4月10日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0628年 - 日本で記録(日本に伝存する最古の正史『日本書紀』)に残る最古の日食(太陽が月によって覆われ、太陽が欠けて見えたり、或いは、全く見えなくなる現象)。 
0823年 - 第52代天皇、嵯峨天皇の勅により、比叡山寺の寺号を延暦寺(現在の滋賀県大津市坂本本町にある、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院)に改める。平安仏教の中心の1つであった延暦寺は、仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には、皇室や貴族の尊崇を得て、大きな力を持つようになる。延暦寺は数々の名僧を輩出し、「日本仏教の母山」とも称されている。「12年籠山行」「千日回峯行」等の厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地とされ、1994年には、古都京都の文化財の1つとして、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されている。
0879年 - ルイ3世が、西フランク王国(フランス王国の原型に当たる王国)国王に即位する。 
1246年 - 鎌倉幕府第4代執権北条経時が重病の為、弟の北条時頼が第5代執権に就任する。1242年、19歳で執権となった北条経時は、訴訟制度の改革を行なう等、順調に政権を運営していたが、1245年前後から体調を崩し、次弟である北条時頼に後を託し、23歳で没している。北条時頼の執権就任直後、反北条勢力が鎌倉幕府第4代将軍(摂家[京都の公家]から迎えられた摂家将軍)九条頼経(藤原頼経)を擁して、軍事行動を準備するという非常事態が発生するが、これを北条時頼は鎮圧すると共に、反北条勢力を一掃し、九条頼経(藤原頼経)を京都に強制送還する(宮騒動)。これによって、得宗(鎌倉幕府の北条氏嫡流、惣領の家系)であった北条時頼は、執権としての地位を磐石なものとしている。 
1268年 - 元寇(文永の役): 鎌倉幕府が蒙古来襲に備えて、西国御家人らに防備を命じる。 
1302年 - フランス王フィリップ4世が、初の三身分合同会議(第一身分である聖職者、第二身分である貴族、そして第三身分である平民で構成される三部会)を開催。 
1657年 - 常陸国水戸藩(水戸徳川家)第2代藩主徳川光圀が、歴史書『大日本史』の編纂に着手。完成は、約250年後の1906年となる。 
1741年 - オーストリア継承戦争: モルヴィッツの戦い。シュレージェン(現在のポーランド南西部からチェコ北東部)のモルヴィッツで、フリードリヒ2世率いるプロイセン軍がマリア・テレジア率いるオーストリア軍を破る。 
1815年 - 東南アジア南部に位置するインドネシアの中南部にあるタンボラ火山で、大噴火が発生する。記録の残る中では人類史上最大の噴火と言われており、爆発音は約1,800km離れた場所でも聞こえ、大量の噴出物で、周辺は昼も闇に覆われたとされる。噴火で発生した火砕流が約25km離れた村を襲い、集落ごと消滅する等、噴火による直接の死者が約10,000名以上となったが、噴火によって耕地も壊滅状態となったことから、餓死者や疫病による死者も加わって、全体の死者は約100,000名前後に達したと言われている。この影響により、翌年は世界各地で夏のない年と呼ばれる異常気象となる。 
1827年 - ジョージ・カニングがイギリスの第23代首相に就任。 
1864年 - オーストリアのマクシミリアン大公が、マクシミリアーノ1世としてメキシコ帝国皇帝に就任。この当時のメキシコは、自由主義的な改革を推進しようとする、先住民族から選出された初のメキシコの大統領、ベニート・フアレスらと、保守派の間で内戦状態(「レフォルマ戦争」)となっており、1861年までにはベニート・フアレス側が優勢となる。そのため、保守派はフランス皇帝ナポレオン3世と結んで巻返しを図り、同年には、アメリカ合衆国が南北戦争に突入して介入が困難であったこともあり、フランス等がメキシコに軍事干渉を行ない、フランス第二帝政皇帝ナポレオン3世が、オーストリア皇帝の弟であるマクシミリアン大公を傀儡として帝位に就けている。  
1858年 - イギリス国会議事堂の時計塔に、重さ13.5t、高さ2.2m、直径2.9mの大時鐘が完成。工事責任者ベンジャミン・ホール卿に因み、ビッグ・ベンと命名される。ビッグ・ベンは、現在では転じて、時計台全体・大時計そのものの名称として使われている。時計台の高さは96.3m。下部の61mは煉瓦造、残りの高さは鋳鉄の尖塔からなっている。時計の文字盤は地上55mに位置している。地下鉄ジュビリー線の延伸等で地盤状態が建設時とは変化し、時計台は僅かに北西へ傾いている。傾斜度は約1/250、文字盤の位置でおよそ220mm程である。大時鐘ビッグ・ベンが初めて鳴らされたのは、1859年7月11日であるが、その9月、運用開始から僅か約2か月で、鐘の舌によるひびが入ってしまう。その後3年間は、四半時鐘(15分鐘)の内で、最低音の鐘が時鐘を鳴らしている。修繕では、より軽い舌を取付け、ひびが広がらないように、ひびの縁に四角い穴を開ける。さらに、新しい舌が損傷のあった箇所を叩かないよう、鐘の向きは1/8回転される。これが現在の大時鐘であり、以来、このひびが鐘に独特の音色を与えている。毎日正午に奏でられるビッグベンの鐘のメロディは、四つの音で奏でられる、日本の学校でお馴染みのチャイムのメロディの基となった、とされる。正式な曲名は、ウェストミンスターの鐘という。 
1866年 - 「動物虐待の防止のための効果的な手段を合衆国に提供する」という活動理念の非営利団体(NPO)、アメリカ動物虐待防止協会が設立される。アメリカ合衆国のこの種の団体としては最古で、行政からの資金は一切受付けていない。団体は、全国の支援者からの寄付金によって運営されている。 
1874年 - 征韓論争に敗れ、明治政府の要職を辞していた板垣退助らが、高知で日本初の政治結社「立志社」を結成。「立志社」は、人民主権・一院制議会・周到な人権保障等、民主主義の理念に貫かれた立志社憲法見込案を発表する等の国会期成同盟の中心的役割を果たす。『海南新誌』『土陽雑誌』『土陽新聞』といった出版物を発行し、教育機関の立志学舎で近代的な教育を行なう等、民権思想の普及に努めるが、1883年に解散している。 
1876年 - 日蓮宗不受不施派の再興が認められる。不受不施義とは、鎌倉時代の僧で鎌倉仏教の宗旨の1つである日蓮宗 (法華宗) の宗祖、日蓮における思想の1つで、不受とは法華信者以外の布施を受けないこと、不施とは法華信者以外の供養を施さないことである。不受不施派は、キリスト教と同じく「邪宗門」と位置付けられ、江戸時代を通じて禁圧を受けたが、派内で内紛が生じて再興されることになる。 
1886年 - 「師範学校令(明治19年4月10日勅令第15号)」公布。「師範学校令」は、初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした師範学校に関して定めている。後の1898年に「師範教育令(明治30年10月9日勅令第346号)」の施行により廃止され、「師範教育令」も、1947年の「学校教育法(昭和22年3月31日法律第26号)」の施行により廃止される。 
1886年 - 「小学校令(第一次、明治19年4月10日勅令第14号)」公布。後の1890年に「小学校令(第二次、明治23年10月7日勅令第215号)」、1900年に「小学校令(第三次、明治33年8月20日勅令第344号)」と改正を重ね、1941年に「国民学校令(昭和16年3月1日勅令第148号)」に改題の上、全部改正される。この「国民学校令」も1947年の「学校教育法(昭和22年3月31日法律第26号)」の施行により廃止される。 
1886年 - 「中学校令(第一次、明治19年4月10日勅令第15号)」公布。「中学校令」は、近代日本の中等教育機関のうち、中学校(いわゆる旧制中学校)を規定していた勅令である。その後1899年に全部改正されて「中学校令(第二次、明治32年2月7日勅令第28号)」となり、1943年に公布された「中等学校令(昭和18年1月21日勅令第36号)」によって廃止される。この「中等学校令」も1947年の「学校教育法(昭和22年3月31日法律第26号)」の施行により廃止される。