4月15日 記念日 その6 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

イリオモテヤマネコの日。
1965(昭和40)年4月15日にイリオモテヤマネコが新種と公表されてから、2015(平成27)年で50年を迎えたことを記念し、沖縄県八重山郡竹富町が条例により、2015(平成27)年9月25日に制定した。イリオモテヤマネコは、ネコ科ベンガルヤマネコ属に分類される、ベンガルヤマネコの亜種である。ベンガルヤマネコは、アジアに広く分布する食肉類で、平均してイエネコと同程度の体長であるが、地域差がみられる。インドネシア棲息の種は、平均して頭胴長約45cm、尾の長さ約20cmであるのに対して、ロシア南東部のアムールに棲息する種は、平均して頭胴長約60cm、尾の長さ約40cmとやや大きい。肩高は約40cm、体重は約3kgから約7kgになる。毛皮は変化に富み、南方の種は黄色であるが、北方の種は銀白色をしている。胸部、並びに頭部下側は白色。全身に黒斑があり、亜種によっては黒点であったり、バラに似た形状の模様であったりする。繁殖期以外では単独行動をする。ベンガルヤマネコの棲息地は、森林や熱帯雨林の広がる低地、又は山地であり、乾燥した地域には、通常は棲息しない。流水の近くを好み、3,000m級の高地で目撃されることがある。木登りが得意で、水を泳ぐこともあるが、滅多にはしない。毛皮は、「レオパードキャット」という名称で、コート等の素材として利用されている。イエネコとの間に雑種ができるとされ、それによって生まれた子猫が、イエネコの品種の1つ、ベンガルの基になったと言われている。イリオモテヤマネコは、沖縄県八重山郡竹富町に属する西表島で発見されたが、20世紀に入って発見された中型以上の哺乳類は稀有であり、また、当初は、ネコ類でも原始的な形質を有する新属・新種と発表されたこともあって、その発見は大きく取上げられた。しかし、現在では、遺伝情報の分析により、独立種ではなく、ベンガルヤマネコの亜種に分類されている。但し、ベンガルヤマネコに似ていること自体は、当初から指摘されていた。日本(西表島)の固有亜種で、西表島は、面積が290平方km程度であり、これはヤマネコの住む島としては、また、ヤマネコの生息域としても、世界最小のものである。体長は、オスで60cm程度、メスで50cmから55cm程度、体重は、オスで約3.5kgから約5kg、メスで約3kgから約3.5kgと、オスの方がメスよりやや大きい。尾は先端まで太く、尾長は23mから24cm程度。胴が長く、四肢は太く短い。全身の地色は暗灰色や淡褐色で、腹部や四肢の内側はより淡く、あごは白色である。頭部の暗褐色の斑は、頬に左右に2本ずつあり、他のベンガルヤマネコのように、額から背面にかけて5本から7本の縞模様が入るが、他のベンガルヤマネコとは違い、肩の手前で途切れる。体側面には暗褐色の斑点、胸部には不規則に3本から4本の帯模様が入る。尾全体は暗褐色であり、尾背面には、不規則に暗褐色の斑点が入るが、尾腹面に斑紋が入らず、先端は暗色である。耳介の先端は丸く、黒色の毛で縁取られ、先端の体毛は、房状に伸長しない。また、成獣の耳の背面は、白濁色の虎耳状斑と呼ばれる斑紋がある。この虎耳状斑は、他のベンガルヤマネコでは、幼獣の時から小さな白濁した斑があり、成長するにつれ白色になるが、イリオモテヤマネコは、幼獣にはこの虎耳状斑は無く、成長しても白色にはならない。虹彩は淡い琥珀色である。吻端の体毛で被われない板状の皮膚(鼻鏡)は淡赤褐色をしており、大型で、鼻面も太い。遺伝的な差異が僅かであるにも関わらず、このように形態的な差異が大きいことから、発見当時は新属新種とされた。夜行性で、特に薄明薄暮時に活動する。昼間は樹洞や岩穴等で休み、約1平方kmから約7平方kmの行動圏内で生活する。行動圏内にある石や切り株、藪等に糞尿をかけて縄張りを主張する。地表性であるが、樹上に登ったり、水に入ったり、潜水することもある。食性は動物食で、哺乳類や鳥類、爬虫類、両生類、魚類、甲殻類等を、日に約400gから約600gを捕食する。他のヤマネコ類は、ネズミ類やウサギ等の小型哺乳類が主要な餌であるのに対し、西表島には、ネズミ類やウサギ等の小型哺乳類が元来生息していない上に、イリオモテヤマネコと競合するような肉食哺乳類が、他には生息しておらず、生息環境や餌資源等の棲み分けが必要ないために、様々な生物を幅広く餌としている。食性には季節による変化も見られ、クマネズミやカエル類は年間を通して捕食され、春から夏にかけてはトカゲ類、秋から冬にかけてはマダラコオロギやクビワオオコウモリが多くなる傾向にある。開発による生息地の破壊、イヌによる捕食、交通事故、イノシシ用の罠やカニ罠による混獲等により、イリオモテヤマネコの生息数は減少している。1977(昭和52)年3月15日に特別天然記念物(指定されると保護の徹底が図られる)、1994(平成6)年には、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律(野生動植物保存法、種の保存法、平成4年6月5日法律第75号」により、国内希少野生動植物種(日本に生息・生育する、絶滅のおそれのある野生動植物の種)に指定されている。

愛国者の日(Patriots' Day)。
4月第3月曜日。アメリカ独立戦争の緒戦となる、1775(安永4)年4月19日のレキシントン・コンコードの戦いを記念した、アメリカ合衆国の記念日で、アメリカ合衆国北東部のマサチューセッツ州とメイン州、アメリカ合衆国中西部のウィスコンシン州、この3州において祝日に制定されている。また、ボストンマラソン(アメリカ合衆国北東部、マサチューセッツ州ボストンで開催される、近代オリンピックに次いで歴史の古いスポーツ大会の1つであるマラソン大会)が開催される日としても知られている。レキシントン・コンコードの戦いは、アメリカ独立戦争が始まる契機となった英米間の戦闘である。イギリス軍が、ボストン北西に位置するコンコードにあった、アメリカ植民地民兵部隊の武器庫の接収作戦を実施した。それに反発すべく動いた植民地民兵隊と武力衝突し、レキシントンとコンコードにて、イギリス軍と植民地民兵隊の激しい戦闘が行なわれ、植民地民兵隊はイギリス軍を撃破した。規模は小さいながら、アメリカ独立戦争の初戦を飾るものとなった。1783(天明3)年9月3日までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)と北アメリカ東部沿岸にあるイギリス領の13植民地との戦争、アメリカ独立戦争によって、植民地の住民はイギリスの支配を拒否し、アメリカを合衆国(United States)政治的独立に導くことに成功した。また、9月11日も、アメリカ合衆国の「愛国者の日(Patriot Day)」であり、2002(平成14)年から実施されている。2001(平成13)年9月11日、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨーク市の貿易センタービル、アメリカ合衆国の首都ワシントンDCにあるアメリカ合衆国国防総省に、ハイジャックした旅客機を激突させる「アメリカ同時多発テロ」が発生した。翌2002(平成14)年9月4日、当時のアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュが、この日を「愛国者の日」として宣言した。テロの犠牲者や、救助作業に携わって犠牲となった消防士らに黙祷を捧げる日である。
梅若忌。
915(延喜15)年のこの日、謡曲『隅田川』の題材になっている幼児、梅若丸が誘拐され、客死した。現在の東京都墨田区にある天台宗の寺院、木母寺に縁(ゆかり)がある。一般に狂女物は、再会→ハッピーエンドとなる。ところが、この曲は春の物狂いの形を取りながら、一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親の悲嘆を描く。元々は陰暦3月15日であるが、現在は、月遅れの4月15日には行われる。 
阿国忌。
阿国歌舞伎の創始者で歌舞伎芝居の祖、出雲の阿国の忌日とされる(諸説あり)。出雲の阿国は、安土桃山時代の女性芸能者である。ややこ踊り(中世末期から近世初頭に行なわれた少女による小歌踊り)を基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎ができ上がっている。出雲の阿国は、出雲出身かどうかは学術的に決着が付いていないものの、出雲国(現在の島根県東部)杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘とされ、出雲大社(現在の島根県出雲市にある神社)の巫女となり、文禄年間(16世紀の終わり頃)に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ、評判となったと言われ、京で人気を得て、伏見城に参上して度々踊ることがあったともされる。その後、かぶき踊りは遊女屋で取入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、僅か10年余りで全国に広まったが、江戸幕府により禁止される。元々、出雲の阿国が演じていたものは、茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、出雲の阿国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない。歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語に当たる「傾く(かぶく)」の連用形を名詞化した「かぶき」と言われている。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特に、そうした者達のことを「かぶき者」とも言った。そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取入れた独特な「かぶき踊り」が、慶長年間(1596年 - 1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。「かぶき踊り」は、主に女性が踊っていたことから、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」「歌舞妃」「歌舞妓」等の表記が用いられたが、江戸時代を通じて主に用いられたのは「歌舞妓」であった。現在用いられる「歌舞伎」の表記も江戸時代使われないことはなかったが、一般化したのは近代になってからである。歌舞伎は2009(平成21)年、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の無形文化遺産に登録された。
登美子忌。
歌人、山川登美子の1909(明治42)年の忌日。山川登美子は1900(明治33)年、歌人・詩人で与謝野晶子(情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』や、日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名な歌人で作家・思想家)の夫、与謝野鉄幹が創刊した、詩歌を中心とする月刊文芸誌『明星』の主要歌人として活躍し、与謝野晶子、茅野雅子(大阪出身の歌人)と共に、明星派三才媛と謳われている。抑制の効いた静かな表現の中に、女の愛の真実感を漂わせた歌風に特色をもつ。山川登美子は、急性腎臓炎のために入院し、それが原因で呼吸器疾患を患う。その呼吸器疾患が原因となり、生家で死去する。満29歳であった。