4月9日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2火曜日 旧暦  3月 1日、先負(癸卯)、月齢  0.4  
グレゴリオ暦で年始から100日目、年末まであと266日。
誕生花 サクラ・アカシア。

二十四節気・雑節等
新月。
朔。朔とは、月と太陽の視黄経(天球上における太陽の見掛けの通り道[大円])が等しくなること、また、その時刻のことである。現代的な定義での新月と同義である。地球から見て月と太陽が同じ方向となり、月から反射した太陽光が地球に殆ど届かないことと、強い太陽光の影響とで地上からは月が見にくい。黄道と白道が極めて近いか重なる地点(月の交点)で朔となった場合に食である日食が起こる。朔の瞬間を含む日を朔日という。陰暦(太陰太陽暦を含む太陰暦)では、朔日を月の始まる日「1日」とする。月の始まりは「月立ち(つきたち)」が転じて「ついたち」と言うため、朔日は「ついたち」と訓読みし、「朔」だけでも「ついたち」と読む。新月は、本来は朔の後に初めて見える月のことである。陰暦二日までは月は殆ど見えないので、陰暦三日頃の月(三日月)が新月となる。
雁水へ帰る。
七十二候の1つ(14候)。

大仏の日、大仏開眼の日。
752(天平勝宝4)年、現在の奈良市雑司町にある東大寺の大仏開眼供養(大仏の目に、筆で瞳を書入れる儀式)が行なわれた。一般に、「奈良の大仏」として知られる東大寺盧舎那仏像は、東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)である。第45代天皇、聖武天皇の発願で745(天平17)年に制作が開始され、752(天平勝宝4)年のこの日に開眼供養会(魂入れの儀式)が行なわれた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で、現在まで残るのはごく一部である。それでも、「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。延べ約260万名が工事に係わったとされ、経済効果(生産活動において、どの位「お金が動くのか」という目安を示す研究成果)を多く発表している、経済学者で関西大学教授の宮本勝浩らが、平安時代後期に作成された東大寺の寺誌『東大寺要録』を元に行なった試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は、現在の価格にすると約4,657億円と算出された。大仏は当初、奈良ではなく、奈良時代に聖武天皇が近江国甲賀郡(後の滋賀県甲賀郡信楽町、現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮、紫香楽宮に近接する寺院、甲賀寺に造られる計画であった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐ等、不穏なできごとがあったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻ると共に、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。制作に携わった技術者の内、大仏師(造仏の中心人物)として仏師の国中連公麻呂(国中国公麻呂とも)、鋳師(鋳物師、主に鉄・アルミ合金・銅・真鍮等の金属材料を、融点よりも高い温度で熱して液体にした後、型に流し込み、冷やして目的の形状に固める加工方法である鋳造を行なう工人)として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后(聖武天皇の皇后)、第46代天皇、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千名に及んだという。開眼導師(法要の中心人物)はインド出身の僧、菩提僊那が担当した。大仏と大仏殿はその後、1180(治承4)年と1567(永禄10)年の2回焼失して、その都度、時の権力者の支援を得て再興されている。武士としては初めて太政大臣(司法・行政・立法を司る最高国家機関、太政官の長官)に任ぜられ、政治の実権を握っていた平清盛の命を受けた平重衡(平清盛の五男)ら平氏軍が、平氏政権に反抗的な態度を取続けた東大寺や興福寺等、奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件、南都焼討の際、奈良の主要部を巻込む大火災が発生し、東大寺は金堂(大仏殿)等、主要建築物の殆どを失った。大仏殿は、1190(建久元)年に再建され、1195(建久6)年の落慶法要には、鎌倉幕府初代将軍源頼朝等も列席した。1567(永禄10)年、室町幕府の主導者として、幕政の実権を掌握し、畿内(現在の奈良県の全域と、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部に相当する地域)の支配者として君臨した三好長慶の病死後、一族の重鎮として活動していた三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と、三好長慶の嫡男(正室が生んだ長男)、三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられる等、主君の嫡男と同格の扱いを受ける程の地位を得ていた松永久秀が争い、松永久秀軍は、三好三人衆軍が本陣を置いていた東大寺を奇襲し、その兵火により、東大寺大仏殿は再び焼失する。その後、仮の仏堂が建設されたが、1610(慶長15)年の暴風で倒壊した。江戸時代前期の僧侶、公慶は、大仏が露座のまま雨ざらしとなっていることを嘆き、大仏殿再建を決意する。江戸幕府の許可を得て全国に勧進(寺院や仏像等の新造、或いは修復や再建のため、浄財の寄付を求める行為)を進め、その額は1万1千両にまで達した。これは、現在の貨幣価値に換算するとおよそ10億円にも及ぶ。江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の援助もあり、1692(元禄5)年には大仏の修理が完成し、開眼法要を行なった。公慶は、大仏殿の落慶(完成祝い)を見ることなく、1705(宝永2)年に没したが、公慶没後4年目となる1709(宝永6)年、新たな大仏殿は落慶を迎えた。現在の東大寺に見られる大仏殿と、中門や廻廊、東西楽門は、この時に再建されたものである。現存の大仏は、像の高さ約14.7m、基壇の周囲は約70mで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部等に、一部建立当時の天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経(時間も空間も超越した、絶対的な存在としての仏という存在について説いた経典)の世界観を表わす画像も、天平時代(8世紀初めから中頃まで)の造形遺品として貴重である。現存の大仏殿は、正面の幅(東西)57.5m、奥行50.5m、棟までの高さ49.1mである。高さと奥行は創建当時とほぼ同じであるが、幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている。東大寺大仏殿は、世界最大の木造建築として広く知られていたが、近代には集成材や構造用合板等の建築資材の発達により、アメリカ合衆国北西部、オレゴン州ティラムックにある、第二次世界大戦中のプロペラ機を主に展示している博物館、ティラムーク航空博物館や、秋田県大館市にあるドーム球場、大館樹海ドーム等、東大寺大仏殿より大きな木造建築が建造されている。主に柱や梁といった軸組(線材)で支える構造の木造軸組建築(日本で古くから発達してきた伝統工法を簡略化・発展させた構法で、設計自由度が比較的高めの工法であり、在来工法とも呼ばれている)としては、現在でも世界最大となっている。 大仏殿の内部には、大仏の鼻の穴と同じ大きさと言われる穴が開いた柱があり、そこを潜ることを「柱くぐり」と言う。そこを潜り抜けられれば、その年にいいことがある、或いは、頭が良くなる等と言われている。東大寺大仏殿では、1879(明治12)年から1915(大正4)年までに修理が行なわれた。これは、瓦の重量に屋根が耐えられなくなったためであり、内部に鉄のトラス(部材の節点をピン接合[自由に回転する支点]とし、三角形を基本にして組んだ構造のもの)を渡した上、瓦の重なり部分を少なくして、瓦の数を減らす等の対処が行なわれた。しかし、雨漏り等の問題が生じ、1973(昭和48)年から1980(昭和55)年にかけて期間で再修理が行なわれた。この際は、現代の技術で軽量化された瓦が採用され、瓦の重なりは旧に復した。 
食と野菜ソムリエの日。 
野菜や果物のある豊かな食生活を提起する日として、日本ベジタブル&フルーツマイスター協会が制定。日付は、4月9日の「4」と「9」で、「食(し[4]ょく[9])」の語呂合わせから。野菜や果物の魅力を伝える人材(野菜ソムリエ等)を通じて、食を楽しむ社会の実現をアピールし、食事に関して考え、家族と食事をする日に、等がその目的。東京都渋谷区宇田川町に事務局を置く日本ベジタブル&フルーツマイスター協会は、2010(平成22)年に日本野菜ソムリエ協会と名称変更し、現在では一般社団法人となっている。「生産者と生活者の架け橋となること」を使命とする「野菜ソムリエ」は、日本野菜ソムリエ協会が認定する民間資格で、毎日の食生活に欠かせない野菜や果物の目利き、栄養、素材に合った料理法、盛付け方等の幅広い専門の知識を持っていることを認定する。2010(平成22)年3月までは、「ベジタブル&フルーツマイスター」という名称であった。メディア等での露出により、「野菜ソムリエ」が一般的に定着したため、親しみ易い名称として改訂された。芸能人にも資格取得者が急増しており、モデル・タレントの長谷川理恵や、スポーツキャスター・コメンテーター・タレントの王理恵、タレントの山口もえ等が資格を取得している。