4月6日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

城の日、しろの日。
4月6日の「4」と「6」で、「城(し[4]ろ[6])」の語呂合せから。東京都品川区西五反田に所在する財団法人日本城郭協会(現在は、公益財団法人日本城郭協会となっている)が、1974(昭和49)年度の事業として、4月6日を「城の日」と定めた。1992(平成4)年に全国的な普及キャンペーンを行ない、現在では、各地の城でも、天守の無料開放等の行事を行なうことが多くなっている。この日は、多くの城で桜が咲く頃でもある。また、1990(平成2)年に日本三大名城(姫路城、名古屋城、熊本城)の1つである姫路城が所在する兵庫県姫路市も、「しろの日」を制定している。兵庫県姫路市は、姫路市制100周年を記念した「ふるさと創生事業」を実施するために市民からアイデアを募集し、入選25件を決定。この中の優秀賞の1つに「しろの日」があり、姫路城を国内外にアピールするため、イベントを始めた。以来毎年、桜が美しいこの日を中心に、観桜会やお花見太鼓等、姫路城を中心としたイベントを行なっている。さらに、愛知県名古屋市のシンボルでもある名古屋城でも、2002(平成14)年に語呂合わせで、「城の日」と制定した。日本の城は、古代から江戸末期までに平地や丘陵、山を利用して築かれた。しかし、日本における城は、古代と中世以降で使われている土木、建築技術や用途が多少異なる。現在までに、城(しろ)と言われているものは、中世から明治時代までに築かれたもので、武家や城主等が日本国内の敵対する武力集団から守るための防衛施設である。古代、日本では「城」を「き」と読み、「柵」の字も用いた。「柵」は主に、大和朝廷の東北地方の政治行政施設を併設する防御施設を意味する。「城」は、水城(現在の福岡県太宰府市・大野城市・春日市にあった古代日本の城)や大野城(現在の福岡県大野城市・糟屋郡宇美町にあった日本の古代山城)のような西日本に点在した、古代山城や防壁の類いを意味する。663(天智天皇2)年の白村江の戦い(現在の韓国中西部に所在する白村江で行なわれた、唐[中国唐朝]・新羅[古代の朝鮮半島南東部にあった国家]連合軍との戦い)に敗れた大和朝廷は、敵対した唐や新羅からの侵攻を想定して、連合を組んでいた百済国(古代の朝鮮半島南西部にあった国家)の人々の指導によって築かれた防御施設で、版築(土を建材に用い強く突き固める方法で、堅固な土壁や建築の基礎部分を徐々に高く構築する工法)土塁の外郭城壁を持つ特徴があったが、後の中世以降の築城技術へとは継承されることはなかった。中世、戦国時代では、小高い丘陵から山岳までの山に、棚田のように幾つもの曲輪を形成して、簡易な小屋や物見櫓、城門等を仮設した。一方で、麓の平地には堀を穿ち、堀の内側に土を盛って土塁とし、出入り口である虎口には城門を建て、土塁の上には仮設の塀や櫓を建てて攻め手の侵入を防いだ。戦国時代中頃まで弓矢や槍が中心であった古来の戦い方に、新たにポルトガルから伝わった火縄銃(板バネ仕掛けに火の付いた火縄を挟んでおき、発射時に引き金を引くと仕掛けが作動して、火縄が発射薬に接して点火する構造の銃)が加わったことで、それまで矢や槍を防げるだけの塀や建物に、防弾を考慮する必要が生じることとなった。織田氏や豊臣氏の台頭する時代から、徳川氏が政権を樹立した江戸時代までの城は、こうした銃器に対する策として、内部に石や瓦礫を入れた分厚い土壁(太鼓壁)や、主に寺院に使われていた屋根瓦、そして石垣が多用されることとなる。城地の選択も、主力であった山や山岳から、より利便性の高い平地や平地に近い丘陵にも多く築かれるようになり、山城の麓に館を営んで生活や政務を行なっていた城主や領主は、それまで有事の時にだけ篭っていた城内に、生活の場所を移すようになった。この城郭の利便性の追求と建築の恒久化は、寺院建築や住宅建築の特徴を多く取入れ、日本城郭特有の天守のような、重層な櫓の要素を持った楼閣建築を発生させることとなった。このように、城の外観には戦うためだけのものというだけではなく、内外に見せて主の権威を高める目的も含まれるようになり、現在まで日本で見られるような独特な形式の城となった。明治時代に入ると、各地の城郭は、国の防衛と治安維持を管轄する機関で、現在の防衛省に相当する兵部省(後の日本陸軍の軍政[軍事組織を管理運営するための行政活動]機関、陸軍省)の所管となった。1873(明治6)年に布告された「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)」によって廃城処分(大蔵省[現在の財務省の前身]所管)となった城は、旧城の建物が撤去され、自治体の役所や学校等が置かれたり、公園や神社の境内として一般利用されたものもあった。なお、「廃城令」「城郭取壊令」「存城廃城令」等と略されて使用されている場合が多い「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」は、明治政府において、1873(明治6)年1月14日に太政官(当時の最高行政機関)から陸軍省に発せられた太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシムの件(明治6年1月14日太政官達)」、及び、同じく大蔵省に発せられた太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ廃止ノ地所建物木石等大蔵省ニ処分セシムの件(明治6年1月14日太政官達)」の総称である。「廃城処分」とは、大蔵省の裁量によって処分することである。滋賀県彦根市にある彦根城や、愛知県犬山市にある犬山城のように、元城主が邸宅として居住した例もある。一方、存城処分となった城は、引続き陸軍省の所管となり、日本陸軍が駐屯した。いずれも、軍の施設や公共施設を設置するために、不要な建物や老朽化の進んだ建物、維持が困難となった建物は撤去されていったが、愛知県名古屋市中区・北区にある名古屋城や姫路城に代表される一部の城郭建築については、保存運動が行なわれた。1930(昭和5)年と1931(昭和6)年、「国宝保存法(昭和4年3月28日法律第17号)」(「文化財保護法[昭和25年5月30日法律第214号]」の制定により、1950[昭和25]年に廃止される)で、城郭建築200棟が国宝に指定され、現存天守は、指定を受けなかった彦根城天守を含めて19棟を数えた。しかし、日本陸軍の駐屯地となっていた城跡は、第二次世界大戦対米英戦中にアメリカ軍の爆撃目標とされ、1945(昭和20)年には、空襲や原子爆弾の投下等により、名古屋城、岡山城(岡山市北区)、和歌山城(和歌山市一番丁)、広島城(広島市中区)、福山城(広島県福山市丸之内)、大垣城(岐阜県大垣市郭町)の天守6棟を含めて、1930(昭和5)年以降に国宝(現行の「文化財保護法」の国の重要文化財に相当)に指定されていた現存建築約60棟が損失した。現在は、姫路城や高知城(高知市丸ノ内)等の現存12天守の他に、大坂城(大阪市中央区大阪城)や名古屋城等、各地に櫓や門、塀、御殿等の一部が現存する。国の重要文化財に指定されているものでは、城門は62棟、櫓は61棟ある。この他にも、府県・市町村の文化財に指定されている城郭建築がある。また、さらには、姫路城と、古都京都の文化財の1つとして、京都市中京区にある二条城が、現存建築群を含めて、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されている。福井県坂井市丸岡町霞に所在した丸岡城(別名は霞ヶ城)は、福井平野丸岡市街地の東に位置する、小高い独立した丘陵に築かれた平山城である。近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。天守は重要文化財に指定されており、石垣が現存している。「霞ヶ城」という別名の由来は、合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。北陸地方で、現存する天守は丸岡城のみで、その天守は、安土桃山時代の建造と推定されていたが、福井県坂井市教育委員会の調査で、江戸時代初期の寛永年間(1624年から1644年まで)に建造されたことが判明し、福井県坂井市教育委員会が2019(平成31)年3月26日に発表した。独立式望楼型2重3階で、1階平面を天守台に余分を持たせて造られているため、天守台を被せるような腰屋根が掛けられている、現在見られる天守は、1948(昭和23)年に発生した都市直下型地震、福井地震によって倒壊した後、1955(昭和30)年に部材を約70%以上再利用し、組直して修復再建されたものである。 
あなたの進路を考える日。
東京都新宿区百人町に本社を置く、高校生が確かな進路選択ができるようにと、1人ひとりの生徒にあった進路サポートを提供する企業、株式会社ライセンスアカデミーが制定。日付は、高校の新年度のスタートの日がこの頃に多いことと、「進路(し[4]んろ[6])」と読む語呂合わせから、4月6日を記念日とした。高校生が自分のこれからの将来について考えたり、情報収集をするきっかけの日、とすることが目的。株式会社ライセンスアカデミーでは、この日を中心として、高校生のための大学や短期大学、専門学校、就職等の相談会を開催する。1974(昭和49)年創立の株式会社ライセンスアカデミーは、企業理念として「社員の幸福の追求と日本や世界の国への社会貢献」を、経営理念として「志を持って仕事をし、仕事を通じて、感動を創造する」を掲げる。