようになった。
百間忌、百鬼園忌、木蓮忌。
作家・随筆家、内田百間の1971(昭和46)年の忌日。百間のペンネームは、幼い頃に遊んだ岡山県を流れる一級河川、旭川の緊急放水路である百間川に因み、また「借金」の語呂合せから百鬼園とも名乗っていた。ただ、本人は一応のところ否定している。東京都中野区上高田の金剛寺にある句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」から、木蓮忌とも呼ばれる。迫り来る得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆等を得意とした。後輩の作家、芥川龍之介に慕われた他、師である作家・評論家・英文学者、夏目漱石の縁故からその二男で随筆家の夏目伸六と親交が深かったことでも有名である。老舗の造り酒屋の一人息子であり、祖母に溺愛されて育ったこともあってか、非常に頑固偏屈かつわがままで無愛想な人物として知られ、また、そのことを自認もしており、よく作品内の素材に使用した。持ち前のいたずらっ気やユーモアもあって、特に法政大学教授当時の教え子(なお、内田百間自身はこの呼称を非常に嫌っており、「学生」と呼んだ)達から慕われた。文学上の師匠に当たる夏目漱石や、琴、酒、煙草、小鳥、鉄道、猫、郷里岡山の銘菓『大手まんぢゅう』等を愛し、それぞれについて多くの著作が残されている。晩年には、飼い猫のノラとクルツを溺愛した。ノラが失踪し、その後に居ついたクルツも病死してしまい、その悲しみを綴った随筆『ノラや』や『クルやお前か』もまた、代表作の1つとなっている。夏目漱石との猫繋がりでもあるのか、『贋作吾輩は猫である』という作品もある。内田百間は、鉄道に乗ることを目的として鉄道旅行を行なうことを好んだ。目的地では、一部の例外を除いては長逗留したり観光をしたりすることもなく、むしろそれらを忌避することすらあり、鉄道に乗って終着駅から引返すようなこともある等、鉄道に乗って移動すること自体を目的とする旅を行なった。また、鉄道に乗車する際には、借金をしてまでも一等車への乗車を志向した。このようなスタンスで、青森から鹿児島に至るまで日本各地を往来した旅をしたためたものが、紀行文シリーズ『阿房列車』であるが、時に旅の本筋と関係ない回想が長々と挿入され、或いは、内田百間自身の短編小説に見られる異様な非現実的現象の描写が語られることもあり、作者自身も、紀行文というより「小説」と見做していた模様である。『阿房列車』シリーズの第1作である『特別阿房列車』中の「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」という飄々とした一文は著名で、しばしば引用されることがある。なお、題名については、作者である内田百間によると「阿房」は、史上初の中国統一を成遂げた秦の始皇帝の建てた「阿房宮」に由来しているとしている。   
菜の花忌。
明治期から昭和期にかけて活動した歌人、前田夕暮の1951(昭和26)年の忌日。季節の花に因み、「菜の花忌」と呼ばれる。他に、「菜の花忌」という名で呼ばれる忌日として、2月12日の作家、司馬遼太郎の「菜の花忌」と、3月12日の詩人、伊東静雄の「菜の花忌」がある。若山牧水(歌人で、書家としても知られ、大変な酒好きであり、旅を愛した)と共に、自然主義文学(19世紀末にフランスで提唱された文学理論[自然の事実を観察し、「真実」を描くために、あらゆる美化を否定するもの]に基づく作品に影響を受けた日本の20世紀前半の文学)を代表する歌人であり、「夕暮・牧水時代」と言われる時代を築いた。昭和初期には、口語自由律短歌(五・七・五・七・七の定型に捉われず、作られた短歌)を牽引し、後の口語短歌の基礎を固めた。なお、晩年には再び、定型歌に復帰している。