4月17日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0667年 - 第38代天皇、天智天皇が、近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市に所在)の近江宮に遷都する。天智天皇は、近江宮で正式に即位し、律令(律は刑法で、令はそれ以外の、主に行政法や訴訟法、民事法等)に基づく古代統一国家の統治体制、律令制の基礎となる施策を実行する。天智天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(第39代天皇、弘文天皇[天智天皇の第一皇子])は、672年の壬申の乱(皇位継承を巡って、皇族や豪族がそれぞれ2派に分れて争った、古代日本最大の内乱)で大海人皇子(後の第40代天皇、天武天皇)に敗れたため、近江宮は、僅か約5年余りで廃都となる。 
0674年 - 対馬国(九州の北方、朝鮮半島との間の玄界灘にある、現在の長崎県に属する島、対馬)の国司(地方行政単位である国の行政官として、中央から派遣された官吏)が、日本で初めて産出された銀を朝廷に献上する。 
1332年 - 北朝初代天皇、光厳天皇即位の礼(天皇が践祚後、皇位を継承したことを国の内外に示す儀式)。
1594年 - 豊臣秀吉が、吉野(現在の奈良県南部に所在)の花見を開催する。単に「吉野」とも呼ばれる吉野山は、古くから花の名所として知られており、その中でも、特に桜は有名で、豊臣秀吉が花見を開催した時の一行は約5,000名であったとされ、豊臣秀吉が花見を行なった場所として、「太閤の花見塚」が残っている。吉野山の桜の多くは、吉野の名を冠したソメイヨシノではなく、ヤマザクラの類である。バラ科サクラ属の落葉高木で、日本に10種あるサクラ属の基本野生種の中でも代表的な種で、和歌にも数多く詠まれているヤマザクラは、サクラの仲間では寿命が長く、時に樹高30mを超える大木になる。樹形は箒形で、ニレ科ケヤキ属の落葉高木、ケヤキに似る。ヤマザクラを原種として品種改良された種も多い。多くの場合、葉芽(茎・葉となる芽)と花が同時に展開する(開く)ので、これがソメイヨシノと区別する大きな特徴となる。ヤマザクラは、同一地域の個体群内でも個体変異が多く、開花時期、花つき、葉と花の開く時期、花の色の濃淡と新芽の色、樹の形等、様々な変異がある。 ヤマザクラは独立した種であるが、近代の分類記載において、多くの野生桜との混同が多く、野生桜を総じてヤマザクラと呼ぶケースや、カスミザクラやエゾヤマザクラをヤマザクラと同種に見做すケース等がある。この原因には、日本の野生桜が多くの変異を引起こし易いこと、交雑によると見られる雑種が多く生じ易いこと、古来から花が好まれたことから、広く人工的に植栽されたことで、交雑個体や変異個体が広く分布する原因になっていること等がある。同じ場所に育つ個体でも、1週間程度の開花時期のずれがあるため、同じサクラでもソメイヨシノと異なり、短期間の開花時期に集中して花見をする必要はなく、じっくりと観察できる。ソメイヨシノの植栽の普及する前の花見文化はむしろ、このように長期間に亘って散発的に行なわれるものであったという。新芽から展開し掛けの若い葉の色は、特に変異が大きく、赤紫色、褐色、黄緑色、緑色などがあり、裏面が白色を帯びる。花弁は5枚で、色は一般的に白色、淡紅色だが、淡紅紫色や先端の色が濃いものなど変化も見られる。樹皮は暗褐色、又は暗灰色。木材は家具の材料としても人気が高い。樹皮は、樺細工(日本の伝統的な木工工芸品で、桜の樹皮を利用して作られるものであり、茶筒や小箱、煙草入れ等に利用される)等に利用される。「吉野の桜」とは、本来このヤマザクラを指すものであり、日本の象徴とされた桜でもある。長寿な種であり、岡山県津山市阿波の、標高480mの山里にある1本のヤマザクラ、「尾所の桜」は、樹齢500年を越えるとされている。日本では、サクラは固有種を含んだ10類の基本の野生種を基に、これらの変種を合わせて、100種以上の自生種がある。さらに、これらから育成された園芸品種が200種以上あり、分類によっては600種とも言われる品種が確認されている。これら多品種のサクラの内、ソメイヨシノは、江戸時代後期に開発され、昭和の高度経済成長期(日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期)にかけて全国で多く植えられ、このため今日では、気象庁がサクラの開花・満開を判断する「標本木」とされる(沖縄県全域と、鹿児島県や北海道の一部を除く)等、現代の観賞用のサクラの代表種となっている。ソメイヨシノは、江戸の駒込染井村(現在の東京都豊島区駒込)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成されており、初め、サクラの名所として古来名高く、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人、西行(和歌と故実に通じた人物として知られていたが、23歳で出家して円位を名乗り、後に西行とも称し、出家後は心の趣くまま諸所に草庵を営み、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した)の和歌にも度々詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)に因んで、「吉野」「吉野桜」として売られ、広まったが、明治・大正期の博物学者、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によって、ヤマザクラとは異なる種のサクラであることが分かり(1900年)、この名称では、吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあったため、日本園芸中央会が発刊した雑誌『日本園芸雑誌』において、駒込染井村の名を取り、「染井吉野」と命名したという。全てのソメイヨシノは、元を辿れば、かなり限られた数の原木に繋がり、それらのクローンと言える。これは、地域毎にソメイヨシノが一斉に咲き、一斉に花を散らす理由になっているが、特定の病気に掛かり易く、環境変化に弱い理由ともなっている。  
1780年 - アメリカ独立戦争: マルティニーク島の海戦。 
1861年 - 南北戦争: バージニア州がアメリカ合衆国を離脱。 
1872年 - 文部省博物局(現在の東京国立博物館)が、湯島聖堂の大成殿を「文部省博物館」とする。湯島聖堂の大成殿が会場となり、「文部省博物館」主催の官設博覧会が開催されて、東京で開かれた最初の博覧会となる。出品物は、文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)が博物館を設ける計画で集めたもので、徳川家から献納された楽器、銅器、陶器、古金銀、漆器、硯箱等御物18点の他、遺跡出土品、調度品、甲冑、陣羽織、刀剣等の骨董品や、動植物標本類、約620点が混然として陳列される。呼び物の名古屋城の金鯱(金色に装飾を施した鯱[姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物で、それを模した、主に屋根に使われる装飾・役瓦の一種であり、鬼瓦同様守り神とされており、建物が火事の際には、水を噴き出して火を消すという])の展示が燦然として輝き、衆目を集める。 
1895年 - 主に朝鮮半島(李氏朝鮮)を巡る日本と清国(中国清朝)の戦争、日清戦争の講和条約である「日清講和条約(下関条約、明治28年5月13日勅令)」に調印。日本は日清戦争の戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も、戦後に借替えている。条約により、台湾を譲受した日本は、台湾総督府(台湾を統治するために設置された日本の出先官庁)や台湾製糖(台湾植民政策の中心を、産業振興、並びに経済の資本主義的発展に置き、そのまた中心を、糖業奨励に置いたことから設立された、台湾最初の新式製糖工場を建設した製糖会社)を設置し、民間からは、大日本製糖等の製糖会社が台湾に進出する。また、大阪商船(現在の大手海運会社、商船三井の前身の1つ)等の水運会社が、中国東部に所在する上海に進出している。 
1912年 - レナ虐殺事件。シベリア(現在のロシア東部に所在)東部を流れるレナ川付近で、ストライキを行なっていた金鉱労働者達にロシア帝国軍が無差別に発砲し、多数の犠牲者を出す。 
1917年 - ロシア革命: 前日にロシアに帰国したばかりのウラジーミル・レーニンが「四月テーゼ」を発表。戦争を続ける臨時政府の全権を、ソビエト(社会主義者の働き掛けもありながらも、主として自然発生的に形成された労働者・農民・兵士の評議会)が握るべきと主張する。 
1918年 - 栃木県那須郡西那須野町(現在の栃木県那須塩原市)の西那須野駅から、栃木県那須郡黒羽町(現在の栃木県大田原市)の黒羽駅を経て、栃木県那須郡小川町(現在の栃木県那須郡那珂川町)の那須小川駅までを結んでいた鉄道路線、東野鉄道が、西那須野駅 - 黒羽駅間(路線距離13.1km)で開業。1924年には、木材輸送を目的として、黒羽駅 - 那須小川駅間も開業する。旅客・貨物輸送量の低下や、災害復旧に掛かる経費の問題等から、黒羽駅 - 那須小川駅間は1939年に、西那須野駅 - 黒羽駅間が1968年に廃止されている。
1924年 - アメリカで、3社の映画スタジオが合併して、後に巨大マスメディア企業となる『メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)』が設立される。 
1927年 - 枢密院(枢密顧問[顧問官]により組織される天皇の諮問機関で、1947年に廃止される)が、金融恐慌対策の台湾銀行(台湾の貨幣[台幣]の発行権を持つ特殊銀行であると共に、日本統治時代の台湾における最大の商業銀行であった)救済案を否決したことにより、若槻礼次郎内閣が総辞職。