4月15日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

第六号潜水艇遭難の日/佐久間艇長殉職の日。
1910(明治43)年4月15日、佐久間勉艇長(最終階級は海軍大尉)以下14名を載せた六号潜水艇が、訓練中の事故によって瀬戸内海で沈没、全乗組員は死亡した。2日後に引上げられた艇内から、佐久間勉艇長が事故原因と事故後の対応等を、死の直前まで冷静に記録したメモが発見された。小型の潜水艦である日本海軍の潜水艇、第六潜水艇は、ガソリン潜航実験の訓練等を行なうため、山口県岩国を出航し、広島湾へ向かった。この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突出して潜航運転するもので、原理としては、現代のシュノーケルと同様であった。午前10時頃から訓練を開始、10時45分頃、何らかの理由で、煙突の長さ以上に艇体が潜航したために浸水が発生したが、閉鎖機構が故障しており、手動で閉鎖する間に約17mの海底に着底し沈没した。この事故より先に、イタリア海軍で似たような事故があった際、乗員が脱出用のハッチに折り重なったり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいる醜態を晒していたため、日本海軍関係者も、最初は醜態を晒していることを心配していた。ところが、実際には、殆どの乗員は配置に付いたまま殉職、さらに、佐久間勉艇長は、事故原因や潜水艦の将来、乗員遺族への配慮に関する遺書を認めていたため、これが「潜水艦乗組員かくあるべし」「沈勇」ということで、修身(第二次世界大戦前の日本の小学校における科目の1つで、イギリス等の宗教教育や、第二次世界大戦後の道徳教育に相当するもの)の教科書や軍歌として広く取上げられたのみならず、海外等でも大いに喧伝(盛んに言いはやして世間に広く知らせること)された。アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にあるアメリカ合衆国議会議事堂には、遺書の写しが陳列された他、感動したアメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルトによって、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にあるアメリカ合衆国の国立図書館、アメリカ議会図書館の前に遺言を刻んだ銅版が設置され、真珠湾攻撃によって太平洋戦争(第二次世界大戦対米英戦)が勃発した後も撤去されなかった。イギリスの王室海軍潜水史料館には、佐久間勉艇長と第六潜水艇の説明があり、第二次世界大戦の後も展示され続けている。ある駐日英国大使館付海軍武官は、第二次世界大戦前から戦後まで、イギリス軍人に尊敬されている日本人として佐久間勉艇長を挙げ、第二次世界大戦後の日本人は「佐久間精神を忘れている」と1986(昭和61)年の岩国追悼式でスピーチした。今日でも、佐久間勉艇長の命日には、出身地の福井県で遺徳顕彰祭が行なわれ、海上自衛隊音楽隊による演奏や、イギリス大使館付武官によるスピーチが行なわれている。排水量は常備58t、水中63t、全長は23.25m、全幅は2.15mの小型潜水艦、第六潜水艇は、1906(明治39)年4月5日竣工で、アメリカ製の潜水艇、ホランドの設計に基づいて建造されており、コピーながら、日本で初めての潜水艦建造となる。1910(明治43)年4月15日、ガソリン潜航実験の訓練中に通風管(シュノーケルと呼ばれる、水中で潜水艦のエンジンを運転するために用いられる吸気管)から海水が大量に流入し、沈没事故を起こすが、後に引上げられ、再就役した。1919(大正8)年4月1日、第七潜水艦と改称されたが、1920(大正9)年4月1日には除籍となっている。 
ヘリコプターの日。
イタリアのルネサンス期(古典古代[ギリシャ、ローマ]の文化を復興しようとする文化運動、ルネサンスが西ヨーロッパ諸国に広まった、15世紀初めから16世紀半ばにかけての期間)を代表する芸術家で、万能の天才という異名で知られ、ヘリコプターの原理を考案したとされるレオナルド・ダ・ヴィンチの誕生日、1452(宝徳4)年4月15日に因み、東京都港区芝に所在する、航空関係の各種企業による業界団体、社団法人全日本航空事業連合会(現在は、一般社団法人となっている)が1986(昭和61)年に制定した。ヘリコプターの重要性をPRし、第2の空の足として認識してもらうことが目的。15世紀にレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、ヘリコプター図案のスケッチが残っているが、レオナルド・ダ・ヴィンチは、開発や試作機の製作は行なっていない。当時は材料に木材や布等しか利用できず、軽くて丈夫な機体を作れなかったため、飛ばすことはできなかったと考えられる。ヘリコプターは、エンジンの力で機体上部にあるメインローターと呼ばれる回転翼で揚力を発生し飛行する航空機の一種であり、回転翼機に分類される。空中で留まる状態のホバリングや、ホバリング状態から垂直、水平方向にも飛行が可能であり、比較的狭い場所でも離着陸できるため、各種の広い用途で利用されている。日本語では「ヘリ」等と呼ばれるが、「ヘリコプター」の名前は、ギリシャ語の「螺旋 (helico-,ヘリックス)」と「翼 (pteron,プテロン)」に由来している。ヘリコプターは、ローターの迎え角(ピッチ角)と回転面の傾きを調整することによって、非常に複雑な運動が可能である。例えば、垂直上昇や垂直降下、空中停止(ホバリング)の他、機体の向きを保ちながら、真横や後ろに進むこともできる。また、宙返り等の曲技飛行ができる機体もある。このようなヘリコプターの特徴は、狭い場所や複雑な地形での活動に向いており、人員や貨物のさまざまな輸送に利用されている。ラジコン玩具も、電子ジャイロの小型化、高性能化により、複雑な姿勢制御が容易となり、狭い空間でも飛ばせることから、趣味としての人気も高い。さらに、自動制御のロボットヘリも、観測や農薬散布用等に実用化されている。しかし、翼の固定された航空機(固定翼機、飛行機)に比べると、一般に速度が遅く、燃費も悪い上、航続距離も短い。実際に飛行できるヘリコプターが最初に飛行したのは、ドイツの航空技術者ハインリッヒ・フォッケにより、1937(昭和12)年にドイツの首都ベルリンで開発されたフォッケウルフ Fw61である。航続距離約230km、最高速度時速約120kmを記録した。ドイツの航空技術者アントン・フレットナーも、ヘリコプターの開発に貢献する。実際に、回転翼機で垂直上昇/垂直着陸/空中静止(ホバリング)を得るには、重量当たりの出力が小さいレシプロエンジン(ピストンの往復運動を、連結棒とクランクによって回転運動に変える方式のエンジン)では限界があり、充分な実用性能を得るためには、軽量で高出力なガスタービンエンジン(燃料の燃焼等で生成された高温のガスでタービンを回して、回転運動エネルギーを得るエンジン)の採用を待たねばならなかった。1951(昭和26)年にアメリカ合衆国の航空機製造会社、カマン社(現在は、航空宇宙産業を手掛けるカマン・エアロスペースとなっている)が開発したカマン K-225は、世界初のガスタービンエンジン式ヘリコプターになった。その後の1955(昭和30)年には、フランスの軽ヘリコプター、シュド・エスト SE.3130 (Alouette II) が、世界で最初に量産されたガスタービンエンジンを搭載した量産ヘリとして登場し、幾つかの世界記録を塗替えた。これ以降、ジェット・ヘリというヘリコプターの一分野が作られてゆく。軍事目的では、第二次世界大戦末期に実戦投入され、英領マレー(現在の、東南アジアのマレー半島南部とボルネオ島北部を領域とするマレーシア)での対ゲリラ戦や、1950(昭和25)年から1953(昭和28)年まで、朝鮮半島の主権を巡り争われた朝鮮戦争でも利用されているが、その用途は、連絡や哨戒、航空救難等、補助任務に留まり、本格的な運用としては、ジェット・ヘリが実用化されて以降の、1955(昭和30)年に勃発したベトナム共和国(南ベトナム)とベトナム民主共和国(北ベトナム)との間の戦争、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が初めてである。それ以後、ヘリコプターは航空戦力として必要不可欠な存在となった。