4月5日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0585年 - 大連(有力豪族)で、仏教排斥を唱える物部守屋が、疫病の流行する原因が、仏教崇拝にあると奏上(天皇に申上げること)する。 
1654年 - ウェストミンスター条約締結により、第1次英蘭戦争が終結する。英蘭戦争は、17世紀後半の三次に亘る、イングランドとネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)との戦争である。17世紀始めには、英蘭両国は、カトリックのスペイン・ポルトガル勢力に対して協力関係にあったが、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いたオランダ東インド会社の実力が、アジア貿易の独占権を認められ、17世紀から19世紀半ばにかけて、アジア各地の植民地経営や交易に従事したイギリス東インド会社を上回り、1623年のアンボイナ事件を契機に、イングランドは東南アジアや東アジアから撤退せざるを得なくなる。インドネシア東部、モルッカ諸島南方のセラム島の南西に位置する小島で、クローブ等の香料を産することで知られるアンボイナ島(アンボン島)で、イギリス商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害する。これにより、イギリス(イングランド)の香辛料貿易は頓挫し、オランダがアンボイナ島の権益を独占。イギリス(イングランド)は東南アジアから撤退し、インドへ矛先を向けることとなる。香料貿易を独占したオランダにはアジアの富が流入し、イングランドでは反オランダ感情が高まる。1651年に制定されたイングランドの航海条例(イングランドの貿易を、イングランド船に限定した法律)をきっかけに、1652年から、イングランド艦隊は、東インド等からアジアの富を満載して帰国するオランダ船団を、イギリス(イングランドの所在するグレートブリテン島)とフランス(ヨーロッパ大陸)を隔てている海峡、イギリス海峡で襲撃し、拿捕し始める。これに対抗したオランダ海軍は、イングランド艦隊に敗れ、オランダはイギリス海峡の制海権を失う。1654年に至り、オランダが航海条例を承認することで、公海上でのイギリスの優位を認めると共に、賠償金を支払う等の条件で講和条約が成立し、イングランドとオランダとの戦争は、一先ず終わりを告げる。その後も二度、イングランドとオランダは戦うが、戦争は海戦が中心で、双方とも相手方の本土に侵攻することはなく、いずれも中途半端な結果に終わっている。 
1722年 - オーストラリア大陸を求めて艦隊を率い、太平洋洋上を探検していたオランダ海軍提督、ヤーコプ・ロッヘフェーンが南アメリカ南西部、チリ領の太平洋上に位置する火山島で、最も近い有人島まで直線距離2,000km余と、周囲には殆ど島らしい島が存在しない絶海の孤島、イースター島を発見。発見日が復活祭(イースター)であったことに因んで名付けられる。イースター島の正式名はパスクア島であるが、日本では英称で呼ばれることが多い。人面を模した石造彫刻、モアイの建つ島である。7世紀から8世紀頃に、プラットホーム状に作られた石の祭壇(アフ)作りが始まり、遅くとも10世紀頃にはモアイも作られるようになったとされる。他のポリネシアの地域と違っていたのは、島が完全に孤立していたため外敵の脅威が全くなく、加工し易い軟らかな凝灰岩が大量に存在していたことである。よく、モアイは「海を背に立っている」と言われているが、海沿いのものは海を背に、内陸部にのものは海を向いているものもあり、正確には集落を守るように立てられている。祭壇の上に建てられたものの中で最大のものは、高さ約7.8m、重さ約80tにもなる。イースター島の近海は、海産資源豊富な漁場であり、特に、カタクチイワシが多く捕れる。全周は約60km、面積は約180平方kmであり、北海道の北部、日本海上に浮かぶほぼ円形の島、利尻島とほぼ同じ大きさである。1995年には、イースター島にあるチリの国立公園、ラパ・ヌイ国立公園が、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されている。 
1862年 - 南北戦争: ヨークタウンの包囲戦が始まる。 
1869年 - 東京奠都: 天皇の東京滞在中は、太政官を東京に置くことを決定。太政官は、明治維新政府に設けられた官庁名である。1868年6月11日に公布された明治初期の政治大綱、統治機構について定めた布告である「政体書(慶応4年太政官達第331号)」に基づいて置かれ、当初は、議政官以下7官の総称であり、翌1869年の官制改革で、民部省以下6省を管轄することとなる。後に、長官として太政大臣が置かれたが、1885年、内閣制度が発足したことに伴ない廃止される。なお、「東京奠都」と「東京遷都」の語の使い方を巡っては議論がある。一義的には、「奠都」は都を定めることを表わすのに対して、「遷都」は都を移すことをいうが、天皇や政治中枢の移動を伴なえば、実質的にはほぼ同じ意味であり、この場合は、旧都を廃することを含んでいるかどうかが論点となる。現代では一般に、「遷都」の語は首都移転の意味にも使われ、「首都が東京に移った」等とも表現される。現在に至るまで法令上、「首都」の定義・規定はなされておらず、日本における従来の「みやこ」(都・京)と「首都」との関係について定かになっている訳ではなく、第二次世界大戦前から戦後暫くまで「首都」という語は、その地方での主だった町(主都・主邑)をも指しており、必ずしも天皇の常住する帝都のみを指していた訳でもない。 
1872年 - 政府の軍事防衛に対する方針の転換により、兵部省(国の防衛と治安維持を管轄する機関で、現在の防衛省に相当する)を廃止し、陸軍と海軍の軍政(軍事組織を管理運営するための行政活動)を管轄する機関、陸軍省と海軍省を設置。両省は、1947年10月に廃止される。 
1879年 - 南アメリカ南西部に位置するチリが、南アメリカ中西部に位置するペルーとボリビアに宣戦布告、太平洋戦争が勃発する。この太平洋戦争は、1941年からの太平洋戦争(第二次世界大戦対米英戦)とは関係はない。南アメリカ大陸の太平洋岸の資源地帯を巡る戦争であり、係争3ヶ国の主要鉱石が硝石(窒素化合物の一種、硝酸カリウムが天然に産出する形態で、染料や肥料等、製造に窒素が必要な製品の原料として、昔から用いられてきた)であったことから、「硝石戦争」とも呼ばれる。「太平洋戦争」とは、スペイン語の直訳で、主に海戦が主体であったことによる。陸軍兵力ではペルーとボリビア側に有利であったが、海岸線の長いチリでは、イギリスの指導で海軍整備をしているのに対し、ボリビア海軍は長く続いた混乱のため未整備で、ペルー海軍のみでチリ海軍と戦うこととなる。制海権を掌握したチリは、陸軍もペルーの首都リマへ進攻する。そして、ペルー政府は1881年に降伏し、1884年には、ボリビアもチリと休戦しているが、正式に講和するのは1904年になってからとなる。
1904年 - 総武鉄道(現在の東日本旅客鉄道[JR東日本]総武本線を建設した鉄道会社)の本所駅(現在の錦糸町駅) - 両国橋駅(現在の両国駅)間(路線距離1.5km)が延伸開業する。
1914年 - 日本では数少なくなった、一般的な営業を行なう762mm軌間のナローゲージの鉄道路線[特殊狭軌線]の1つ、北勢鉄道(現在の三岐鉄道北勢線)の大山田駅(現在の西桑名駅) - 楚原駅間(路線距離14.5km)が開業。  
1915年 - 現在の広島市中区大手町に、広島県産製品の販路開拓拠点として建設された、広島県産業奨励館が竣工する。同年8月5日に開館した広島県産業奨励館は、明治末期から大正にかけて、主に日本で活動したチェコ人の建築家、ヤン・レッツェルの設計によるもので、1945年8月6日、広島への原子爆弾(原爆)投下により、本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存する。第二次世界大戦対米英戦終結後、永久保存されることになり、広島市に投下された原子爆弾(原爆)の悲惨さを、今に伝える記念碑(被爆建造物)、広島平和記念碑(原爆ドームの名で知られる)として現存する。広島平和記念碑(原爆ドーム)は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いを米て、特に「負の世界遺産」と呼ばれている。なお、「負の世界遺産」とは、世界遺産の内、人類が犯した悲惨なできごとを伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる物件を指す、日本国内での用語である。ただ、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)が公式にそのような分類をしている訳ではなく、明確な定義は存在しない。 
1918年 - 日本とイギリスがロシア革命(十月革命)への干渉のため、陸戦隊(艦艇の運航を本務とする、水兵によって編成された陸上戦闘部隊)をロシアの極東部(沿海地方)に位置する都市、ウラジオストクに上陸させる。