4月13日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

水産デー。
1901(明治34)年4月13日、漁業の制度を定めた「漁業法(旧法、明治43年4月20日法律第58号)」が制定されたことを記念して、水産業に関係する生産者、加工業者、流通業者、小売販売会社等、約400の会員で構成される業界団体、社団法人大日本水産会が1933(昭和8)年に制定した。1882(明治15)年設立の社団法人大日本水産会は、東京都港区赤坂に所在し、2013(平成25)年に一般社団法人となっている。現在の「漁業法(昭和24年12月15日法律第267号)」が施行された1949(昭和24)年3月13日に因み、3月13日が「漁業法記念日」となっているが、これが「水産デー」と呼ばれることもある。漁業と海洋に関連する事務を所掌する水産庁(農林水産省の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織])には、「漁業法」に限定した行政警察活動を行なうことが許される漁業監督官が約500名いる。水産業は、一般には、水産物を取扱う業種の総称をいう。「漁業」と混同され易いが、「水産業」という場合には、漁業の他に、水産加工業等、水産物を利用する産業が含まれる。また、水産業は、最も広い意味では製塩業をも含む。かつては、漁業が業界の中心であったが、沿岸海域の漁業資源の枯渇、漁場汚染、近隣各国との漁業協定等により、日本の漁獲量は減少の一途を辿り、業種全体の中での比重は低くなって来ている。変わって、水産物加工や、冷凍産業、海外での加工へシフトしている。栽培漁業とは、生物を人為的な設備、環境下で育成し保護した後、自然へ戻して、漁業の促進を図るシステムで、つくる漁業とも言われる。栽培漁業は、1960年代の瀬戸内海で始まった。その頃の瀬戸内海では、高価格魚が減少しており、低価格魚が増加傾向にあった。そこで、その状況を打破する新たな試みとして、1962(昭和37)年に香川県の屋島や愛媛県の伯方島に初めて、国の栽培漁業の事業場が設置された。その後、事業を実施する機関として、社団法人瀬戸内海栽培漁業協会が、1963(昭和38)年に発足した。瀬戸内海での栽培漁業は成功し、これに刺激され、1977(昭和52)年以降、国の栽培漁業センターが全国に随時設置された。瀬戸内海栽培漁業協会は、1979(昭和54)年に日本栽培漁業協会に改められ、全国的な組織となった。その後、2002(平成14)年に閣議された「公益法人に対する行政の関与の在り方の改革実施計画」により、2003(平成15)年に日本栽培漁業協会は解散し、当時の独立行政法人水産総合研究センターに統合された。なお、水産総合研究センターは改組により、国立研究開発法人水産研究・教育機構(水研機構)となっている。国立研究開発法人水産研究・教育機構(水研機構)は、農林水産省の外局(特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織で、独任制の庁)、水産庁(水産資源の適切な保存、及び管理、水産物の安定供給の確保、水産業の発展、並びに漁業者の福祉の増進を図ることを任務とする)所管の国立研究開発法人で、水産業に関する技術向上を目的とし、そのための試験、研究、教育等を行なっている。  
浄水器の日。 
浄水器を信頼のおける家庭用品として定着させるために、有限責任中間法人浄水器協会が制定した日。浄水器協会は創立35周年を迎え、初心に返って行動しようと、その創立月である4月を選び、なおかつ、4月13日の「4」と「13」で、「良い水(よ[4]い[1]み[3]ず)」と読む語呂合わせにもなっている。東京都港区愛宕に事務局を置く浄水器協会は、浄水器を製造・販売する企業による業界団体で、1972(昭和47)年に全国家庭用浄水器協議会として設立され、1992(平成4)年に浄水器協議会と改称した後、2003(平成15)年には有限責任中間法人浄水器協会となった。さらに2009(平成21)年5月、一般社団法人浄水器協会となり、公益を図り、信頼醸成のための活動を推進する団体として活動している。浄水器は、水道水を給水栓(各家庭の蛇口)より後の段階できれいにするための機器である。日本の水道水に対しては、基本的に必要性が低いとい考えられているが、水道水に含まれる総トリハロメタン(最も単純な構造の炭化水素であるメタンを構成する4つの水素原子の内、3つがハロゲン[フッ素、塩素、臭素、ヨウ素、アスタチンの5元素の総称]に置換した化合物)等には、発癌性や催奇形性が疑われているため、長期的な健康被害を考慮して使用される場合も多くなっている。利用方法は、水道の蛇口に取り付けるものが多いが、中には屋内配管に組込むものもある(ビルトインタイプ)。ビルトインタイプは、システムキッチンに組込まれて、メインの水道栓の他に浄水用の水道栓を持つものが多い(アンダーシンク型)。フィルタ部分をシンクの下に組込むことができるので、フィルタを大きくでき、交換間隔を減らせるというメリットがある。汲み置きができるポット型や、災害用のものにはストロー型もある。 
ブルダック炒め麺の日。
即席麺等の食品を製造販売する韓国の三養食品。その日本法人で、東京都新宿区愛住町に所在する企業、株式会社三養ジャパンが制定。株式会社三養ジャパンが販売する「ブルダック炒め麺」は、一度食べたら病みつきになる、強烈な辛さが特徴の即席麺。記念日を通して、さらに多くの人に「ブルダック炒め麺」を食べてもらい、ブルダッカーと呼ばれるファンの人に喜んでもらうが目的。日付は、「ブルダック炒め麺」の発売開始が2012(平成24)年4月13日であることから。また、「ブルダック炒め麺」ブランドの公式キャラクター「ホチ(Hochi)」の誕生日でもある。韓国で初めてのインスタントラーメン、「三養ラーメン」を発売した三養食品は、「ブルダック炒め麺」シリーズが日本で売行き好調なため、日本法人を設立して市場拡大を図っている。「ブルダック」という名は、鶏肉を使った激辛料理「火鶏(ブルダック)」に由来する。

全国一斉ユニセフ・ラブ・ウォークの日。
4月第2土曜日。日本ユニセフ協会ラブウォーク協議会事務局が1983(昭和58)年から実施。ラブウォークとは、歩くことで「健康づくり」をすると共に、参加者の募金を開発途上国の子ども達の為に役立てよう、というイベントである。公益財団法人日本ユニセフ協会は、東京都港区高輪に本部を置く日本の公益財団法人(「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律[公益法人認定法、平成18年6月2日法律第49号]」により、公益目的事業比率が全支出の50%以上であること、収支相償、遊休財産額が約1年分の公益目的事業費の額を超えないこと等の主たる要件を満たし、公益性の認定を受けた一般財団法人)で、36の国と地域にある「ユニセフ国内委員会(Committee for UNICEF)」の内の1つである。「ユニセフ」という名称を含むが、国際連合児童基金(UNICEF・ユニセフ)の日本事務所ではない。公益財団法人日本ユニセフ協会は、国際連合児童基金(UNICEF・ユニセフ)本部と協力協定を結んでいる団体であり、日本において民間人・民間団体・企業向けに国際連合児童基金(UNICEF・ユニセフ)を代表する唯一の組織である。日本における民間協力の窓口として運営されている非政府組織(NGO)であって、国際連合機関ではない。国際連合児童基金(UNICEF・ユニセフ)本部は、東京都内に「ユニセフ東京事務所」を設置しているが、この事務所も、国際連合児童基金(UNICEF・ユニセフ)日本支部ではない。
ジェファーソン・デー。
イギリス(グレートブリテン王国)によって統治されていた13の植民地が、独立したことを宣言する文書『アメリカ独立宣言』の主要な作者、アメリカ合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソンの誕生日を祝う日。1743(寛保3)年4月13日(グレゴリオ暦)に、アメリカ合衆国東部、バージニア州で生まれたトーマス・ジェファーソンは、アメリカ合衆国の共和制(政府の大半の意思決定が元首[対外的代表権を持つ存在]の裁量によってではなく、成立した法を参照して行なわれる体制)の理想を追求したことで最も影響力のあった、アメリカ合衆国建国の父の1人とされている。共和制(人民、又は人民の大部分が統治上の最高決定権を持つ政体)を推進し、イギリスの帝国主義に対抗する偉大な「自由の帝国」の陰にある力としてアメリカの姿を描いた。トーマス・ジェファーソンは、首都ワシントンD.C.で就任演説を行なった最初の大統領である。2期を完全に務めたアメリカ合衆国大統領の中で、議会の法案に対し1回も拒否権を発動しなかった唯一の人物である。学者達によるアメリカ合衆国大統領の評価でも、常に偉大な者の1人とされてきた。また、博学者(様々な事柄や分野に通じていて、優れた学識を持った人物のこと)であるトーマス・ジェファーソンは、数ある得意分野の中でも、園芸学者、政治指導者、建築家、考古学者、古生物学者等として傑出していた。 
恵美子の日。 
日本全国の「恵美子さん」にエールを送る日として、その名前の代表格のタレント、上沼恵美子の誕生日、1955(昭和30)年4月13日にあやかり、この記念日を制定したのは、近畿広域圏を放送対象地域とするテレビジョン放送事業を行なっている特定地上基幹放送事業者、讀賣テレビ放送株式会社。 
啄木忌。
今なお、日本で最も親しまれている歌人・詩人の1人とされる石川啄木が、東京府東京市小石川区久堅町(現在の東京都文京区小石川)で、肺結核のため死去した。1912(明治45)年没、満26歳のことであった。石川啄木は、岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市の一部)で生まれた。岩手県岩手郡渋民村(現在の盛岡市の一部)にある宝徳寺で育ち、友人の影響で文学を始め、短歌や詩集を発表。代用教員や北海道での放浪を経て上京し、朝日新聞社の校正係、歌壇の選者を務める傍ら、創作活動を続けた。1910(明治43)年12月1日、雑誌や新聞に発表した短歌等、551首を載せた第1歌集『一握の砂』を発刊。1首を3行書きにしたことや、編集の巧みさが評価された。また、近代短歌に新領域を拓いた、とも評される。代表作に、歌集『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』等がある。暮らしの困窮について表現する和歌を多く作っていたことや、死後になって名を残したということから、石川啄木は生前には全く評価されず、一般的には、不遇の詩人としてよく紹介される。しかし、石川啄木は、就職した朝日新聞社では、遅刻、欠勤、給料前借は当たり前で、次々と他人から金を借り、既に借りた借金の返済には殆んど使わず、娼妓との遊興費等に惜しみなく費やした、という話もある。