4月8日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

忠犬ハチ公の日、忠犬ハチ公慰霊祭。
忠犬ハチ公銅像及び秋田犬群像維持会が制定。1936(昭和11)年4月8日、東京府東京市渋谷区道玄坂(現在の東京都渋谷区道玄坂)にある渋谷駅前で、銅像にもなっている忠犬ハチの最初の慰霊祭が行なわれた。ハチの命日は、1935(昭和10)年の3月8日。その翌年となる1936(昭和11)年から、桜の季節に合わせて、この日に慰霊祭が行なわれている。忠犬ハチ公は、死去した飼い主の帰りを渋谷駅の前で、約9年間待ち続けたという犬である。犬種は秋田犬で、名前はハチ。ハチ公の愛称でも呼ばれている。渋谷駅前のハチ公銅像は、いつしか待合わせの目印として使われるようになり、その銅像周囲は待合わせ場所として、「ハチ公前」等として親しまれている。ハチの飼い主は、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区)に住んでいた東京帝国大学農学部(現在の東京大学農学部の前身)教授、上野英三郎であった。上野英三郎は大変な愛犬家であり、出掛ける時には渋谷駅までハチを伴なうことも多かった。しかしながら、ハチを飼い始めた翌年に当たる1925(大正14)年、上野英三郎は急死した。上野英三郎の死後も、渋谷駅前で亡くなった飼い主の帰りを毎日待ち続けたハチの姿は、「いとしや老犬物語」というタイトルで新聞記事に掲載され、人々に感銘を与えた。渋谷駅前に現れ、故主を待つようになったハチは、通行人や商売人からしばしば虐待を受けたり、子どもの悪戯の対象となっていたが、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれ、可愛がられるようになる。ハチに食べ物を持参する者も多く現れるようになり、また、その人気から、渋谷駅はハチが駅で寝泊りすることを許すようになった。ハチの晩年を写した写真では左耳が垂れているが、これは生まれつきのものではなく、野犬に噛み付かれた際の後遺症である。さらに、1934(昭和9)年には、渋谷駅前にハチの銅像が設置されることとなり、その除幕式にはハチ自身も参列した。同じく1934(昭和9)年に、尋常小学校(現在の小学校に相当する)2年生の修身の教科書にも、「恩ヲ忘レルナ」というハチの物語が採用された。ハチの死後、渋谷駅では3月12日にハチの告別式が行なわれ、上野英三郎の妻、上野八重等、多数が参列した。また、渋谷駅近くの宮益坂にあった妙祐寺の僧侶等、16名による読経が行なわれ、花環25、生花200、手紙や電報が180、200円(現在の価値に換算すると、約400,000円)を超える香典等、人間さながらの葬儀が執り行なわれた。ハチは、上野英三郎と同じ青山霊園(現在の東京都港区南青山にある東京都立の霊園)に葬られ、その墓は亡き主人の墓のすぐ隣に寄添うように立てられた。第二次世界大戦中、国内情勢から金属物資の不足が深刻化したことから、1944(昭和19)年10月、ハチ公像は金属供出されることになり(表向きは「撤去」という扱い)、像に日本国旗のたすきを掛ける等の「出陣式」が行なわれた。第二次世界大戦終戦後の1948(昭和23)年8月、ハチ公像は再建された。敗戦後の日本は当時、連合国軍の占領下にあったものの、忠犬ハチ公の物語は、第二次世界大戦前から外国にも紹介されて知られており、再建に当たっては、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の愛犬家有志も有形無形の力となったと伝えられ、この再建像の除幕式である8月15日には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の代表も参列した。再建される前には名称の問題があり、軍国主義を思い出せる「忠犬」という言葉ではなく「愛犬」ハチ公にしようという意見があったが、最終的に「忠犬」のままとなった。また、再建直後の同年8月30日には、来日したアメリカの社会福祉事業家・教育家・著作家、ヘレン・ケラーが渋谷駅前を訪れて、ハチ公像に触れている。1960年代ではハチ公像の知名度は高かったが、ハチ公の歴史について知っている人は少なかった。1980年代に東急グループ(東京急行電鉄[東急]を中核とする、交通・不動産・レジャー・サービス・リゾート/ホテル等の企業グループ)が、映画等によってハチ公を渋谷駅のランドマークにしていったことで、再びハチ公の由来が有名になっていった。ハチ公像建立五十周年に当たる1984(昭和59)年4月8日のハチ公祭りにおいて、東京大学農学部農学資料館に展示されている上野英三郎胸像が特別に運び込まれ、銅像同士の再会を果たす。ハチ公像が設置されている広場に繋がる渋谷駅の玄関口には、「ハチ公口」という名称が付き、渋谷のスクランブル交差点に繋がる人通りの多い場所であり、待合わせの名所としても知られる。再建当時は、駅前広場の中央に鎮座していた忠犬ハチ公像であるが、1989(平成元)年5月に駅前広場が拡張された際に移動され、同時に、それまでの北向きから東向き(ハチ公口方向)に修正され、駅の出口の方向へハチの顔が向く形となった。また、像の台座の高さも、像に触れ易い高さに変更された。1987(昭和62)年、ハチ公の生涯を、実話に基づき創作を加えて描いた映画『ハチ公物語』が公開され、配給収入(映画の売上総額である興行収入から、映画館[興行側]の取り分を差引いた配給会社の収益)が20億円を超えるヒット作となった。2007(平成19)年には、アメリカ合衆国の俳優リチャード・ギア主演によるリメイク版が制作が決定され、『HACHI 約束の犬』の邦題で2009(平成21)年8月8日に公開された。映画公開直前の7月7日、日本好きとしても知られ、愛犬家でもある主演のリチャード・ギアが、『HACHI 約束の犬』のPRのため渋谷駅前を訪れ 、「ハチ公銅像訪問記念セレモニー」において、「ついに初めて本当のハチに会えました。今日は本当に幸せで、光栄な気分です」と語り、ハチ公像の首に花輪を掛けた。現在、渋谷駅前にあるハチ公の銅像は2代目になる。初代は1934(昭和9)年に建てられたが、第二次世界大戦戦時中の金属供出で失われた。現在の銅像は、1948(昭和23)年に、東京・渋谷生まれの彫刻家、安藤士が手掛けたもので、高さは85cm、幅は65cmとなっている。左耳が垂れているのは、安藤士が中学生の時に見た、晩年のハチの姿を再現している。安藤士は、リチャード・ギアの「ハチ公銅像訪問記念セレモニー」にも出席している。ハチの生まれ故郷である、秋田県大館市の東日本旅客鉄道(JR東日本)大館駅前にも、ハチ公の銅像はある。こちらの銅像は、若い頃のハチをモデルにしたため、両耳がピンと立っている。渋谷の初代ハチ公像が完成した翌年の1935(昭和10)年に建てられたが、第二次世界大戦中の金属供出で、渋谷駅の像と共に姿を消した。大館市民の強い思いから、大館駅前に再びお目見えしたのは、約40年経った1987(昭和62)年のことで、大館においても、1991(平成3)年から毎年、4月8日に慰霊祭が開かれている。忠犬ハチ公の飼い主として知られる上野英三郎は、日本の農業土木、農業工学、農業農村工学の創始者でもある。三重県一志郡本村(後の三重県久居市、現在の三重県津市久居元町)出身で、農業土木技術員養成官として、3,000名を越える技術者の育成に努めた。上野英三郎から指導を受けた技術者は、1923(大正12)年に発生した大正関東地震(関東大震災)後、政府主導で行なわれた帝都復興事業において重要な役割を占めた。上野英三郎の生誕地である三重県津市久居地域では、「上野とハチが一対となった銅像」の設置を目的として、募金活動を行なう等した。その結果、2012(平成24)年10月、近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線の久居駅東口に、この一対になった銅像が完成し、10月20日に除幕式が行なわれた。